長閑!!安曇野さんぽ。「堀金岩原」地区の歴史と文化を訪ね、のんびりと歩く | 信濃路てんこ盛り

信濃路てんこ盛り

「ウー」が綴る信濃路の魅力発信ブログ

初めての地を訪れる場合、市町村役場や観光協会のホームページを調べ、まずは「おすすめスポット」に足を運ぶようにしています。

 

次に利用したいのが「地元の人の口コミ」ですが、初めての訪問地に知人がいるケースは少なく、その地の歴史や文化の案内も整備されていない所が数多くあります。

 

安曇野市で、こんな問題を解決してくれるのが、NPO法人「安曇野ふるさとづくり応援団」が主催している「安曇野さんぽ」です。

 

同NPO法人は、市内各地域にスポットをあて、「安曇野ふるさと遺産」の認定やその景観まちづくり活動、情報発信等を行っています。

 

何の変哲もない場所であっても、そこには過去から現在に至るまでの歴史や培われてきた文化が詰まっているはずです。

 

そんな地域の原風景を垣間見る事が出来るのが「安曇野さんぽ」。

 

今回は、「地元の人のガイド」で堀金岩原地区(旧南安曇郡堀金村)を歩いてきました。

 

 

**********************************************************

 

 

以前、「安曇野さんぽ」で「旧保高宿」を歩いた時の状況はこんな感じでした。

 


今回の「安曇野さんぽ」は、まずまずの天候となった11月7日に開催されました。

 

市内に居住する知人とともに、一般参加者の集合場所である「国営アルプスあづみの公園」に9時前に到着。

 

 

受付を済ませ、「砂渡山神社」近くで地元の「岩原の自然と文化を守り育てる会」と合流です。

 

NPO法人会長の挨拶後、総勢20名弱で「さんぽ」は開始されました。

 

ガイドは地元の岩原地区出身で「岩原の自然と文化を守り育てる会」の会長が務めて下さいました。

 

まずは「砂渡山神社」前へ。

 

 

ここは鳥居も狛犬もない非常にシンプルな神社です。

 

元々は村独自のお宮ではなく、24ケ村が寄り集まってお祀りをしていたそうですが、現在は岩原の宮として存続しています。

 

ここの春の例大祭で使われる「お舟」は、市内の神社で行われる多くの「お舟祭り」の中でも唯一、台車のない「担ぎ舟」となっていて「お舟祭りの原型」と言われているそうです。

 

「さんぽ」終了が大幅にずれ込むのではないかと心配になるくらい、最初から非常に詳しい説明が長時間に亘って続けられましたが、何故だか境内には入らず…

 

次の目的地である「烏川渓谷緑地」へと向かいます。

 

 

古来から「あばれ川」だったという烏川。

 

 

扇状地の安曇野では、下流の方へいくほど地下に浸透して水量が減少します。

 

その為、烏川上流部には下流の村々の灌漑用たて堰取入口が複数設置されており、そのひとつである「倉田堰取入口」を見学。

 

 

又、その下流には、江戸時代の取入口である「五カ堰取入口跡」も残っています。

 

 

人間にとって必要不可欠な、命をつなぐ貴重な水。

 

最上流部に位置する岩原を舞台として、用水確保のため奔走したであろう村々の人達はどんな気持ちだったのでしょうか。

 

尚、5ケ所の村への水の分配は、烏川に大きな丸太を置いて行っていたようです。

 

「安曇野さんぽ」はまだまだ続きます。次の目的地へ向かう途中にあった「大イチョウ」の黄色が周囲の景色に映えて綺麗でした。

 

ああ、秋の安曇野。本当に長閑です。

 

 

3ヶ所目の目的地である「烏川土場跡」に到着しました。

 

 

善光寺地震の復興の為、松本藩から命を受けた岩原村。

 

復興には大量の木材を集めて、それを保管する場所が必要でした。

 

「土場」とは流した木材を引き上げる場所の事です。

 

木材が豊富にあり、運搬業(牛や馬を利用)を営む人が多かった岩原が命を受けるのは必然だったかもしれません。

 

さて、話は変わりますが、コース上にあった家々の周囲には岩石が積み上げられた場所が多く見られました。

 

 

岩原という地名はこのように積み上げられた岩石が多かったという説や「岩田天神」のそばだからその名がついたという説があるそうです。

 

畑の石を拾う?女性

 

灰汁(あく)焼き場があった所までやってきました。竹藪の奥の方では石灰岩が産出され、それを焼いて石灰を作っていたようです。

 

 

石灰は土壌改良剤や消毒用に利用されます。

 

焼き場は10ケ所あったそうですが、明治以降は工場が出来て閉鎖されました。

 

このように岩原は木材だけでなく、鉱物資源も豊富だった為、一時期「金山村」と呼ばれました。

 

1700年頃に岩原銀山から産出した銀を松本藩に献上したという記録もあるようです。

 

このような話が残る岩原ですが、江戸時代、山中に20軒ほどの小さな村として成立し、周囲の村々を束ねる「大庄屋山口家」を中心に自立した村として繁栄したとか。

 

今回は「大庄屋山口家」は訪ねていませんが、松本藩にも一目を置かれる等、その影響力は絶大でした。

 

遠くから捉えた「大庄屋山口家」の全景

 

先述した通り、岩原は岩石が積み上げられた場所が目立ちますが、そんな「石ゴロゴロ」の土地だけではありません。

 

今回、最後に訪れたのが、火山灰を中心とした粘土質の土地である「古田」です。

 

そのような土地が山沿いに200m幅で約1kmに亘って続いています。

 

 

残念ながら、この先の説明がどうだったか記憶に残っていませんが…

 

石ゴロ地に比べ、良質な耕地であろう古田の生産量はどうだったのか?何故、山口家がこの地に移ってきたのか?

 

いくつもの疑問が興味をそそります。

 

こうして12時少し前、本日の「安曇野さんぽ」は終了となりました。

 

今回訪れた「堀金岩原」は、「安曇野さんぽ」を利用しなければ、一生立ち寄る事がなかったと思われる地域です。

 

どんな地域にも固有の歴史があり、人々の生活の中で培われてきた文化が息づいている事を再認識しました。

 

今後も、殆ど表に出てこない地域にも足を運び、その地の生活や文化等に触れる「原風景を辿る旅」が続けられればと思っています。