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クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

申命記
「15:9 あなたは心によこしまな考えを抱き、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで【主】に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。
15:10 必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」

 

第七年目にはイスラエル人同士の負債の免除が命じられた。

だから、

第七年目が近付いたとき、

どうせ負債は返ってこないだろうと推測して、

貧しい人に何も与えないことにならないよう、

「15:10 必ず彼に与えなさい。」

と、強い調子で命じている。

 

ここで問われることは、

「15:9 あなたは心によこしまな考えを抱き、」であろう。

無意識に悪い考えが心を支配していることに気が付かされるが、

私たちのうちにも悪い考えがあることに気が付かなければならない。

 

人間という船は、どこかの港に寄港しなければならない。

そして船を接岸して休まなければならない。

けど、その港が、避難場所なのか、それとも潜伏場所なのか、

自分の心を見極めて判断しなければならない。

 

避難とは、自分自身に、他人を支える余力などなく、

ただ、自分自身の生活と命を防衛するしかない人であろう。

 

潜伏とは、自分自身に、他人を支える余力などないと思いたかったが、

実は、少しならば、貧しい人に貸し与えることのできることを知っている、

それなのに、その貧しい人を無視する心の態度であろう。

 

貧しい人とは、

その日の食べ物すらない人である。

何も大金を要求はしない、

わずかな食事を提供することであろう。

 

マサキチも貧しい人が教会に来られたとき、

その人のために、

惜しみなく提供してきた。

 

このイスラエル人の間での規定は、

今は、キリストの律法を通して全世界へとつながった。

教会が貧しい人を支えることは、

大切な神の強い命令である。


マタイ
「25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』・・・
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』・・・」

 

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