存在 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。
8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。
8:45 イエスは、『わたしにさわったのは、だれですか』と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています』と言った。
8:46 しかし、イエスは言われた。『だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。』
8:47 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。
8:48 イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。』・・・」

 

「安心して行きなさい。」

言われてみたいですね。

本当に安心することができるのか知りたいです。

あれもこれも、安心できるのか不安です。

 

娘は、病は癒されたけど、

その後、彼女の人生は、どうだったのでしょうか。

「安心して行きなさい」

これからは、安心しつづけなさい、平和でいつづけなさい、

平和(安心)とは女性名詞

ただ、病気が癒されたから安心して暮らしなさいと言われたのではなくて、

今のまま、今持っている信仰を大切に持ち続けて、これからも生活しなさい、

そのような響きがこめられています。

 

私たちは、人間にある存在の豊かさに目が移りがちです。

あの人は、とても大きな存在を感じる。

カリスマを感じてしまう。

魅力的な人だ。

いろんな人のブログを拝見すると、

魅力的な人がいたり、

そんな魅力的な人が病気で亡くなったりすると、

皆さん、悲しんだりするでしょう。

 

ですが、

イエス様に裾に触った娘さんには

そんな存在など感じられませんでした。

「彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」

だけだったのです。

誰にも見つからずに、

ただ、イエス様の衣の房に触れた、だけだったのです。

理由の一つは、

彼女の病が汚れた病だったからでしょう。


マサキチは、その娘さんを、羨ましく思ってしまいます。

何故なら、存在は感じられずとも、信仰が感じられるからです。

この世に居る間、

悩みは増えてきて、心労は強まります。

色んな人のブログから人生を学び、生き方を学びますが、

あの人は元気をいただけるから、登録しよう、等々。

しかし、

今の世で、本当に求めなければいけないのは、

存在ではなく信仰(愛)だと思います。

人間の魅力(存在)は、

信仰(愛)の養いのために用いるべきです。

魅力ある人を愛することは多いに結構です。

ですが、そこから愛を学ぶことがなければ、

その魅力ある存在(人物)が、

むしろ信仰をダメにしてしまいます。

 

マサキチ個人としては、

自分の存在(カリスマ性無いけど)を隠して、

唯一の存在、イエス様を愛する心を持ち続けたい、

何のために?

愛する人々を癒し、そして救いたいからです。

隣の薄いカーテンの向こう側の存在(天国)へと、救ってもらいたいからです。

マサキチが愛されるんじゃなくて、

愛することが、とても大切だからです。

 

そんなことを、

この娘から学ばさたわけです。

 

いってきます=