富む者 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

 ルカ
「16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 

私たちにとって、

モーセと預言者の言うことを聞くとは、

聖書のことである。

聖書を読んでも、神を畏れないで、

聞き従うことがないならば、

死人が生き返っても、

決して信仰生活に入ることはできまい。

 

主と共に歩む信仰者としての代表者が、

アブラハムである。

都合よく、

病気のときとか、

トラブったときのみ、

神様に祈り求めるのではなく、

日ごろから常に、神様を意識した生活を送れる、

そんな神を意識した人間でありたい。

アブラハムの時代とは、

確かに、

神様を意識しないでは生きて行くことは困難であった。

敵の侵略や災害病気、それに飢饉など、

多くの困難に直面していた時代であった。

 

私たちの時代とは、

そのような生命に直面する困難は存在しない。

だから、神様を求めなくても、生きていける、

総じて、神様を必要としなくなったと勘違いしやすい。

その現代の代表者が、

今日聖書箇所の「ラザロとお金持ち」のお話に出て来る

お金持ちである。

このお金持ちの勘違いとは何か?

それは、この世の豊さが絶対になってしまい、

人間とは必ず死ぬということを忘れてしまっていたことだ。

 

大丈夫観は、この世限りの快楽である。

私たちは、必ず死ぬ。

死ぬということは、自分だけが滅びることでは済まされない。

何故なら、人とは愛という関係性の中で生きているからだ。

いのちに生きるという概念は、

次の世界とは、御国で、永遠のいのちを生きることを意味するが、

それ以上の広がりがある。

永遠のいのちを信じて生きるとは、

今の快楽時代においても、いのちに生きることを意味している。

 

人とは、神に似て創造された、

だらか、神の愛を持っている。

いのちに生きるとは、

愛する人々のいのちと共に生きるということであって、

そのためには、快楽を捨てることも大切な点である。

霊にも仕え、お金にも仕えるとはできない。

いのちとは、霊に仕えることであって、

肉に仕えることではない。

 

もう一点、思わされたこと・・・

それは、

日本人は特に、人を意識しすぎる、

村八分になることを恐れて、

人間意識社会の奴隷状態が、日本人のように思える。

 

人を意識するレベルを下げて、

神を意識する生活をしてほしい、

人からどう思われようが、かまわない。

大切なことは、

アブラハムのように、

神に富む者とされているかがとても大切だ。

 

人から何を思われようがかまわない、

神様を意識する、

愛する人々のいのちを意識した生活者でありたい。

 

時代が違い過ぎてアブラハムのような信仰者にはなれずとも、

愛する人々のいのちを祈り求め、

アブラハムのように富む者でありたい。

 

いってきます=