沈黙の行軍 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「6:24 彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。銀や金、および青銅や鉄の器だけは【主】の家の宝物倉に納めた。
6:25 しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は【主】の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」
6:27 【主】がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。」

 

ペンテコステが終わって、

霊的堕落を経験する。

これは奉仕者の宿命だろう。

 

クリスマス、イースター、そしてペンテコステ、その三大セレモニーに仕えるマサキチとは、

本当に、分不相応のチッポケナ人間でしかないことを、その都度教えられる。

彼等の叫び声は、

エリコの住民を震え上がらせ、

ヨシュアのうわさは、この地にあまねく広まった。

震え上がったのは、マサキチだった。

 

霊的に小さくされて、私たちは、ヨシュアのようではないことを自覚させられる。

しかし、ヨシュアのようではないけれど、

私たちにも、この世における任務が存在する。

それは、主を待ち望むイスラエルの民の立場にあって、

沈黙のスラエルの霊性でもある。

 

私たちは落ち込んでお終いではない。

私たちは、神に背き続ける孤独の戦士でしかない。

我に返ってマサキチが見るのは、

エリコの破壊された町々の風景でしかないのだろうか。

聖絶された民と家畜の死骸でしかないのか。

そうじゃない、

私たちが見つづけなければならないのは、

キリストである。

マサキチ自身を見るのではなく、

イエスキリストを見つづけることこそ、

エリコ陥落の六日の沈黙である。

叫びは、神の日、七日目に一回だけ、

六日の沈黙は、イスラエルの民のために用意された沈黙の奉仕、

私たちは、

今日から、また続く不安や恐れを、見て慄くのではなく、

今日から始まる沈黙を受け継ぐべきである。

その沈黙とは、

御子イエスキリストを見つづける沈黙の行軍です。

安心して進む行軍です。

神が、マサキチのために戦われる前夜のマサキチ自身の沈黙です。

安心して、ただ御子を見て進む行軍です。

御父は、また七日目、礼拝時に、マサキチの叫び声とともに、祝福してくださろう。

 

不安も悲しみも、見てはならぬ、

黙って、御子を見つづける六日(行軍)である。

六日の行軍は、

生きるための沈黙だ。

死ぬために、不安や恐怖に心が支配されることではない。

ペテロのように強風を見てしまうことではない、

自分自身の弱さを見て、

信仰を見失うことではない。

黙って、ただ主の恵みを待ち望む、

御子を見つづける行軍、神の憐みと恵みを待ち望む行軍(六日)である。

失意の中、不安と恐怖の中、心が慄(オノノ)くことなく、ただ憐みの主を見つづける信仰の沈黙である。

決して慄いてはならない、

何故なら、これはイスラエルの戦いなのではなく、

主の戦いだからだ。

ただ、沈黙を保つことのみ、

ただ、御子に信頼して、目を向けることのみ。

 

マサキチの沈黙の行軍を見て、

エリコの住民同様、

職場の人間も、

神を畏れるように変えらえるだろう。

 

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