ほっこり 知恵袋

ほっこり 知恵袋

三軒茶屋の歯医者さん 下馬デンタルクリニックのブログです。詳しくはこちら⇒http://shimouma-dentalclinic.jp/

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第29回市民と介護を考えるカフェ「オリーブの木」は、ゲストに空き家を利用して民泊を始めた学生の団体、「ここたまや」の代表、坂根千里さんをお迎えしました。築50年の空きアパートを自分達で改装し、民泊施設としています。
民泊を通して、外国人や学生が地域の方と交流出来る場を作ろうとしています。
便利な時代に、敢えて不自由さを求めているのは何故か?
その辺もお聞きし、世代がつながる場について自由に語り合いました。

☆世代間の考え方のズレ
生きてきた時代が異なるため、家族構成、コミュニケーションの取り方が異なる。人間同士の距離感も異なる。地域性もある。
☆よそ者の受け入れ方
「ジェネレーションギャップは、外国人の受け入れと同じよ。」
そう、おっしゃった方がいました。生活様式、文化が違うことは正しく同じと言えるでしょう。同じ世代では通じることが、別の世代では通じないことはよくあります。共通言語がないところでどのようにコミュニケーションをとればよいのか?
「翻訳者がいればよいのでは?」
「言葉以外の方法で通じ合うには?」
「例えば、一緒にご飯を作り、食べるとか。」
「料理教室とか」
「裁縫を習いたいお友達がいるのだけれど…。」
「裁縫教室はやっているわよ。教えてあげるから、いらっしゃいよ。」
「教会のケーキ作りもお手伝いに来ないかしら?」
「外国人も歓迎よ。」
「ケーキは寄付のために、様々な所にお渡ししているのよ。」
「誰かのためが自分達のためになる」
「お互いに助けて欲しいこと、出来ることはありますね。」
☆何故、不自由な空き家で暮らしてみようと思ったのか?
「ここたまや」の代表、坂根さんはご自身も「ここたまや」に住んでいらっしゃる。風呂なし、九畳のアパート。
敢えて不自由さを知ることで、見えてくるものがあること。
人との関わり方、不自由だからこそ、助け合えること。
近所の方が、食べ物のお裾分けをしてくれるなど…。
「不自由ならば沢山経験しているわよ。」
「戦争で物がないこと。」
「日々の暮らしが精一杯だったわ。」
「そう、少ない資源で体と頭をフル回転させて生きていたわね。」
「助け合わないと生きていけない時代だった。」
「震災でも同じよ。」
「人のつながりが、命をつなぐみたいな…。」
「気づく人、気づいても体が動けない人、気づかないけど体は動く人がいます。」
「センサー、マネージャー、メッセジャーでしょうか?」
「世代に置き換えると、経験豊富な高齢者がセンサー、情報を受け取って手配するのが現役世代、身軽で動きの軽やかな学生がメッセジャーでしょうか?」

☆外国人が求めている日本って何だろう?
「迎える日本人が構えすぎ。語学が出来なくても大丈夫。」
「そのままの日本の生活、文化に触れたいと思っている。」
「外国人をホームステイしたことがあるわよ。」
「伸び伸びしていて、こちらに遠慮はしないのね。何でも聞くのよ。」
「キッチンまで入ってきて、驚いたけど…。」
「普通にしていたらよいのだと気づきました。」
「文化や生活様式の違いがあり、戸惑うけれど…。」
「ルールを決めるとよいのでは?」
「線引きが難しいことはあるけれど…。」
「まずやってみて、それから改善点を一緒に考える。」

❰まとめ❱
☆居心地のよい居場所ってどんなところ?
「人」知っている人がいる。他愛ないおしゃべりができる。
「近所」移動しやすい場所であること。ひとりでも行ける。
「情報を得る場」自分なりの手段で知りたい情報を得ることができる。
「自分の存在を知ってくれる場」いざというときに、誰かに助けてもらえる。
「つながる場」誰かとつながることで、情報を得ることができる。
「趣味の仲間がいる」ペットと通した友人など。

☆世代間交流するには?
前述の「よそ者」の受け入れと同じように、お互いに助けて欲しいこと、自分が出来ることを出し合うこと。何が必要かに気づく人、つなぎ役のメッセジャーと役割分担するマネージャーがいること。

参加者は少なかっけれど、楽しい時間を過ごしました。









昨日、多摩のシンポジウム「がん患者が求める対話」を開催することができました。

きっかけは、第24回市民と介護を考えるカフェ「オリーブの木」でテーマ『がん患と共に生きる』でした。https://ameblo.jp/shimoumadentc/entry-12347810270.html

ゲストとしてお招きした、樋野興夫先生〈順天堂大学教授≪病理・腫瘍学≫、一般社団法人がん哲学外来理事長、恵泉女学園理事)、当事者のパネリストで現役でご活動中の方々にお話を伺いました。その中で、病気を抱えながら生きることで当事者が最も気になったことは、医療者との関係でした。不安な気持ちを受け止めて欲しい患者は、医療者の態度や言動に傷つくことが多いようです。インフォームドコンセント、セカンドオピニオンは今では行われるのが普通です。しかし、本当に患者が求めている医療なのでしょうか。患者の気持ちが置き去りにされて、医療技術や方法などの治療が優先されいないだろうか。

説明と対話、会話は違います。話し手と聞き手の関係はどうなのでしょうか?

対等性があるのは、会話と対話です。何がどう異なるのでしょうか?

そんな疑問が持ち上がり、シンポジウムで話し合ってみようという運びになりました。

 

 

パネリストの方々は全員がんサバイバーでした。現役で仕事を続けながら、家族もいて、治療も続けています。

突然のがんの告知、治療の開始、病院では本人の気持ちが置き去りにされたまま、「病気」の治療が優先されていく現実。

まだ、本人は病気を受け止められないでいる間に…。

当事者と家族の間でも温度差があること。

家族は、大切な人だからこそ、最善の治療を望んでいること。

当事者の気持ちより、治療を優先してしまう傾向があること。

当事者の気持ちは、誰なればわかってくれるのでしょうか?

医師でしょうか?看護師でしょうか?

それぞれの体験と思いを語り合いましたが、残念ながら「医師」と答えられた方は少なかったのです。

どうやら、医師に限らず、「つらい気持ちを吐き出せる人」らしいです。

人柄にかかっている、または言い出せる状況や場、環境にかかわる要素が大きいようです。

 

対話とは?

人それぞれ持っている価値観が異なる、という前提で、相手を真っ向から否定するのではなく、お互いを尊重し合い話し合うことで新しい答えを導き出すこと。

 

会話とは?

話のやり取りのこと。

 

対話には、対等な立場が前提です。お互いを尊重しあうには信頼関係が必要です。

さて、対等性と信頼関係をつくるには何が必要でしょうか?

医師であり、患者の経験もあり(がんではない)、患者家族であった、杉山先生。

三者の立場をよく理解してくれています。杉山先生が当事者として救われた医師というのは、面と向かってバリバリ明るく治療に向かう医師ではなく、さりげなく声掛けしてくれる「癒し系」の医師のほうでした。

私はこの言葉にぎくりとしました。なぜ日常の診療で患者が私の前で本音を言わないのかに気づいたのです。

不安なことはいつもスタッフに相談しているのです。スタッフの人柄を見て、「聞いてくれそうな方」を選んでいるようなのです。

よく相談を受けているスタッフに聞いてみたら、「間」があるからではないかと言われました。

「間」とは、話し手にとって考える時間であり、「大切な気持ちを打ち明けてもよい相手であるかどうか判断ができる時間」でもあります。

信頼できるかどうか、真っ先に自分の意見を否定しないでくれる相手かどうか…。

「共感する」気持ちを持ち合わせているかどうかが決めてなるように思いました。

共感は、否定も肯定もしないで、そままの気持ちを受け止めることです。

不安や苦しみの中にいる人は、正論をもめているのではないという事。論理的に治療が必要なことはわかっていても、気持ちが追い付かないということではないでしょうか?「もやもやした気持ち」「やり場のない不安」「焦燥感」「憂鬱感」など。

「受け止めてくれたら、すっと心が軽くなったんです。」「それから、治療に向かう決心がつきました。」

そうおっしゃったパネリストがいました。

そうなのですね…。

医療者の強い口調や、確定的な言い方、態度は、患者を余計不安ににさせているのですね。

共感力はとても重要であること。そんなことに、今更ながらに気づいたのでした。

患者の気持ち、自己決定、自由意志それが最も優先される生き方ではないかという、樋野先生のお言葉がこの日、一番応えたました。

パネリストの皆様は、それぞれの想いを抱えながら、自己決定し「今」を生きていらっしゃる。重い選択もあったでしょうが、まっすぐに自由意志を実現されいるお姿に感銘を受けました。参加者の中には、涙ぐんでいらっしゃる方もいました。ご自身の体験と重ねていらっしゃるのかもしれません。先ずは、自分自身と向き合うこと、自分はいったいどうしたいか心の中と対話することが大事ではないかと思いました。

 

「対話とはなにか?」改めて考えさせられた1日でした。

パネリストの皆様、杉山先生、樋野先生、スタッフの皆様、そして参加者の皆様に感謝と御礼を申し上げます。

 

 

 

 

 


今回は、府中市のわらしこ保育園園長の大伴美砂子先生にお話を伺いました。パネルディスカッションでは、パネリストに主任児童委員をされている、那須史子さんにもご登壇いただきました。子供を取り巻く環境を踏まえて、今地域で求められていることとは何でしょうか。皆様と共に考えてみました。

日時:2018 年9月30日(日) 14:00~16:00
場所:聖マルコ教会(JRまたは京王線分倍河原駅徒歩5分)


❰講師プロフィール❱
大伴美砂子(おおともみさこ)
社会福祉法人わらしこの会わらしこ保育園)園長地域の拠り所として2000年に設立。子育てひろば、赤ちゃん講座、園庭開放など子育てに関する地域への発信を続けている。
❰パネリストプロフィール❱
那須史子(なすふみこ)
主任児童委員、保護司、あおば学習支援など地域の子どもたちと関わり続けている。

❰プログラム❱
14:00-~14:30  講演「子どもが健やかに育つには?」わらしこ保育園園長
14:30~14:40休憩
14:40~15:40  パネルディスカッション「地域の中で子どもが育つために必要なことは?」
15:40~16:00質疑応答、終了


第1部わらしこ保育園園長、大伴先生の講演の感想
わらしこ保育園の理念は、子どもの感覚を大事にすること。
五感を使い、子どもが自分で学びながら成長していくことを大事にしているそうです。園庭は、特別な遊具はない。泥んこ遊びができるように砂場があり、木や丸太がある。他にプールがある。できるだけ手を加えない自然の環境を保っている。子どもが自ら手を触れたり、工夫して遊べるようになっている。
子どもの自主性を見事に引き出していると思いました。敢えて過保護にしないことで、子どもの能力を引き出していました。
子どもが自らの失敗などの体験を通して、工夫していく。
心身ともに頼もしく成長しているところは素晴らしいです。



第2部のパネルディスカッション
テーマ「地域の中で子どもが育つために必要なことは?」
パネリストに主任児童委員の那須さんのお話を伺いました。
子どもが今、置かれている現状は、問題が顕在化しにくいこと。
SNSの普及により、いじめの拡大があり、複雑化していること。スマホは小中学生の利用まで及んでいる。小中学生利用の仕方は、遊び感覚ということもあり、注意しなければならない。利用時間を決めることが必要になるということ。
ある中学校では、生徒会で利用時間を決めたところ、劇的に効果があったそうです。
・親の都合でスマホを持たせる場合もある
両親共働きの家庭が多くなり、連絡を取る手段として早くから子どもに携帯電話を持たせることが普及している。
・友人同士などの連絡手段がLINEになっているため、参加しないと情報が得られない。仲間外れになりたくない。
・対面での会話が少なくなる理由は何だろうか?
家族揃って食事をする機会が減少している。家族との会話がなくなり、気軽に悩みなどを相談できなくなっている。両親共働きや片親の家庭が増えているため、家族も子どもの話を聞く余裕がなくなってきている。

・子どもが安心していられる場は、どういうところだろうか?
信頼できる大人がいること、話しやすい雰囲気や場であること。子ども食堂もその中にはいる。
・塾や部活動に参加できない子どもはどうなのか?
学校の図書館、児童館などを利用する場合がある。ボランティアで学習支援をしているところもある。大学生が参加してすることで、よい相談相手になるそうです。

・医療機関などで虐待が疑われるときは、どこに通報したらよいのか?
児童相談施設、地域包括センター、保健所など。
警察に通報する前に、子どもを安全な場所へ避難することが先になる。

❰感想❱
子どもが健やかに育つことは、誰もが願うことです。
子どもが安全に育つためにには、生きていく力をつけることが重要になります。
わらしこ保育園での取り組みは、敢えて与えすぎない自然の環境で、子どもの自立を育てる保育をされています。自分の頭で考え、行動する力は人生の基礎となります。ところが、現在の子どもを取り巻く環境は著しく変化しています。
家庭環境の変化、コミュニケーションの取り方、経済格差などが背景になります。顔の見えないコミュニケーションは、顕在化しにくく、人間関係も捉えにくくなっています。子どもたちの生き辛さは、現在は益々大きくなっているとおもわれます。では、地域の中で子どもたちを手助けするために、大人たちはどのように関わればよいのでしょうか。その一つがボランティアだと思います。
募金でも、チャリティーバザーでも構いません。何かひとつでよいから、参加してみることです。そこから気づくことをまず始めてみることではないでしょうか。本日参加された方で、府中市の子ども食堂、「こどもの居場所作り@府中」に寄付をしてくださった方がいました。ご高齢の方で、「子どもたちのために少しでもお役に立てれば。」と。そのような気持ちこそ、大切にしたいです。今、自分ができることは何でしょうか。身近な小さなことでよいのです。先ずは始めてみようではありませんか。