四十年 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「2:23 二人は帰途についた。山地から下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことをことごとく彼に話した。
2:24 彼らはヨシュアに言った。「【主】はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」

 

約四十年前、若き日のヨシュアが斥候を頼まれた。

足腰も鹿のように強かった。

逃げることも隠れることも、

戦うことも、

誰にも負けなかった。

しかし、もう斥候などできる足腰など彼には期待できない。

 

代わりに当時のヨシュア、カレブに劣らない

屈強な若者が斥候の任務に選ばれた。

 

ただ、ヨシュアの時と今回の斥候とでは、

決定的な違いがあった。

 

ヨシュアの当時とは、

斥候してモーセに報告した者たちの心は、

萎えて怯えていた。

それは、彼等の足腰の強さとは全く反対で、

アナク人を恐れて弱腰となった

彼等の信仰の薄さだった。

神に信頼するのではなく、

自分たちの足腰を信頼した結果であった。

 

しかし、今回の斥候のメンバーたちからは、

そんな弱腰の発言は聞こえてこなかった。

だれもが、行ける、占領できると確信していた。

前回は、イスラエル人が震えおののいていた。

しかし、

今回は、エリコの住民が震えおののいていたのだ。

エリコの住民を震えおののかせたのは、

まさに、イスラエルの神が、そのように導かれたからだ。

 

四十年の歳月を通して、

神は、

イスラエルの信仰を整え、

カナン入国を求める決心へと導かれた。

これは、人間同士の戦いではなく、

まさに、神によって整えられた聖なる戦いであった。

 

四十年という月日は何のためにあったのだろうか。

 

マサキチの四十年前は、

夜、眠れぬとき、駅構内の静まり返った階段に座っていた。

たまに、警察が、質問しに来たが、

ただ暇だったのでむしろ楽しかった。

 

四十年後、昨夜、ゴミ出しのついでに、

もう一度、同じ場所に座ってみた。

不思議に、当時と同じ心が現れた。

なつかしさに、圧倒された。

いろんな経験を通して、四十年は過ぎ去ったが、

マサキチという一本のレールは、途切れていなかった。

 

足腰が誰よりも強かった当時のマサキチは、

行き場が分からず、

ただ夜中に誰もいない静まり返った駅構内の階段に、

座ってたたずんでいた。

親も元気で、何の心配もいらんかったし、

マサキチ自身も将来の不安なんぞ、

希望に支配されて、すぐに消えていた。

 

しかし、四十年後、また同じ場所に座っているマサキチ、

神様を信じて生きてきたレールを走ってはきたが、

人間マサキチではなく、

神に信頼するマサキチへと変えられた。

 

カナンに入国するに、四十年もかかったが、

四十年とは、そんなに長い月日ではないことが分かる。

あっという間であって、

大切なことは、

神様と共に歩み続けることのみであろう。

老年になれば、

若者のような信じ方では無理で、

ただ、主に信頼する生活を学ばされていく。

自分の可能性に頼っていた力任せの信仰は過ぎ去り、

自分の生涯をいのちを生活を全てお委ねする、

そんな信仰が与えられる。

それが、四十年という歳月の重みである。

 

自分の可能性に頼るのではない、

主に完全に信頼できるよう、

弱くされてきた。

 

イスラエルの民も同様であっただろう。

イスラエルの民は、

いろんな不平を言い続けてきた。

しかし、

その荒野の大変な旅路で、

だんだんと民族としての可能性が干からび、

反面、

神に信頼する霊性を学習させられ、

民族から神の民へと導かれていったと思う。

彼等にとっての荒野の四十年は、

もまれにもまれ、

弱さを真剣に学んだ時代であったと思う。

ただ、主に信頼して、主が用意された約束の地へと進むためであった。

 

ただ、強くあれ、雄々しくあれとは、

足腰の強い若者に向かって発した御ことばではなく、

若くはないが、足腰も弱くはなったが、

四十年の経験を積んだ、ヨシュアへの励ましである。

 

決して人間的な強さがあるわけじゃない、

むしろ、肉的な強さが削がれた者に向かって、

主は、

強くあれ、雄々しくあれと

今も、同じように、

言って下さっている。

 

いってきます=