ヨシュア記
「・・・・4:20 ヨシュアは、ヨルダン川から取ったあの十二の石をギルガルに積み上げ、
4:21 イスラエルの子らに言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに『この石はどういうものなのですか』と尋ねたときには、
4:22 あなたがたは子どもたちに『イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ』と知らせなさい。
4:23 あなたがたの神、【主】が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、【主】が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。
4:24 それは、地のあらゆる民が【主】の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、【主】を恐れるためである。」
私たちは、常に困難な局面に気落ちしたり、怯えてしまう。
それは、主を恐れる気持ちが逸れて、
直面した問題に心を奪われてしまった結果である。
人間は、自然と共に生活をしていく、
自然を学習して、物事の事象を悟るようにされる。
経済の問題においても、
ただ数字だけの問題では収まらないのは、
経済学が、自然問題と深く結びついているからだ。
水とは、必ず、高いところから、低いところへと流れるが、
その傾斜が少しでも傾けば、傾斜角度は、その流れる力に応じて大きくなり、
あっという間に激流へと変化する。
この慣性的自然現象は自然と学んできている。
これは、人間における心理でもあり、
それが、経済であったりする。
そのような現象は、
幼少のときから、人間は無意識に学んでいる。
だから、今直面している問題の波が大きいのか、大丈夫なのか、
すぐに反応してしまうし、それに乗じて感情のうねりが発生し、
人間とは、うろたえてたり、怯えたり、落ち込んだりしてしまう。
これらの自然によって身に付いた知恵とは、
無神論者の立場である。
私たちは、神様を信じているのだから、
自然に左右される必要はないはずなのだ。
しかし、実際には、信仰は薄くされ、あきらめてしまうことが多い。
それは、直面したモンスターが、
あまりにも大きく感じてしまうからだろう。
そんなとき、必死に祈れば、良いわけでもない。
何故なら、必死に祈れば、モンスターは撃退できたとしても、
その精神的疲労感は、喜びとか達成感を凌駕してしまうからだ。
何度も、何度も、モンスターが襲いかかれば、
何度も、何度も、必死に祈り、その精神的疲労感は、やがてその人の霊性を下げてしまうだろう。
私たちは、そんな疲労感を感じたら、
祈りが信仰と結びついていないことに気が付かなければならない。
風を見てしまったペテロを想像したい。
マタ
「14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。」
ペテロが、イエス様を見ず、
強風を見てしまって怖くなったことが書かれている。
強風とは、見ることができない自然だが、
あえて、「見てしまって」と書かれている通り、
ペテロは、漁師として学んできた知恵として、
その強風という自然を恐れてしまったのだ。
しかし、
ペテロの良かった点は、
イエス様のもとに、
水の上を歩いて行こうとした決心です。
それは、新鮮な新たな気持ちであり、希望であります。
イエス様への信頼は、希望となり、モンスターを意識することなく、
イエス様へと進む意思が与えられた。
しかし、その新鮮な、希望に支配されたペテロの人格は、
元の漁師として学んできた知恵・経験へと引き返してしまったのだ。
イエス様への希望を預かったペテロが、
徐々に、元のペテロへと押し流されてしまった場面である。
私たちにとって、直面する大きな問題、大きな壁とは、
自分自身の経験(主観)に無意識に信頼してしまう心の習性です。
しかし、本来、信仰とは、
イエス様への信頼が心の勝利者となり、
希望と恵みを求める意志によって、
恐怖心、失意を凌駕しなければならないのです。
逆を言えば、
困難があればこそ、
私たちは、イエス様へと恵みを求め、進む勇気が与えられているのです。
それは、イエス様に信頼できた者だけが受け取ることができた希望という勇気であって、自然という知恵ではありません。
誰もが不可能と思っていた現象、川がせき止められ、海が真っ二つに割れて壁となったのです。
その大自然を用いて、
神は、御自身を恐れることを学習させたのです。
十二の石は、その学習の記憶、思い出である。
困難は、人類をへこませる。
しかし、
神は、その困難不可能に思える現実を通して、
御自身を恐れさせることを教え、
主への信頼希望を教えているのです。
素晴らしい、主への希望を胸に秘め、進むことは、
どんな人生の処世術よりも、強い。
マサキチの壁を乗り越えるのは、
主を恐れ、そして信頼、希望である。
風を見ずして、主を見る訓練こそ、
直面した大きな壁(モンスター)が存在する所以であります。
立ち向かう勇気は、ただ主への信頼、希望によってでしか与えられない。
いってきます=