薄いカーテン | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

申命記
「16:9 また七週間を数えなければならない。鎌を立ち穂に入れ始めるときから、七週間を数え始めなければならない。
16:10 そして、あなたの神、【主】のために七週の祭りを行い、あなたの神、【主】の祝福に応じて、進んで献げるささげ物をあなたの手によって豊かに献げなさい。
16:11 あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、【主】の前で、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。
16:12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらの掟を守り行いなさい。」

 

ここを読むとき、

私たちが意識しなければならないこととして、11節の行があげられよう。

神様は、世間から忘れられがちな人たち、人々に踏みつけられている人たちと共に、

「主の前で・・・喜び楽しみなさい。」

と命じられた。

私たちが得ている祝福と賜物は、すべて神様からのものであることを、

人々の前に認め、

これらの人たちにも愛をもって神の賜物を分かち与え、これらの人たちと共に

「主の前で、・・・喜びなさい」

と命じられた。(新聖書注解より抜粋)

 

私たちが謙遜になるべき、理由がここに書かれている。

私たちが、神の恩恵を受けたのも、

私たち自身の才能とか、個性とか、環境によるのではなくて、

全てが、神様の恵みとあわれみによることを、

しっかりと知ること、求めること、実践すること自覚することが重要。

 

弱い人々と共にあり、

彼女彼らに仕えるとき、

私たちもかつては、罪の奴隷として窮していたことを

覚えなければならない。

 

へブル人は、

この過越しを通して、

神が、エジプトの奴隷であった身から、

買い取ってくださった、解放してくださった、贖ってくださったこと、

神と一つとされたことが、どういうことだったのか、

ただ神が憐れんで救い出してくださったことを、

貧しい人々と共に喜ぶことを通して覚えなさい、ということです。

 

七週の祭りとは、ペンテコステである。

神に対して、私たちが、喜び感謝したとき、

私たちに与えられた賜物とは、

イエスキリストの御霊の賜物であったことを覚えたい。

御霊は、怒ることもなく、あきらめることもなく、見捨てることもなく、

マサキチを導かれたことを覚えたい。

 

私たちが今、生活しているこの世と、御父の居られる御国とは、

薄いレースのカーテンで仕切られているだけ、・・・だと思っている。

しかし、私たちは、天国とこの世とは、全く別の世界であって、

神と私たちの世界とは、大きな溝があると教えられてきた。

たしかに、ラザロのお話に出て来るお金持ちと、アブラハムとの間には、

大きな溝がある書かれている。

しかし、大切なことは、ラザロは、アブラハムの懐にいたという点だ。

 

神が憐みをかけられたのは、御国の人々ではなくて、

この世にあって、呼吸をし、動いて、生息している、私たちそのものなのです。

御父は、私たちから遠いお空のお方ではなくて、

御霊を通して、薄いカーテンの向こう側のお方として、

今も、この世の惨状を憂いをもって見ている。

ラザロとは、今の時代の悲劇そのものである。

豊かな人はますます豊かになり、

貧しい人々を省みようともせず、

利権に勤しんで、

人殺しに精を出している。

 

大切なことは、

今ある世界とは、カーテンの向こうに見える御国からは、

遠くもなく、厚い頑丈な壁によって見えないわけでもないこと、

神様には、よく見られているということ、

私たちは、その薄いカーテンの向こう側を薄々気づいた生活をすべきこと、・・・だ。

 

いってきます=