怪獣レギオン | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。』・・・」

 

人を無気力へと導くものとは、

己自身にある欲求である。

 

欲求は、罪に支配を受け、

私自身の生活をさらに魅力無きものに、

信仰を希望無きものへと変えていく。

 

信仰が一番輝いている瞬間とは、いつか。

それは、神の前に悔改めへりくだった瞬間であろう。

悔改めと共に、何もかも手放した、奪われた瞬間かもしれない。

しかし、

神の前に砕かれた心をささげた時とは、

決して、生きる力が奪われ、無気力人間で終わることではない。

ただ、愛するお方を知らされる旅路が始まったからだ。

そこには、人間の人格でははかり知れない豊かさがその人を支配する。


ルカ
「・・・8:38 悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。・・・」

イエス様によって悪霊を追い出してもらった男は、イエス様のお供を申し出た。

悪霊につかれ、多くの歳月を墓地で費やした一人の男が、

イエス様に仕えたいと願い出たのだ。

彼の心は、ただイエス様たちのために奉仕し続けたい一心だったのだ。

 

「しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。」

 

私たちは、直接愛するお方と共にいたいと思うだろう。

しかし、そのお方には、彼に相応しい付き人、お弟子がいて、

相応しくはない、レギオンマサキチには、

そのような奉仕は許されてはいない。

何故なら、

イエス様は、取り去られ、人々の中から居なくなってしまうお方である、

私たちにできることは、私たちが受けたイエス様への愛によって、

これからの人生を、自分のためじゃなく、

愛するお方と共に生活することであろう。

直接、お供できずとも、愛は、その人の心に充満する。

 

イエス様が、この悪霊につかれた男に指示されたことは、

イエス様が憐れんで、彼を癒され愛されたように、

これからの人生において、

多くの人々を愛し仕えること、

自分のための人生ではなくて、

イエス様が憐れまれたように、

人々を同じ愛をもって仕えること、

人々を愛する人生へと、変えられていくことを示されたのでしょう。

イエス様は、取り去られてしまいます。

しかし、イエス様への愛は、男の中で生き続いて行くのです。

愛は、経験であって、学習であって、その人の意欲であって、

私たちができる、この世での最大限の奉仕である。

 

男は墓地という何もない環境から、

市井へと遣わされたのだ。

何もないところから、何かすべき環境へと遣わされたのだ。

 

何もしない、できない、したくない人じゃなく、

何もできずとも、心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、愛するようにと、

導かれたのだ。

人の欲求ではなくて、ただ神によって変えられた人生こそ、

大切である。

そのための出発点とは、この男がいた墓場であった。

墓場(絶望)から、いのちある生き方へと、変えられることが、

愛の根本である。

 

自分の意欲に頼る人生ではなく、

愛に導かれた人生であってほしい。

 

愛は循環です。

イエス様の愛は、

人々を愛する愛へと、

しかし、人々への愛は、

取り去られたイエス様への思いへと循環するからです。

悲しみは、笑いに勝るのです。

 

いってきます=