回復(くどいので読まないでください) | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ8章
「8:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。
8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、
8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。」

 

心の精神性を求めるジャンル、

たとえば、茶道、華道、ヨガとか武道もそうか、そして宗教などがそれです。

それぞれの

女男比率はどんなだか。

茶道における女男比率は、8:2(noteから)です。

華道においては、文化庁データで

50-70代女性が約50パーセントを占めていた。

また、

信仰においては、

文化庁データーで、

50‐70代女性が約50パーセントを占めていた。

ヨガスクールに通う女男比率は、7:3(出処不明)でした。

 

このように心の精神性を求める比率は、

女性の方が圧倒的に多いことが分かります。

ルカが、7章最後に「罪深い女の話」をした後、

その後に出てきたのが、ここ8章始めに書かれた

イエス様に付き添ってきた女性を紹介したとろです。

 

 キリスト教史には、多くの暴力的な歴史が存在します。

つまり、

その歴史が政治社会や、男性社会と結託した結果だと思わされる。

精神の安定よりも、精神の躍動を求めた結果です。

しかし、本来の信仰の在り方を求むに、

やはり、そこには平和や静けさという、

反暴力的な世界、つまり普遍性(神の愛)があるわけです。

私たちは、神を学ぶとき、

社会現象から学びません。

戦争や政権争いから、

神を知ろうとは思いません。

しかし、

当時の男性中心のユダヤ社会では、

救い主は、ローマからユダヤ人を解放する政治的リーダーから出て来ると信じていたわけです。

 

しかし、目に見える価値には、

どうにも、神の聖よさが見えない、

バチカンの豪華な建物を見ても、

すごいなあとは思っても、

そこに神が宿るとは、到底思えない。

それよりかは、

イスラエルのシーンと静まり返った荒野を見渡すとき、

やはり、ここには神が居られると思えるわけです。

これは、ある医師がクリスチャンになったときのお話が、

一般の本に書かれていたことを抜粋した内容です。

 

女性と男性の特徴を捉えるに、

女性とは、男性に対して、肉体的に弱い存在であります。

ですから、暴力的社会では生き残れません。

しかし、弱さゆえに、大切な精神性を求めてきたと思うわけです。

 

「弱さ」です。

 

では、その人間的な弱さを簡単に分類します。

1、 まずは、自然に対する弱さです。

これは、神様に対して、人間がいかに劣っているのか、弱いのかとも言えるでしょう。

人は、自分の力で、寿命を延ばすことはできません。

同様に、脳梗塞や脊椎小脳変性症や筋萎縮性側索硬化症など

人には病を癒すことに限界があります。

また、自然災害に対して、

人間に与えられた力とは、ほんとうにわずかです。

 

2,次に人間自身の存在の弱さというものがあります。

多くの哲学者は、その存在が分からぬゆえに、

実存的哲学を発表しました。

人間の出どころ(身元)がどこにあって、

人間とは、どうすればよいのか、

そのような根本的道徳観念が存在しない。

ただ、人間にある習得的生得的本性なりをカテゴリーとして認め、

勝手に、そうだと思いこむしか手立てがないわけです。

NHKの番組ファミリーヒストリーで、

草刈正雄のお父さんが、

長らくアメリカで生きていたことが判明して、本人が渡米し、

そのご家族親族と会ったドキュメンタリーが放映されたが、

彼は、それによって、

自分が何故、鼻が高いのか、日本人離れのルックスなのかを

受け留めることができたわけです。

人間が、どのように始まって、どこにたどり着くのかを知らないことは、

人間の決定的な弱さであって、不安であります。

民族の歴史を身元とすれば、

人間とは、そこに国境なり利権が発生し、

戦争や暗殺が出てきてしまう。

しかし、その民族を超えた境界線の無い身元を知ることができるなら、

私たちにとって、これ以上の安定は存在しない。

しかし、その人類の身元を表現できる宇宙科学者も、宗教家も存在しないわけです。
歴史教科書を見ると、

人間の原初が類人猿であったのか、アダムであったのか、

出発点すら、まちまちであります。

 

3,最後に、霊的弱さという問題があります。

これは、聖よくなりたい、ありたいという願望があっても、

そのようになれない、人間にある人格的弱さです。

ストレスをかかえて生きていくことは、

人間が社会的に生きるために避けなければなりません。

ストレスは、その人の思考や免疫を一時的に衰えさせます。

ですから、

ストレスをもって社会生活をすること自体、

大変な危険(失敗)が潜んでいます。

今回の羽田空港での事故も、

もしかしたら、ストレスが原因で

管制官の危険予知能力を著しく低下させてしまったのかもしれません。

ストレスは、大変な事故を引き起こします。

 

信仰と、精神はまったく別管理すべきですが、

信仰と精神は深くかかわっています。

信仰が精神を凌駕している状態ならば、

その人は、すぐれた生活力を社会性を発揮できるでしょう。

しかし、

信仰が薄い場合、ストレスを抱えたままの精神は逃げ場を無くして、

身動きが取れない状態へと進んでしまいます。

このように多くのストレスは、一過性の鬱を発症してしまうものです。

ベッドから起き上がることもできない日々を過ごすとになるでしょう。

ルカ

「22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

22:46 そこで、彼らに言われた。『どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」・・・」

お弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでいたと書かれています。

つまり、非常な恐怖と不安の中、

彼らは弱い精神性に押しつぶされていたことが伺えます。

お弟子たちの信仰が、

弱り果てていた精神を凌駕できていれば、

眠り込むことはなかったのですが、

信仰が薄いため、彼らの精神的ストレスは、

彼らの神経細胞を支配してしまっていたのです。

私たち信仰者も同様です。

大きな精神的ストレスを感じてしまう時、

精神衰弱という津波が信仰という防波堤を越えてしまえば、

その人は身動きできず、

横になってただ目を閉じるしかないのです。

また、そのような精神状態の時、

信仰を頑張ってしまえば、むしろ、

その反動で、精神的な鬱を発症させてしまうことでしょう。

精神科医が信仰生活を好まないのは、この点につきます。

ですから、過度なストレスを受けたが、

信仰が精神の助け船となれない時、

神経を解放させ精神を安定させるために、

霊的ストイックな生活を一時的に休止する必要もあります。

というよりかは、できないでしょう。

抗ガン剤治療で副反応が強く出てしまい身体が弱ってしまえば、

抗がん剤治療を一時期休止するのと同じです。

完全に弱ってしまえば、

抗がん剤治療は中止です。

同様に、完全に発病してしまえば、信仰では無理で入院です。

霊的生活をストップして、心を落ち着かせ、

しばらく予後を観察する必要があります。

ここにある霊的な弱さとは、

神に従いたいけど、従い続けることができない程、

精神的なダメージを受けたことによる弱さです。

 

私たち人間とは、このような弱さを身に帯びているのです。

そして弱さとは、病気に陥りやすいのです。

決して、若いときの希望感が精神を覆いつくすような活力を持ち続けることはできません。

さて、

ゲツセマネの祈りでマルコ14:38には、

「誘惑に陥らないように、目を覚ましていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

と書かれています。マタイも同様なことが書かれています。

霊(信仰)は燃えていても肉(神経)は弱いです。

いくら霊的な人であっても、疲れて眠なければ病気になってしまいます。

人間であれば、

いくら霊的に元気であっても、

体には限界があります。

お弟子たちもそうであったわけです。

しかし、医者ルカは、この後半部分

「霊は燃えていても肉は弱いのです。」

を載せていません。

その代わりにルカは、

「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」と表現しています。

ここに、お弟子たちが眠った原因が、

ただ生理的に疲れていたからではなくて、

悲しみという精神的脆弱性によって、

眠ってしまったことが伺えるのです。

つまり、

お弟子たちを支えている信仰が薄く、

とても今の困難を乗り越えることができない、

そんな精神的困窮状態に陥ってしまったことが伺い知れるのです。

それに対して、マタイとマルコでは、

お弟子たちが悲しみを持っていたことは書かれてはなくて、

イエス様御自身が悲しみもだえていたと書かれているのです。

ここを比較すると、

ルカは他の記者よりも、

人間にあるその精神的弱さを表現しているように思われます。

お弟子たちは信仰が不安に押しつぶされてしまった、

裏を返せば、

信仰の回復とは、ある意味、

精神的安定をもたらすと言えます。

これは正しいと思います。

しかし、だからといって、

精神的には強くなったとしても、肉体(神経)は悲鳴を上げているかもしれません。

いくら信仰が精神を凌駕できたと言っても、

肉体(神経細胞)がボロボロ、限界になっている場合は当然あるでしょう。

そうなれば、マルコとマタイの表現の方が的を得ているようにも伺えます。

「霊は燃えていても肉は弱いのです。」

いくら一時、信仰が精神を凌駕できたとしても、

やがて、その高揚感は尽き果て、寝込んでしまうことでしょう。

双極性障害を持たれる方は、

信仰の回復とか霊に燃えるという聞こえの良い表現は危険なのです。

医者ルカが示したかったことは、

霊的にも精神的に強ければ良いとすることではなく、

つまり、

人間にある霊(信仰)の躍動感や、肉体(神経)を酷使することではなく、

むしろ休ませる、安定させる、鎮静する、

そのような治療を求めていたからではないでしょうか。

そして、

精神的に弱くされたお弟子たちが、

ただ自然に信仰の回復が与えられること、

信仰に目が向くようにされたこと、

それが病魔からその人を癒すことができる最善であります。

だから、

ルカが暗に表現したかったのは、

お弟子たちの信仰が弱まってしまったことに尽きます。

決して霊が強いわけじゃなくて、むしろ弱いのです。

いや、弱いんじゃなくて、

信仰に目が向かない、

見えないのです。

あきらめて、

期待していないのです。

意識がむかないのです。

アダムが神に背を向けたように信仰に背を向けてしまったのです。

それが「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」という表現から伺えるのです。

人間とは、一つのことしか考えられません。

一度、ショックを受けたならば、

私たちは、そのストレスと共に、

肝心要な信仰を期待する意志が何処かにいっちゃうのです。

ですが、ふたたび、

信仰に目を向けることが自然に許されるならば、

その瞬間から精神的回復は急ピッチで始まり、

私たちは、また歩きだせるのです。

 

さて、女性にある弱さを通して、

三つの弱さを考えたが、

弱さを受け止めることは、とても大切なことです。

そこから、私たちは生き方(大切な信仰)を学ばなければなりません。

今年も、いろんな挫折をするでしょう。

挫折は、さらにその人にストレスを与えるでしょう。

ストレスは、また挫折をもたらします。

そんな悪循環に陥ってはなりません。

 

しかし、その悪循環の経験とは、

自分の力に頼るのではない、

信仰によって立つことを教えられる学びなのかもしれません。

もしも、キリストに従う女性のように、

私たちもキリストから目を離さない生き方を、続けていくならば、

私たちは、たとえ、大きな試練を経験して、

一時、聖よい生活から抜け落とされて、

無気力な状態にされても、

キリストが復活されたように、

私たちの信仰も復活して、

もとのような生活に戻ることができることが期待されます。

また信仰とは人間的な意欲によっては与えられないことを知るでしょう。

信仰とは質量の問題ではなく

心の出会い、きっかけ、再会です。

だから失意によって一時期信仰を見失っても、

信仰は生き残っているもんです。

気力を失っても、

信仰は、その人を失いません。

機を伺い、その人に現れ、その人に再度生きる意欲を提供することでしょう。

何故なら、信仰こそ神様からの賜物(恵み)だからです。

キリストは、弱い私たちを見捨てません。

キリストは、そんな弱い罪深い私たちのために、

十字架にお架かりになったのですから。

キリストが、弱い私たちの霊性の中心であるならば、

つまり聖霊をお与えくださっているならば、

私たちは、弱い精神性によって押しつぶされ続くことなく、

信仰に目を向ける瞬間が与えられ、

回復へと導いてくださると思っています。

パウロは言いました。

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

まさに、信仰が、精神に勝利した人の霊性です。

 

確かに「霊は燃えていても肉は弱いのです。」を経験するでしょう。

信仰心が強ければ、むしろ確かに肉体も精神(神経)も疲弊してしまうことでしょう。

また、精神的に弱められたお弟子たちではあっても、

信仰が回復するならば、

目を伏せていた信仰に、もう一度目を向けることが許されるならば、

その信仰の回復(発見確認)は、

その人の霊肉の強さを増すと思っています。

弱いからこそ、強くなれるのです。

強い人は逆に弱くされるでしょう。

しかし、弱い人は

キリストの贖いゆえに、

信仰がいつまでも、

その人を支え続けるのです。