ヨシ
「6:24 彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。銀や金、および青銅や鉄の器だけは【主】の家の宝物倉に納めた。
6:25 しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は【主】の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」
6:27 【主】がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。」
ペンテコステが終わって、
霊的堕落を経験する。
これは奉仕者の宿命だろう。
クリスマス、イースター、そしてペンテコステ、その三大セレモニーに仕えるマサキチとは、
本当に、分不相応のチッポケナ人間でしかないことを、その都度教えられる。
彼等の叫び声は、
エリコの住民を震え上がらせ、
ヨシュアのうわさは、この地にあまねく広まった。
震え上がったのは、マサキチだった。
霊的に小さくされて、私たちは、ヨシュアのようではないことを自覚させられる。
しかし、ヨシュアのようではないけれど、
私たちにも、この世における任務が存在する。
それは、主を待ち望むイスラエルの民の立場にあって、
沈黙のスラエルの霊性でもある。
私たちは落ち込んでお終いではない。
私たちは、神に背き続ける孤独の戦士でしかない。
我に返ってマサキチが見るのは、
エリコの破壊された町々の風景でしかないのだろうか。
聖絶された民と家畜の死骸でしかないのか。
そうじゃない、
私たちが見つづけなければならないのは、
キリストである。
マサキチ自身を見るのではなく、
イエスキリストを見つづけることこそ、
エリコ陥落の六日の沈黙である。
叫びは、神の日、七日目に一回だけ、
六日の沈黙は、イスラエルの民のために用意された沈黙の奉仕、
私たちは、
今日から、また続く不安や恐れを、見て慄くのではなく、
今日から始まる沈黙を受け継ぐべきである。
その沈黙とは、
御子イエスキリストを見つづける沈黙の行軍です。
安心して進む行軍です。
神が、マサキチのために戦われる前夜のマサキチ自身の沈黙です。
安心して、ただ御子を見て進む行軍です。
御父は、また七日目、礼拝時に、マサキチの叫び声とともに、祝福してくださろう。
不安も悲しみも、見てはならぬ、
黙って、御子を見つづける六日(行軍)である。
六日の行軍は、
生きるための沈黙だ。
死ぬために、不安や恐怖に心が支配されることではない。
ペテロのように強風を見てしまうことではない、
自分自身の弱さを見て、
信仰を見失うことではない。
黙って、ただ主の恵みを待ち望む、
御子を見つづける行軍、神の憐みと恵みを待ち望む行軍(六日)である。
失意の中、不安と恐怖の中、心が慄(オノノ)くことなく、ただ憐みの主を見つづける信仰の沈黙である。
決して慄いてはならない、
何故なら、これはイスラエルの戦いなのではなく、
主の戦いだからだ。
ただ、沈黙を保つことのみ、
ただ、御子に信頼して、目を向けることのみ。
マサキチの沈黙の行軍を見て、
エリコの住民同様、
職場の人間も、
神を畏れるように変えらえるだろう。
いってきます=