近年、海外では学習英文法の規範的規則の見直しが進んでいます。スティーブン・ピンカー『言語を生み出す本能』1995(NHK出版)は、30年近く前に出版された本ですが、今日の状況を先取りしたような内容が多く見られます。

 今回は、今後の学習文法の見直しの参考になる記述を紹介していきます。

 

 はじめにPinker1995が出版された20世紀の学習英文法をめぐる動きについて概観しておきます。

 20世紀の初めごろは英文法の科学的研究が進み、Henrry SweetやJespersenといった人が現れ学習文法に関する生産的な提言が行われた時期でした。当時を象徴する出来事は、奇跡の年と言われた1905年アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論や光量子仮説を含む物理学上重要な複数の理論を発表したことです。そのころ、Jespersenはコペンハーゲン大学の学長で、同大学にはアインシュタインと論争し「神はサイコロを振らない」との言を引き出したと言われるニールス・ボーアがいました。 

 Jespersenが、時制、人称、品詞といった旧来のラテン語文法のパラダイムを根本から見直す著作を発表したのはそれ以降のことです。物理学が科学革命によって既成の宇宙観を変えたように、パラダイムシフトはこの時代の空気だったのでしょう。わが国でも細江逸記、斎藤秀三郎などが国産英文法に関する生産的な著作を生み出しています。

 

 しかし、その後2つの世界大戦があり、社会が混乱し、時代の空気に合わせるかのように学習英文法も低迷期に入ります。あまりにもラテン語文法に影響され過ぎていると、科学的文法の立場から批判された英文法は、60年代までにすべての英語使用国の公教育で廃止されます。いったん市場を失った英文法は、「正しい英語の規則集」として非英語話者を対象として一般社会へ市場を変えて広がります。

 「状態動詞なる言葉」ができ進行形の使用を禁則にしたり、数量の違うsomeとanyを混同して文の種類で使い分けるとしたり、多くの実態に合わない劣化規則が生まれたのは20世紀の後半です。科学的研究による英語本来の文法的しくみとは対極にある個人的見解による規範的規則が拡散していったのです。

 

 信用を疑われて公教育で廃止された英文法を、科学的研究によって再構築すべくカークらが1960年ごろに実態調査による表現の収集、分析をはじめます。これがコーパス言語学の起源で、その成果が20世紀の記述文法の最高峰の書とされるCGEL1985です。Pinker1995が出版された20世紀の終わりごろは、言語コーパスのデータを基にした科学的研究が興り、全盛だった規範的文法規則を問題視する機運が高まった時期です。

 

 戦争と戦後の社会の混乱による英文法劣化期を挟んだ、20世紀のはじめごろと終わりごろは科学的文法が生産的な時期と言えるかもしれません。

 20世紀初頭にSweetが示した現代英語の文法的仕組みについて述べた記述と、Pinkerが幼児の言語獲得期の文法感覚についての記述は近似しています。比較してみましょう。

 

「言語の中には、中国語のように、語順と形式語(機能語)によって、完全に文法的に機能するものがある。また、多くの言語では機能語を用いるので、厳密に分けることは難しいが、ラテン語のように、主に屈折によって、文法的に機能する言語もある。言語学では、中国語のような言語を孤立言語と呼び、ラテン語のような言語を屈折言語と呼んで区別する。英語は、わずかな屈折があるけれども、主な文法機能からすると、孤立言語である。」(しんじ訳)

       ――Henry Sweet 『A New English Grammar』(1900: 32)

 

幼児はめったに語順を間違えないし、三歳になるころには、ほとんどの活用形や機能語を必要に応じて使うようになる。mens、wentsなどの活用間違いや、「(後のボタン、やって)Butten me the rest.」などの間違い文は大人の耳に止まりやすいが、間違いの発生率は、発生する可能性に対してわずか0.1~8%に過ぎない。」  

――Pinker1995

 

 2書には、主な文法のしくみとして、語順、機能語、屈折(語形変化)の3つが出てきます。Sweetは、英語は中国と同じ孤立語で語順、機能語を主な文法コードとすると主張します。Pinkerは、幼児はめったに語順を間違えず、活用形、機能語を必要に応じて使うとしたうえで、活用形mens、wentsつまり屈折の間違いが耳に止まりやすいとしています。また、幼児の間違いの例としてButten me the restがあげてありますが、語を並べて意味を成すような文を生成する感覚は孤立語の特徴を表しているとも言えます。

 現代英語では文法コードの優先順位は、語順>機能語>屈折ということになります。英語話者は幼少期にこの英語本来のコードを身に着け、屈折を無視し語順・機能語を重視します。これに対してラテン語などの屈折言語の文法コードの優先順位はは、屈折>機能語>語順のようになります。規範文法規則の多くは屈折を重視して作られました。

 つまり現行英文法は、屈折をスタンダードとするラテン語文法をもとにして、語順・機能語をスタンダードとする英語の文法を記述しています。文法の正誤論争の多くはこの矛盾したスタンダードの衝突に起因します。

 

 規範的規則に対するPinker1995の記述を引用します。

 

単語を日常的な文に配列する時に必要になる心的ハイテク装置について考える科学者にとって、規範的ルールはひいき目にみても付随的な飾り物に過ぎない。教え込む必要があるという事実そのものが、言語体系の自然な仕組みとは異質な存在であることを示している。

 指南役の振りかざす規範的ルールの大半は、言語のどのレベルでも意味を成さない。数百年もまえに、いい加減な理由ででっち上げられた与太話が、そのまま伝わってきたにすぎない。規範的ルールは論理にも伝統にも背くものなので、ルールなど守っていたら、曖昧でぎこちなく、くどいばかりで理解不能な文章ができてしまう。場合によっては書きたいものも書けなくなるだろう。

 言語指南役が登場したのは18世紀のことだった。ロンドン方言がある日突然、重要な世界語になり、学者が言語に批判的な目を向けるようになる。当時はまだラテン語が、啓蒙と学問の言語とみなされていたから、英語もラテン語のような精緻さと論理性を目指すべきだと考えられた。

 現在の化けものルールの大半(不定詞を分離するな、文を前置詞で終わらせるな,等々)は18世紀のこの風潮にさかのぼることができる。――Pinker1995

 

「いい加減な理由ででっち上げられた与太話」「化けものルール」という邦訳は原書の英文と比べると攻めた訳になっていると感じますが、Pinkerが激しく非難しているのは確かです。当時は規範文法による規則が厳しく、その反発も強かったのです。

 ここに挙げられた文法事項「分離不定詞」や「文末に前置詞を置く」などの表現は、当時は規範が禁則としていました。英語ネイティブからすると自分たちが使う表現を文法的な誤りとされて、表現の自由を奪われるわけです。

 

身をもってルール破りの手本を示す人がいたとしても、読者は自分の行動の意味を理解してくれるだろうか、単に無知なやつと思われるのではないだろうか、とつねに不安でいなければならない。告白すると、これが理由で、分離してしかるべき不定詞を分離しなかったことが何度かある。――Pinker1995

 

 言語学者のPinkerですら、言葉使いについて他者を気にして不安を感じることがあり、実際に分離不定詞の使用を避けた経験があるのです。文法の扱い方次第で「間違うのを気にする」日本人学習者を生みだすことは簡単にできます。

 

 科学的な立場をとる言語学者として、規範的ルールによって表現を縛られる当時の状況を看過できなかったのでしょう。著作の一章を割いて批判的検証を行っています。

 

自分の母語を日常的に話している人をつかまえて、「非文法的」だとか、一貫して「ルール」を破っているとかいって批判することは、「文法的」や「ルール」という言葉が二通りに解釈されているに違いない。事実、自分の母語を知らない人がいるなどという妙な思い込みは、言語学的な調査の邪魔になる。

「ルール」、「文法的」、「非文法的」という言葉の意味が、科学者と一般の人で大きく異なることが、矛盾の原因になっている。皆が学校で習う「ルール」はどう話す<べきか>を示す「規範的ルール」である。一方、言語を研究する科学者は、実際にどう話しているかを示す「記述的ルール」を提示する。二つはまったく別ものなのだ。――Pinker1995

 

「規範的ルール」は標準語としての統一規格なので、地方語や流行語など実際に使われている表現を禁止する排除の論理で作られます。すでに言葉を操る能力がある人を矯正するためのもので、外国語として学ぶ人のためのものではありません。公に認められていて正誤の判定基準にしやすく、一見明快に感じさせることができるので学習用に転用されています。

「記述的ルール」は言語コーパスなどの情報をもとに現代語の言語現象を科学的に考察して法則を記述します。実際に使われている言葉を対象とし、従来の法則に従っていない表現も言語現象として受け入れます。英米の学習文法書では「記述的ルール:を取り入れられるようになってきています。

 

「文法を気にしなくてもいい」という場合の文法はほとんどが「規範的ルール」です。たとえば三単現のSは標準英語で使いますが、つけてもつけなくても伝わることには関係ないので、地方語ではS無しやどの主語にもSをつけるなどの変種があります。

「伝えるために文法が大切」という場合の文法は基本的に「記述的ルール」です。語の配列、機能語の文法機能など現代英語の文法的スタンダードに基づき、英語のネイティブ感覚に合致したものです。たとえばwhomなど本来不要な屈折を使わず、屈折を無視してmeを主格の意味に使うなど、規範には関係なく実用され伝わる表現です。

 日本の受験英語は典型的な「規範的ルール」を採用しています。だから三単現Sを着けないと誤りとしたり、状態動詞進行形を禁止したりしています。英米の保守的な学習文法書(『GIU』『PEU』など)が容認した表現も禁止あるいは無視して学参には用例がありません。

 和製の学習文法は「機能語」「内容語」というネイティブ感覚にもとづいた英語の文法的仕組みを説明するのに必須の用語を積極的に使おうとはしません。それで現代英語の「記述的ルール」を説明するのは無理でしょう。

 

「規範的ルール」の大半は屈折を文法コードのスタンダードとするラテン語文法の論理にもとづいています。一方「記述的ルール」の大半は語順、機能語を文法コードのスタンダードとする英語本来の原理にもとづいています。

Pinkerは「規範的文法ルールの多くは無意味であり、したがって、用語の手引き書から排除されるべきものだ」(Pinker1995)と記述しています。それは、ラテン語文法の論理VS英語本来の文法原理という構図でみるとよくわかります。

 

現代英語の話し手に、ラテン語がそうなっていないという理由で分離不定詞を禁じるのは、現代の英国人に月桂冠と貫頭衣を着けさせるのと同じぐらい無意味なことだ。ジュリアス・シーザーは、不定詞を分離したくてもできなかった。ラテン語の不定詞はfacereとかdicereのように、統語体系の原子としての単一語だからだ。英語はラテン語とは言語の種類が違う。複雑な構造の単語を自由に並べる言語ではなく、単純な単語を構造的に配列する孤立言語である。不定詞も補文標識のtoと動詞の二単位で構成されている。単語はその定義上、配列しなおせる単位であり、二つの単語の間に副詞を入れてはいけない理由など、なにもない。

――Pinker

 

 この記述をもとに、ラテン語と英語の文法的仕組みを対比して示します。

 

ラテン語:複雑な構造の単語を自由に並べる=単語[内容語+語尾] 

不定詞facereは、動詞facioの語尾が屈折した語(1単語に2つの形態素)

 

英 語:単純な単語を配列する⇒[機能語+内容語]の2語を配列

不定詞to doは、機能語toと動詞soを配列した型(単語が分離し1語1形態素)

 

 ラテン語の不定詞facereは1単語だから分離しようがありません。英語の不定詞はto doという2語を配列した型です。もともと2単語は分離しています。その間に他の語を挿入することは可能なのです。分離不定詞の禁則は、ラテン語の不定詞は分離しないから英語も分離してはダメという理由で作られたのです。

 Pinkerは分離不定詞の例として、to boldly go(勇敢に乗り出していく)を挙げ、これをto go boldlyとすると少しも勇敢そうに聞こえないと批判しています。これは英語話者の文法感覚を探る好材料になります。

 

[to boldly go]を抽象化すると[機能語+修飾語+内容語]という型になります。現代英語の基本的な型[機能語+内容語]の間に修飾語を挿入した型と見ることができます。英語は機能語と内容語がもともと分離しているので、その間に修飾語を入れることはごく普通の現象です。

[will not go]、[has just gone]、[is always going]はいずれも[機能語+修飾語+内容語]という配列です。もっと言えば[機能語+副詞+準動詞]なので、to boldly goもこれらとなんら変わりありません。

 近年の研究でも、ネイティブは幼児期の早期に機能語と内容語を区別して配列することが分かってきています。機能語と内容語の間に修飾語を入れることは英語話者にとって自然な配列です。

 分離不定詞は、「記述的ルール」では自然な表現ですが、「規範的ルール」はそれを禁止していたわけです。現在では正用と認められています。

 

 「前置詞を文末に置く」ことについての記述を引用します。

文を前置詞で終わらせてはいけないというルールにしても、ラテン語の格標識体系ではこれができない立派な理由があるが、格に乏しい英語にはその理由は通用しない。そんなルールにしばれれる必要など少しもないだろう。――Pinker1995

 

 前置詞を文末に置くことについて、『GIU』2019の記述を紹介しておきます。

 

  It's important to have friends with whom you canrelax.

 

 whomはformalな語で口語ではあまり使われず、ふつうは次のように言う)

 

   freiends you can relax with  or  friends who/that can relax with

                 ――『GIU for intermediate』2019

 

 ラテン語は単語が屈折して格を示すので単語1語で格を表示をします。前置詞という独立した機能語が発達した現代英語では[前置詞+whom]という2語で構成されています。だから意味が伝われば2語を分離しても問題ないというわけです。

[前置詞+whom]は今ではかなり固い表現で一般には避けられる傾向にあります。この記述にあるように修飾節や句にすると前置詞が文末に来ることになります。

 

 ラテン語は機能語が発達していない1語の単語だから分離できません。to不定詞も前置詞句も[機能語+内容語]の型を基本とした2語で構成されています。「規範的ルール」は物理的に分離不可能なラテン語文法の原理を根拠に、もともと分離している英単語の配列を規制したのです。

 英語の文法的なしくみ上、分離している単語の配列を変えることで様々な表現を生むのです。その配列の組み換えを禁止するというのは表現法のバリエーションを奪うことを意味します。英語のネイティブ感覚からすると理不尽な規制なので反発するのは無理もないことでしょう。

 

 この種の文法的正誤は伝わるかどうかには関係なく、ラテン語にはないという根拠から禁止するというものです。客観的に見れば、たいした理由ではないのです。誤りかどうかを気にして話すことを遠慮することはないでしょう。

 Pinkerが規範的規則について批判するのは、、ラテン語の論理に従って屈折を守ろうとする規範が、機能語と語の配列を文法コードのスタンダードする英語ネイティブが持つ本来の文法感覚を無視して、表現の自由を禁止するからです。

 

 主語と動詞の一致は2つのルールの矛盾を示す典型例です。

 

He don'tやWe wasのように、人称や数の区別が無くなるのは、一見、指南役の批判が当たっているように思えるかもしれないが、これは標準英語で数百年続いてきた傾向でもある。動詞の二人称単数形(sayest等)がなくなったことを、とやかくいう人はいない。――Pinker1995

 

 現代英語は、動詞を屈折させなくてもheは三人称単数、weは一人称複数というように独立した語で主語の属性を表示できます。ラテン語のように動詞の屈折で人称・数を表示するのとは文法的仕組みが異なります。英語の文法コードのスタンダードは独立した主語が数を表示する仕組みなので、英語話者は動詞の屈折は数には関係ないとして無視するのです。

 英語のネイティブは、He don'tだろうがHe doesn'tだろうが主語はheだから1人だなと判断します。「動詞の形態がdon'tだから複数なんだろうか?」と悩む人いません。

 仮に主語の数の表示法コードを、独立した主語と動詞の屈折の両方を等価なスタンダードとするとダブルスタンダードになって言語として機能しなくなります。屈折を無視することは英語という言語を扱う上で必須の文法感覚なのです。

 かつてあった動詞の二人称単数形は、主語と動詞を一致させるという余計な手間をかけるので消失したわけです。

 

 動詞語尾に不要なSを着ける作業は、英語本来のスタンダードである文法感覚に反します。動詞の屈折によって主語の数を表示するラテン語文法に準じて「規範的ルール」が残したのです。伝えるためには不要で、主語と一致させるという無駄でしかないことに意識をそがれることになります。「教え込む必要があるという事実そのものが、言語体系の自然な仕組みとは異質な存在である」というPinkerの言にまさにあてはまります。

 英語ネイティブの文法感覚は、語順>機能語>屈折という優先順位で、語順、機能語で情報が分かれば屈折は無視します。外国語として英語を真名ぐ初学者に、最も優先順位が低く時によっては無視するという感覚が必要な動詞語尾Sを強要するのは全く理にかないません。

 英語という言語のしくみが分かれば、文法を気にして伝えることをためらう日本人を作るリスクをおかしてまで指導する文法事項かどうかは判断が付くでしょう。

 文法規範は標準語としての正しい言葉使いの「規範的ルール」の習得は、ある程度言語が操れるようになってから矯正しても遅くありません。ネイティブもそのように学習して身に着けるのですから。

 

 Pinker人称代名詞の格変化という屈折による文法手段について記述しています。

格の体系は、名詞についてはなん百年も前に消滅し、he/himのような代名詞にのみ生き残っている。代名詞の中でさえ、主格のyeと目的格youの区別は無くなり、youが用法の役をつとめるようになった。Yeは完璧に古めかしい。Whomはyeより長生きしたが、瀕死の状態にあるのは明らかだ。

 主語と目的格の両方にyouを使ってyeの消滅を乗り越えたのだから、皆が話し言葉で、主格と目的格の両方にwhoを使うようになったいま、whomに固執する理由はないだろう。文法論理から考える限り、代名詞はどんな格をとってもいいのである。

――Pinker1995

 

 現代英語は語順を文法コードのスタンダードとして格の表示をする言語です。SVO語順でSの位置にある語を主格、Oの位置にある語を目的格とします。だからyouが主格と目的格を兼ねても困りません。格変化という屈折による格表示は余計です。

 規範文法が屈折による格表示を規則とするのは、屈折>語順をコードとするラテン語の論理に従うからです。現代英語は、格を表示する文法コードでも語順>屈折に従います。

 もしも語順と屈折を等価に扱うとダブルスタンダードになり解読不能になってしまいます。「規範的ルール」が格変化という屈折に固執するのはラテン語のようにありたいという願いからで、英語にとって人称代名詞の格変化は、伝えるためには余計です。語順で格を表示する英語では、言語として健全であるために、屈折は無視するという文法感覚は必須なのです。

 

 anyoneやeveryoneなど不特定の人を受ける人称代名詞theyに関して、規範が単数扱いすることを論理的に誤りと指摘しています。要約して紹介します。

 

If anyone calls, tell them I can't come to phone.

 誰かから電話があったら、今出られないといって

(サリンジャーの『ライ麦畑で』の中の、ホールデン・コールフィールドの引用)

 

 指南役たちはいう。anyoneはany oneだから単数主語であり、themなどの複数代名詞で受けることはできない。If anyone calls, tell him I can't come to phone.となってしかるべきだ。

 こう言われると何か変だぞと、と感じる人多いのではないだろうか。女性が電話してくる可能性がある場合、「彼に」なにかいってくれるようにルームメイトに頼むのはおかしい([性差別だ]と怒らない人も、これは妙だと感じるだろう)。妙だ、不自然だという感じには根拠がある。今度このいい方にけちをつけられたら、つぎの文はどう直せばいいか、と聞くといい。

 

 Mary saw everyone before John noticed them.

  ジョンが彼らに気づくまえに、メアリーはみんなを見ていた

 Mary saw everyone before John noticed him.は明らかに成立しない。

 

 anyoneとthemは「前件」と「代名詞」の関係にはなく、同じ人間に言及しているわけではない(同じ人間に言及するなら、数が一致しなければならない。この二つは論理学でいう「量記号」と「束縛変項」の関係にある。「すべてにXについて、Xへ断りを入れる」という意味になる。…この文が意味するのは、電話がかかるたびに、もし、かけてがいるならほかの誰かではなく、そのかけ手に断りをいってくれ、ということである。

 論理学的には、変項はいわゆる「指示的」代名詞(たとえば、heは特定の男性に、themは特定の集団に言及する)ではなく、したがって、数の一致を要求しない。

――Pinker1995

 

 指示的代名詞themは特定の集団を指すので複数と決まります。変項の代用として使うthemは特定されたものと同じという記号に過ぎないから数が決まらないということになります。Pinkerは指示代名詞と変項が別の単語である言語もあるが、英語には変項に使う別の単語がないから不特定のものを受けるthemは変項の代用で指示代名詞の「同音異義語」と表現しています。

 実際の英語はyouが単数・複数兼用でも問題ことから分かるように、数に対しては寛容なのです。だからtheyが単数・複数になったからといっていまさら問題にするのもおかしなことと言えます。なぜyouは正用でtheyは誤用なのか、全く論理的一貫性を欠きます。

 

 英語が数に厳密という見方は「規範的ルール」を植え付けられたことが原因でしょう。人称・数の表示はラテン語では動詞の屈折で示します。主語の数に対して厳密なのはラテン語文法に準じているからです。

 学校文法ではつい最近まで、theyが単数を受けることがあるという事実をほとんど教えていませんでした。

 

「日本では、中学生や高校生向けの文部科学省承認の教科書ではtheyを厳密に複数形の代名詞としてラベル付けしており、大学や会話学校で人気のある会話や批判的思考に関する書籍でもSTはほとんど取り入れられていない。

――Cynthia2022

 

  単数に使用するSingular they(ST)は、2022年に以下のような文が東大入試に使われて話題になりました。

  The author did not like their body.――2022年東大入試

 

 この用例のtheirは単数の主語autherを受けています。なぜこれが話題になったかというと、それまで学校文法では正用として教えていなかったからです。Cynthia2022には、当時アンケートをとった大学生55人のうちTheyが単数を受けることがあることを知っていたのは1人だけだったと報告しています。

 

 学校文法は「規範的ルール」をもとにしています。学校文法の情報更新は、英米の規範の変化に追従しますが、たいてい数十年遅れになります。英国、米国とも規範を決める公的機関は存在しないので辞書や語法書、スタイルブック等で個々に記述を変えていきます。記述がばらつくので文科省が大勢が決まるのを待って正用と認めるのが遅れるのです。その後指導要領の改訂、入試に出題、過去問をもとに学習文法を改訂となるので、数十年遅れるわけです。

 結果として英米で廃れた「規範的ルール」が学校文法に残っているということになっています。STはその中の一例です。

 外国語として学ぶ立場では規範としての正誤は決める権利はありません。しかし実際に使われている用法について知る権利を放棄することはないでしょう。現状、和製の英文法学習書のほとんどは「記述的ルール」は載せないので、受験目的以外の学習者は他から情報を入手する必要があります。

 

 30年ほど前にPinkerが取り上げたSTを、日本の教育界が取り入れのはこれからになります。

 Pinker1995が説明に使っている「変項」という概念は面白いですが、学習文法に取り入れるには少々難しいかもしれません。学習文法の説明は、精緻であるよりもできる限り分かりやすいことと汎用性があることが求められます。ただし従来の出来合いの文法書では単数を含めた不特定のものを指すtheyの用法説明はなく、用法自体知らない学習者が多いのが現状です。

 この用法については、英語の文法的仕組みに基づいた汎用性のある説明がいいのではないかと思います。

 人称代名詞itは形式的な主語とされます。人称代名詞youにもtheyと同じく単・服の区別がない用法があります。英語の人称代名詞は、語順を構成する機能語で、文法化が進み意味が一般化して汎用できます。その中でtheyは単数・複数という意味内容にとらわれずにeveryoneやanyoneなど不特定のものを受ける用法をもつという理解で実用できるように思います。

 このtheyの用法については下にリンクした記事で詳述しています。

theyは「彼ら」とは全く別の語―theyは三人称複数を指す語?ー | しんじさんの【英文法を科学する】脱ラテン化した本来の英文法はシンプルで美しい! (ameblo.jp)

 

 

 品詞転換が容易に起こるというのは現代英語の文法的な特徴です。現行文法からは抜けている気がします。

自称指南役たちは昔から、英語の話し手が無造作に名詞を動詞化する、と嘆いてきた。

 名詞が動詞化しやすいことは、何百年も前から英語文法の特徴になってきた。英語を英語にするプロセスの一つなのだ。私の推定では、英語の動詞の約五分の一が名詞だった。

 人体をとるだけでも、委員長を務める(head a commitie)、かわいい子に目をつける(eye a babe)、オフィスを嗅ぎまわる(nose around the office)、………、back a candidate(候補者を支持する)、重責を負う(shoulder the burden)、………、町中足で取材する(leg it across town)、感情を持つ(foot the bill)、統制に服する(toe the line)のように、文字どおり頭からつま先まで動詞化されている。

 この現象のどこがいけないのだろう。名詞と動詞の区別を徐々になくしてしまうのではないか、と思われているらしい。ここでも、市井の人々の能力を軽く見られている。――Pinker1995

 

 ラテン語の基本単語は屈折という標識によって品詞が表示され、使い方が決まっているから品詞転換が起きにくいのです。

 一方、英単語の多くは屈折という標識を失い無標なので単語の品詞はあいまいです。その代わりに語の配列によって単語の文法性(品詞)を示すという文法コードをスタンダードとしているので、語順を変えるだけで容易に品詞転換できるのです。

 

 屈折言語の単語は有標で使用制限を受け英単語は無標で使用制限を受けないという構造の違いと、文法コードのスタンダードが、屈折>語順のラテン語と、語順>屈折の英語という文法的仕組みの違いが品詞転換の容易性の違いです。

 それが理解できていれば、市井の人の能力には関係ないことは自明です。英単語の構造と文法的仕組みが変わらない限り指南役は嘆くだけ無駄です。

 

 現代英語は屈折形でも語の配列を機能語によって品詞が変わります。

 

 Where are you heading (どこへいくの?)

 

  He is a skilled player at heading. (彼はヘディングが得意な選手だ)

 

 この2文ではheadingの文法性が異なります。be headingと配列すると現在分詞、at headingと配列すると名詞と呼ばれます。

 文法コードのスタンダードを語順>機能語>屈折とする現代英語は、無標で品詞が曖昧な内容語の英単語を、屈折を無視して機能語と組み合わせて語を配列して文法性を示すのです。

 

 以上のように見ていくと、文法的な正誤論争の多くが「規範的ルール」と「記述的ルール」の違いに起因することが分かります。今回取り上げた文法事項の多くは、正用として認められるようになってきています。英米の文法は「規範的ルール」から「記述的ルール」へと脱ラテン化へシフトしているということです。

 

 Pinker1995の記述を見ると「規範的ルール」が悪であるかのように映るかもしれません。しかし規範も元の理念から言えば「伝わる」ことを目的にしています。自然言語には、元々地域や階層によって異なる様々な変種が存在します。言語を広く伝わるようにするには統一するには規則決めて標準とし、規範から外れる変種を非標準とすることが求められます。

 実際にそのプロセスを経て今の標準英語できたわけです。標準化が進んで成果はあったので、今は多様性を認める方向へ価値観が変わってきています。標準変種は書き言葉や公式の場での言葉使いで、非標準は標準から外れてはいるけれども‘誤り’ではないというのが一般的な認識です。実用的には、仕事のプレゼンでは標準語をつかい、その前のスモールトークでは非標準というように使い分ければいいということです。

 

 Pinkerは規範を激しく批判しますが、当時の風潮に対する反発も多分にあったでしょう。意味するところは多様性の尊重にあるのだと思います。最後に以下の記述を引用しておきます。

 

ある社会で標準となった方言を学ぶ機会がすべての成員に与えられ、改まった状況でそれを使うことが奨励されるのは常識といっていい。しかし、地方方言や黒人口語などについて「ひどい文法」、「慣用を無視した統語法」、「間違った用法」などの表現をする必要はどこにもない。「非標準的」という意味で「ひどい文法」というのは侮蔑的であるだけでなく、科学的にも正確ではない。――Pinker1995