遠い国 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。」

 

私たちが、

何もかも上手くいかないように感じたり、

信仰がダメになりそうに感じたりする時とは、

その原因とは、

自分自身の精神的貧困さや、

霊性の低さにあると思います。

 

知性太りの現代、

なかなか、人間本来の良心にまで、

心が向きません。

そのために、今の時代とは、

人が生きるための知恵をなくした時代とも言えます。

そのような時代に、

SNSでも誹謗中傷したり、批判することが、

流行るのも当然でありましょう。

ですが、

私たちが、生きるために必要な知恵とは、

何か特殊な能力とか、

そういった技能や才能ではありません。

むしろ、人間が、「同じ一つ」を発見できるかどうかにかかっていると思います。

 

そのためには、

知恵に支配された人格から解放されなければなりません。

古い自我をキリストの十字架と一緒に葬りさり、

いのちにあって新しくされることが求められます。

 

新しくされるとは、

一つの経験(体験・思い出)です。

 

私たち信仰者とは、

何か神様を自分勝手な知性や感情で、

理解しようとしているのではないでしょうか。

ですから、

何か、不幸が訪れると、

自分自身の不信仰のせいにしたり、

神様の責任になすりつけたり、

果ては、信仰がシラケテしまうのです。

 

しかし、

私たちにとって、大切なことは、

神様の方から何かありがたいものや恵みを、

一方的にいただけることではありません。

私たちが、神様と一緒に生きて行きたいという意志(思い)があるかどうかだと思うのです。

当然、神様の方から、お前はダメだ、あっちへ行けとは言いません。

全て神様と共に歩みたいと思う人は全員大歓迎なのです。

神様の恵みだけではなくて、

神様と共に歩んで行きたい、生きて行きたい、

そんな思い(意志)がとても大切です。

少なくとも、

放蕩息子は、自分自身の意思で、

よし戻ろうと決心したわけです。

心の中で、

神様が必要なんだと分かったならば、

よしもう一度、聖書を読もう、

礼拝に出席しようと、

素直になって行動すればよいのです。

そこには、なんら「わだかまり」は必要ありません。

人間が知性を持てば、理屈で考えるでしょう。

正当性とか、必要性とか、

自分自身の心が割り切れる何かを求めたり、

けじめをつけられる何かを求めるでしょう。

その結果、なかなか前に進めません。

 

しかし、

神様を信じたいと思う気持ちは、

一つです。

同じ一つなのです。

 

全ての人間側からの知性なり道徳なりは必要ないです。

結婚式には、正装しなければいけないと、

勝手に思ってしまうことでしょう。

しかし、神様を信じるとは、

天皇陛下を謁見する時、

すす汚れた作業着でお会いするようなものです。

放蕩息子はどうだったでしょうか。

レンブラントの絵を見ると分かるけど、

ボロボロの服と破れたサンダルを履いて、

父の元に膝まづいていますよね。

私たちも、神様にお会いするからといって、

何も正装する必要はないと思います。

神様にお会いするに前日には、

深酒を止めて、

断食して、心を改めて、聖よい生活をしてからじゃないと

礼拝に参加できないとか、

そんなんじゃないと思います。

私たちは、みんな放蕩息子と同様で、

神様に会う資格なんかは全くないわけです。

ボロボロの状態で、神様の御前に出ればよいのです。

土曜の夜は、遊び過ぎて、日曜日朝帰りでも、

礼拝に参加すべきです。

礼拝に参加することは、大切な、その人の意志(思い)だからです。

 

逆を言えば、

そんな神様を信じる資格もない罪深い者が、

人生を生きて行くうえで、

もっとも大切なこととは、

神様を信じること、

そして、お仕えすることだと思うからです。

 

例話)ウエスレーと門番の会話

オックスフォード校、

青春を謳歌していた二十二歳のウエスレー

当時、霊的には危機状態だった。

だが、あるとき門番との会話を通して、

深い霊的感銘を受けた。

 

ウエスレー: 「帰って、もう一枚、上着を着ては  どうですか?」

門   番: 「これが、全世界に、ただ一枚の、わたしの上着なのですよ。でも有難いことです。」

ウエスレー: 「もう帰って、食事でもおやりなさい。」

門   番: 「今日は朝から水を一杯飲んだだけです。有難いことですよ。」

ウエスレー: 「もう遅いでしょう。締め出されたら、どうします。それでも有難いですか?」

門   番: 「ベッドの代用に、乾いた石がありますね。その上に寝られることを感謝しましょうよ。」

ウエスレー: 「ジョンよ、君は、着物も、食事も、ベッドもなくて、感謝しています。もっと他に感謝することがありますか?」

門   番: 「私が感謝に想っていますのは、まず、いのちを与えられていること、それに、神様を愛する心、神様にお仕えする心を与えられていることです。

 

その後、ウエスレーの進路は、牧師を目指すこととなった。

 

改心経験のない信者さんは、

放蕩息子の兄のように、

拗ねるでしょう。

弟ばかし、ひいきにしていてずるい。

父は、この者のためには何にもよくしてくれなかった、

だから、

神様を信じる必要性を感じない。

 

しかし、本当に神様を求めている人とは、

神様がよくしてくれようが、しまいが、

神様と共に歩むことを選択するのです。

ただ神様と共に歩めること、仕えることを喜ぶことが、

信仰者が年齢(経験)を重ねるということだと思います。

 

湯水のように財産を使い果たして一文無しになって帰ってきた弟を、

父がお祝いをしているのを知って、

兄は、大変な怒りが込上げてきたわけですが、

怒りとは、自分自身を正当化した結果の感情表現です。

我慢も怒りと同様でしょう。

自分を正当化した結果です。

何故、自分を正当化したのでしょうか。

それは、自分はよくやっていると思っているからでしょう。

そこには、少なからずや、律法的な意思が働いているのだと思います。

ですが、律法には自己正当化はあっても、

律法の背後にある、ボロボロの本当の罪深い自分自身の姿を知れません。

ですから、

弱い人、罪深い人へのあわれみとか、愛する感情は存在しないでしょう。

あわれみよりも、厳しさが、その人の心を支配してしまうでしょう。

しかし、厳しさは、決して神の聖よさと愛には近づけません。

むしろ反対です。

厳しさは、神の御人格とは反対の方向へと進むのです。

 

愛するとは、赦し待つことです。

自分の感情を鎮めて、待つことです。

責めたり、諫めたり、矯正したりすることではありません。

放蕩息子の父親は、ずっと待ち続けたのです。

そして、自分の意思で戻って来るのを望んでいたのです。

そして、戻ってきた息子を喜んだのです。

 

「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから。楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 

神の国とは、兄のような嫉妬や憎しみで支配されるような所ではありません。

そのような嫉妬とは、

まずもって自分を虚しくするのみです。

ですが、神の国では、謙遜という霊性によって、

常に愛によって他者を受け入れる所です。

自分の虚しさを他者への憎しみに転嫁する人間社会ではないのです。

 

「15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」

放蕩息子にとって「遠い国」とは、

自由の国であって、

これから自分の好きなように何でもできる希望の国だったわけです。

しかし、そこでの理想が崩れ去り、父の元に戻されたとき、

「遠い国」とは、自由意志に支配された理想郷ではなくなったはずです。

 

マサキチとは放蕩息子以上に欲深い者です。

何故なら、この世の豊かさ(遠い国)で満足することができないからです。

そのために、

聖書(信仰)に生きる意味を求めているからです。

しかし、御父は、欲深きマサキチのために、

しかも、正装せずに、ずうずうしく近寄ったボロボロの無礼者に、

真の「遠い国」を教えようとされています。

それは、どこでしょうか。

永遠のいのち、御国です。


エペ
「1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」

御霊はそのことの保証です。