ルカ
「その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。』・・・」
人を無気力へと導くものとは、
己自身にある欲求である。
欲求は、罪に支配を受け、
私自身の生活をさらに魅力無きものに、
信仰を希望無きものへと変えていく。
信仰が一番輝いている瞬間とは、いつか。
それは、神の前に悔改めへりくだった瞬間であろう。
悔改めと共に、何もかも手放した、奪われた瞬間かもしれない。
しかし、
神の前に砕かれた心をささげた時とは、
決して、生きる力が奪われ、無気力人間で終わることではない。
ただ、愛するお方を知らされる旅路が始まったからだ。
そこには、人間の人格でははかり知れない豊かさがその人を支配する。
ルカ
「・・・8:38 悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。・・・」
イエス様によって悪霊を追い出してもらった男は、イエス様のお供を申し出た。
悪霊につかれ、多くの歳月を墓地で費やした一人の男が、
イエス様に仕えたいと願い出たのだ。
彼の心は、ただイエス様たちのために奉仕し続けたい一心だったのだ。
「しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。」
私たちは、直接愛するお方と共にいたいと思うだろう。
しかし、そのお方には、彼に相応しい付き人、お弟子がいて、
相応しくはない、レギオンマサキチには、
そのような奉仕は許されてはいない。
何故なら、
イエス様は、取り去られ、人々の中から居なくなってしまうお方である、
私たちにできることは、私たちが受けたイエス様への愛によって、
これからの人生を、自分のためじゃなく、
愛するお方と共に生活することであろう。
直接、お供できずとも、愛は、その人の心に充満する。
イエス様が、この悪霊につかれた男に指示されたことは、
イエス様が憐れんで、彼を癒され愛されたように、
これからの人生において、
多くの人々を愛し仕えること、
自分のための人生ではなくて、
イエス様が憐れまれたように、
人々を同じ愛をもって仕えること、
人々を愛する人生へと、変えられていくことを示されたのでしょう。
イエス様は、取り去られてしまいます。
しかし、イエス様への愛は、男の中で生き続いて行くのです。
愛は、経験であって、学習であって、その人の意欲であって、
私たちができる、この世での最大限の奉仕である。
男は墓地という何もない環境から、
市井へと遣わされたのだ。
何もないところから、何かすべき環境へと遣わされたのだ。
何もしない、できない、したくない人じゃなく、
何もできずとも、心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、愛するようにと、
導かれたのだ。
人の欲求ではなくて、ただ神によって変えられた人生こそ、
大切である。
そのための出発点とは、この男がいた墓場であった。
墓場(絶望)から、いのちある生き方へと、変えられることが、
愛の根本である。
自分の意欲に頼る人生ではなく、
愛に導かれた人生であってほしい。
愛は循環です。
イエス様の愛は、
人々を愛する愛へと、
しかし、人々への愛は、
取り去られたイエス様への思いへと循環するからです。
悲しみは、笑いに勝るのです。
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