「おのずから」と「みずから」竹内整一(著)を読んで | ほっこり 知恵袋

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日本思想の基層「おのずから」と「みずから」は、共に「自ずから」と書く。
偶然の一致か、何か関係はあるのか?とても興味深い。「おのずと」成り行きに任せて、自然とという意味で文脈が繋がっていく。一方、「みずから」は自分、自己という個人を指し、その後の文脈は個人の意見が書かれていく。
二つの相反する意味で用いられる言葉は、何故同じ漢字表記になるのか?

高村光太郎の詩「火星が出ている」の詩(抜粋 本文より引用)

おれは知らない 人間が何を得ようとすべきかを
おれは思う 人間が天然の一片でありうることを
おれは感ずる 人間が無に等しい故に大であることを
ああ、おれは身震いする 無に等しい事の頼もしさよ
無をさへ滅した 自然のび漫よ

本文解説が素晴らしい。
自然の「おのずから」に生きることにおいてこそ、「たった一つの生(いのち)」としての「みずから」を一人立ちさせることができるのである。云々…。

もしかしたら、日本人の死生観もそこにあるのではないかと思った。
「今」「今日」という時間は「完結」であると同時に、「明日」という「未来」への「志向」、「継続」へつながっている。相関しているのである。
曖昧と解釈されることもあるが、敢えて不明瞭であるとも言える。
元々が一つのものであるならば、敢えてべつにする必要はない。
日本語は、話す相手がわかっているときは主語を省略するのが一般的である。
わざわざ、わかっていることを言わなくても通用する言語なのである。
歴史的な背景や自然環境、様々な要因が考えられる。
こちらの本文には、実に多角的な要素が含まれている。
是非、お読み頂きたい。
民族的な背景や思考、曖昧さが肯定される風土、無常観など。思想と傾向が多角的に書かれている。

私は「日本人の死」に対する考え方がとても興味深かった。それは、信仰とも結びついているように感じた。かつて敢えて死の宣告をしなかった時代があったが、もしかしたら本人がおのずと分かっていることであり、敢えて他人から宣告されなくてもよかったのではないかと思った。
おのずと感じることは、敢えてしないこと。それが思いやりとも思える。
一年前、義父を亡くした。医師からははっきりとした死の宣告はされなかった。
恐らく、本人は感じていたに違いない。後から出てきた遺言書の日付が随分早かったことに驚いた。在宅看取りをしたが、本人はいつもの日常の中で、今後も続くであろう幸せを願って旅立った。普通の生活の中での自然な死。
わかっているけど、敢えて言わない。そのような「あたりまえ」のなかに死があった。

死生観は、元々は自然のなかにあるものなのだと思った。
「おのずから」の生(いのち)を「みずから」のたった一つのいのちへ。
同じ一つの「いのち」はつながっている。
そう考えると合点がいく。