先導 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「3:1 ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。
3:2 三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、
3:3 民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。
3:4 あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。
3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、【主】があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
3:6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。」

 

 

さあ、出立だ。

ただ私たちが出立するには、次の五つの手順がある。

その後を進みなさい。

まず、契約の箱が先に出立する。

そして民である私たちは、その後を進む。

これは、私たちの行く道が、主によって導かれるのであり、

決して、人間様によって勝手に進む道ではないことが示される。

必ず、私たちの出立は、主が先導されることを知るべきだ。

道を知るためである。

そして、何故、主の後を進むのか?

それは、私たちが行くべき道を知らないかだら。

知っていると言う思いは、傲慢であり、

知らないという思いは、謙遜である。

私たち道を知らない者は、常に知るために、主に導かれて進む。

③この道を通ったことがないからだ。

何故、道を知るために、主に導かれる必要があるのか。

私たちは、未来のことを見たわけではない。

見たこともない道を、私たちは進む。

それは、未来への道、明日への道、今日から始まる一日である。

日常は何回も繰り返し、経験している。

だからと言って、同じ道を進むわけではない。

知っているという傲慢は、

主に従う心を忘れ、

主への意識が足りないことは、

主を見過ごすことに繋がる。

バラムがロバを鞭で打った罪を自覚しなければならない。

自分は知っているという思い違いは、

主が導かれることを軽視する。

④箱に近づいてはならない。

ただ、私たちは、箱に近づいてはならない。

ウザの介入を知らなければならない。

私たちは、レビでも祭司でもない。

私たちは、私たち自身の身の程をわきまえなければならない。

⑤自らを聖別しなさい。

そして、最後だが、

主に導かれるためには、主が先頭になって私たちを導かれるためには、

どうしても、私たち自身の身を聖別しなけれならない。

いいかげんな、生活から聖よい信仰へと導かれる必要がある。

前回、放蕩息子で見たように、

私たちは、ボロボロで主の前に出よう。

ですが、

大切な点は、

いつまでもボロボロでいてはいけないという点、

改心した者は、聖よい生き方を通して、

主に習う者を実践しなければならない。

何故ならば、

私たちが、主を信じたいというのは、私たちの意思であり、自由意思に近いが、

しかし、

私たちが、導かれるには、その導き手に相応しい者とされなければならないからだ。

もしも、昨日まで聖よくない生活をしている者でったなら、

そして、今日という日を、自分のために戦いたいならば、

今日という日を主に委ねなければならない。

もしも、主に導かれたいならば、

今日という朝、御子の十字架の血潮によって聖められるお祈りをしなければならない。

そして、キリストと一つとされて今日を生きなければならない。

私たちは、御子イエスキリストの十字架以外に、

身を聖別する手段はどこにも存在しないからだ。

 

さあ、出立だ。

病にある身ではあるが、

弱くされた身ではあるが、

それは、むしろ感謝なことだ。

何故なら、私自身は強いと勘違いしなくてすむからだ。

勘違いした結果、主の先導を見失い、

主の道に背くことをしなくてすむからだ。

弱さは、未然に人の罪を悟り、

謙遜は、主に導かれることを喜ぶからだ。

 

先導されるのは主であり、

マサキチは、その後方にゆっくりと進みたい。

今日という大変な日を、

聖霊の導きによって進んでいけたら幸いだ。使徒13:2

 

いってきます=