山口県の伝説、その3 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

うり子姫

むかしむかし、あるところに、子どものいないおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日の事、おばあさんが川へ洗濯に行くと、ドンブラコ、ドンブラコと大きなうりが流れてきます。「おやおや、何て大きなうりでしょう。家へ持って帰って、おじいさんと二人で食ベましょう」

おばあさんはうりを拾い上げると、家へ持って帰りました。うりが大好物なおじいさんは、おばあさんが持って帰ったうりを見て大喜びです。「こんなに大きなうりは、初めて見た。・・・よし、わしが切ってやろう」

おじいさんが包丁(ほうちょう)を振り上げると、うりはひとりでにパカッと割れて、中から可愛らしい女の子が飛び出してきました。「おや?」「まあ!」子どものいないおじいさんとおばあさんは、大喜びです。うりから生まれた子どもなので、名前を『うり子姫』と名づけました。

赤ちゃんの頃から可愛い子でしたが、うり子姫は大きくなるにつれてますます可愛らしくなり、やがて成長すると『けしの花』の様な美しい娘になりました。そのあまりの美しさに、お殿さまがお嫁にほしいと言ってくるほどです。

うり子姫は機(はた)をおるのがとても上手で、毎日楽しそうに機おりをしながら、おじいさんとおばあさんが帰って来るのを待っていました。ある日の事、うり子姫がいつもの様に一人で機をおっていると、やさしそうな声で戸をたたく者がありました。

「もしもし、可愛いうり子姫や。この戸を、開けておくれ。お前の上手な機おりを、見せてほしいのさ」けれども、うり子姫は戸を開けずに言いました。「いいえ。戸を開ける事は、出来ません。もしかすると、あまのじゃくという悪者が来るかもしれないから、誰が来ても決して戸を開けてはいけないと、おじいさんに言われているのです」

するとその声は、もっとやさしい声で言いました。「おやおや、あのあまのじゃくが、こんなにやさしい声を出すものかね。大丈夫だから、開けておくれ」「・・・でも、戸を開ける事は出来ません」「それなら、ほんの少しだけ開けておくれよ。ほんの少し、指が入るだけでいいからさ」

「・・・それなら、指が入るだけ」うり子姫は、ほんの少しだけ戸を開けました。するとその声が、またやさしい声で言います。「ありがとう、お前は良い子だね。でも、もう少しおまけしておくれよ。ほんのもう少し、この手が入るだけでいいからさ」「それなら、手が入るだけ」うり子姫は、また少し戸を開けました。

「お前は、本当に良い子だね。でも、もう少しおまけしておくれよ。ほんのもう少し、この頭が入るだけでいいからさ」「それなら、頭が入るだけ」うり子姫がまた少し戸を開けると、戸のすきまから頭を突き出したあまのじゃくが、するりと家の中へ入って来ました。

「けっけけけ。お前は、バカな娘だ。じいさんとの約束を破って、おれさまを家に入れるなんて」あまのじゃくはうり子姫の着物をはぎ取ると、うり子姫を裏山の柿の木にしばりつけました。それからあまのじゃくはうり子姫の着物を着て、うり子姫に化けて機おりを始めました。

間もなく、おじいさんとおばあさんが帰って来ました。「うり子姫や、さびしかったろう」するとあまのじゃくが、うり子姫の声をまねて答えました。「ええ、とってもさびしかったわ」

その時、家の前が騒がしくなりました。うり子姫をお嫁にもらう為に、お殿さまのカゴが迎えに来たのです。「うり子姫や、お殿さまのお迎えが来たよ。これでお前は、何不自由なく幸せになれるよ」おじいさんとおばあさんはとても喜んで、うり子姫に化けたあまのじゃくをカゴに乗せました。

カゴの行列はお城へ向かって、裏山の道を登って行きました。すると柿の木のてっペんで、カラスがこんな声で鳴き出しました。

♪カー、カー、カー、カー、かわいそう。
♪うり子姫は、木の上で。
♪おカゴの中は、あまのじゃく。

「おやっ?」みんなはそれを聞いて、うり子姫がしばりつけられている柿の木を見上げました。「まずい、逃げよう」うり子姫に化けたあまのじゃくはカゴから逃げようとしましたが、お殿さまの家来に捕まって首をはねられてしまいました。

こうして本物のうり子姫がカゴに乗ってお城へ行き、お殿さまのお嫁さんになって幸せに暮らしたのです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


落ちた雷

八代の山の中の里には、天徳曇天(テントクドンテン)さまというえらいお坊さんの開いた、太陽寺という古いお寺があります。

ある日、にわかに夕立がきたかと思うと、お寺の庭に、われるような音をたてて雷が落ちてきました。テントクドンテンさまは、雷にも負けない大きな声で、「おつちッ」と雷に呼びかけられました。

すると、どうしたことでしょうか。雷は急に力がぬけて、その場にはいつくばってしまいました。「おつち」というのは女の人の名前ですが、雷は名前をつけられると、天にかえる力を失ってしまうのだそうです。

テントクドンテンさまはそれを知っており、雷が落ちてきた間一髪をはずさず、雷をいけどってしまわれたのです。こうして雷はおつちとよばれて、そのお寺で奉公することになりました。

テントクドンテンさまは、「しばらくこの寺で修業してから天にかえるがよい、そうした方が天の雷一族にも、申し開きができるじゃろう」といわれたので、その日から毎日、八代の里のはずれまで水をくみに通いつづけておりました。

ある晩のこと、テントクドンテンさまの夢枕に、天から雷の子供がおりてきて、「テントクドンテンさま、あなたのところで水をくんでいますのは、わたくしの父でございます。どうぞ一日もはやく天にもどしてくださいませ」と涙ながらにたのむのでした。

テントクドンテンさまは、目が覚めても夢だと思えず、また、親を思う子のこころをあわれと思い、さっそく雷のおつちをよんで、夢の話をかたって聞かせました。

すると、おつちは、「実はわたくしも息子の夢を見ました。息子が申しますには、お父さんも水くみがえらかろう。わたくしから和尚さまにお願いしてあげるから、天にかえしてもらうとよい。それには水のくみ手がいろうから、お父さんが天にもどってくるとき、お寺の裏庭の岩に爪をかけてのぼりなさい。その爪あとから年中清水がわきだすように、仏様にとりはからってもらいましょう。というのでございます」と申しました。

この話を聞いて、テントクドンテンさまは、はたと、ひざをたたいて、「かえれ、おつちッ」と大声をかけられました。そうすると、大雨がザァザァとふりはじめ、雷のおつちは、裏庭の岩にガッと爪をかけると大地をけって、またたくまに天にのぼってしまった、ということです。

このときからふきだした岩間の水が太陽寺の「雷水」とよばれているもので、どんなに照ってもこの清水のおかげで、お寺では水の心配がさらさらないということです。

太陽寺の「雷水」のいわれ(熊毛郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


干支のはなし

子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)──というのは、ご存じのとおり「干支(えと)」というものです。

さて、ここに出てくる動物たちは、どうしてこんな順番になったのでしょうか。それには、こんなわけがあるのです。

むかし、むかし、ある年の暮れのことです。神さまが、動物たちの集まっているところで「新年のあいさつには、元日の朝はやくでかけてくるように」と申しわたされました。

そして、神さまは動物たちに「はやく来たものから順々に、一番、二番、三番から十二番まで、一年のあいだ動物たちの大将にしてやろう」と、約束されました。そこで、動物たちは「自分が一番先に行ってやろう」と、正月元日の朝がくるのを待っていました。

さて、元日になると、暗いうちから目が覚める牛は、歩くはやさも、のそりのそりと遅いので、夜の明けないうちから支度をしてでかけました。そのようすを天井裏から見ていたねずみは、ぽんと牛のせなかにとびのりました。

牛はそれを知らずに、神さまの御殿(ごてん)までやってきました。あたりを見まわしましたが、他の動物たちはまだ来てません。「わしが一番さきに到着じゃ」と、牛はおおよろこびで、門が開くのを待ちました。

ところが、神さまの御殿の門が開いたとたん、牛のせなかからねずみが飛びでて、ねずみが一番に、牛は二番になってしまいました。それから、とら、うさぎ、りゅう、へび、うま、ひつじ、さる、にわとり、いぬ、いのししの順に、動物の大将の順序がきまりました。

ところで、猫は寝ぼうをしてしまって、十三番目にやってきたので、仲間にはいれてもらえませんでした。そして、この十二の動物たちが、それぞれ干支になった、ということです。

(大島・都濃・吉敷郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より)


臼臼まわれ

むかし、むかし、周防(すおう)の国のある村に、正直で親切な庄屋(しょうや)さん夫婦が住んでいました。この庄屋さんの家には、ずっと昔から伝えられて来た宝物がありました。その宝物というのは石の臼でした。

この石臼に「臼、臼まわれ」といいますと、真っ白な塩が、さらさらといくらでも出てくるのです。庄屋さんはその塩を村の人たちに分けてやりました。そのおかげで村全体は塩にふじゆうせずしあわせに暮らしていけました。

ある日のこと、この不思議な石臼の噂を聞いた隣の国の庄屋さんが、周防の国の庄屋さんの家までやって来て、「わしにもあんたのうちの石臼をおがませてくれぇや」と、頼みました。正直で親切な周防の国の庄屋さんは、蔵の中に案内して、石臼から塩を出して見せました。

これをみた隣の国の庄屋さんは、まこと噂通りに塩の出る石臼をうらやましく思い、石臼がほしくなって、ふと悪い心を起こしました。そしてその晩のこと、お供につれてきた村の若者に、石臼を盗み出させ、海から舟で逃げることにしました。

やがて、周防の国がはるか遠くになったところで、「もうここまでくりゃあ、ひと安心じゃ」と庄屋さんはさっそく、石臼のききめをためしてみたくなりました。そこで石臼に向かって、「臼、臼まわれ」といいますと、石臼から真っ白な塩がさらさらと出てきました。

「ほうほう、これはみごとなものじゃ。これでわしらも、しあわせに暮らせるわい」庄屋さんは石臼から出てくる塩を手にすくい上げては、「もっと出よ、もっと出よ・・・」と、喜んでいました。そのうち舟は塩の重みで、かたむいてきました。

「庄屋さん、臼をとめなさらんと、沈みますじゃ」若者の叫ぶ声に、塩が出るのをとめようとしましたが、臼の止めかたを知らない庄屋さんは、どうしてよいのかわかりません。

あわてた庄屋さんは、「やいやい、臼よ止まれ、止まれ、臼止まれ」と、いいましたが、石臼は止まりません。若者も石臼の柄にしがみつき、止めようとしましたが、やっぱり止まりません。「臼よ止まれ、止まってくれよ、頼む止まってくれ」すっかり庄屋さんは泣き声になりました。

そうこうするうちにも塩はどんどん出て、舟はぐっとかたむいて、海水がはいりはじめました。みるまに、舟はひっくり返り、二人は海にほうり出され、石臼は海の底深く沈んでいきました。「助けてくれー」庄屋さんと若者は、どこか遠くへ流されていきました。

そして海の底に沈んだ石臼は、今でもまわりつづけて、塩を出しているのです。そのために海の水は塩からいということです。

(大島・熊毛・佐波郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


うごく城

むかしむかし、ある大名に、美しい姫がおりました。姫も年頃になり、毎晩たずねてくるりっぱな若侍(わかざむらい)に恋するようになりましたが、若侍の家も名前もわかりませんでした。

ある日、姫がその事をうばに打ち明けると、「その方の着物のすそに、長い糸を結んだ針をつけてごらんなさい」と、教えてくれました。姫はうばの言うとおりにして、その糸をたどっていくと、中の島の池の中まで続いていました。

姫は若侍が妖怪(ようかい)だと思って悲しみましたが、その夜、大名(だいみょう)の夢枕(ゆめまくら)にその若侍が現れて、「わたしは池の主の大ガメです。姫に心をひかれて、毎夜かよっておりましたが、正体を見破られてはどうすることもできません。おわびのしるしに、中の島に城をおきづきください。きっと、難攻不落(なんこうふらく)の城となりましょう」

大名が言われたとおりに城をつくると、敵が攻めてきても島ごと動いてしまうので、敵はどうすることもできませんでした。それもそのはずで、その城をささえていたのは、あの大ガメだったからです。

しかしある年、城の中に井戸を作ることになりました。水が出てくるあたりまで掘り下げると、井戸からは水のかわりにおびただしい血が七日七晩ふきだし、とうとう城は動かなくなってしまったという事です。

(山口県の民話 福娘童話集より)


北向き地蔵様 ~宇部市~

宇部市西岐波上片倉に、北向き地蔵が立っているが、今からおよそ百五十年ほど前、このあたりで武士たちが乗馬の練習をしていた。ふしぎなことに、乗馬の練習をしない夜でも、馬のひづめの音がして、付近の村人たちは眠れずに困っていた。

それを聞いた殿様が、馬場のまわりを調べさせたところ、そこからむかしの武士の墓がつぎつぎと出てきた。そこで、たましいをなぐさめるため、そこに地蔵をたて、供養(くよう)をした。それ以来、ひづめの音は聞こえなくなったという。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


宝くらべ ~宇部市~

宇部市の北の方に、霜降山(しもふりやま)という山がある。今からおよそ600年前、この山の上の城に、厚東判官盛俊(ことうはんがんもりとし)という武将が住んでいた。厚東判官は、周防、長門、安芸の三国をおさめる武将で、たくさんの宝物を集めていた。

長雨のふりつづく五月のある日のこと、「こんな雨つづきで、城の中にばかりおるのはあきあきした。なにかおもしろいことでもあるまいか。」と、判官はつぶやいて、ふと、床の間の金のニワトリに目をとめた。それは日ごろじまんしている金のニワトリである。

「そうじゃ、よいことを思いついた。」判官は、城中にひびきわたるような大声で、家来たちを大広間に集めた。「みなのもの、よく聞くがよい。あすの朝、原武者兵庫包村(はらむしゃひょうごかねむら)とこの判官が宝くらべをする。」と、大声で言いはなった。

どんないちだいじがおきたかと、息をひそめて判官のことばを待っていた家来たちは、思いがけないことばに、どっと声をあげた。筆頭家老の包村はおどろいて、「とんでもない。わが殿は三国一のおん大将。わたしのようなものでは、とてもとても・・・・・・。」と、しりごみしたが、聞き入れられなかった。

あくる朝、城の大広間には、日ごろうわさされている判官の宝物をひとめ見ようと、おおぜいの家来がおしかけていた。判官は、さも満足げに家来たちを見まわし、「どうじゃ。これがわしの宝物じゃ。よく見るがよい。」と、声高々と言った。

判官の指さす床の間には、なるほど三国一の大将が自慢するだけあって、それはそれはりっぱな宝物がずらりとならんでいた。中でも、金のニワトリ十二羽、金のネコ十二つがい、金銀、サンゴ、綾錦は目をみはるばかりであった。

家来たちは、「さすが、わが殿。なんというすばらしい宝の山だ。」と、口ぐちにほめそやした。ひととり判官の宝物を見おわると、こんどは包村の宝物を見ることになった。包村は、下の間のふすまを開いた。

そこには、包村の長男太郎秀国(たろうひでくに)以下、男の子七人、女の子五人がぎょうぎよくすわっていた。「や、や、やあ。」家来たちはおどろきの声をあげた。と、すぐにおそば役の刑部友春(ぎょうぶともはる)がの、「一のご家老包村さまの勝ちいっ。」という声が高らかにあがった。

金ノニワトリや金のネコといっても、生きているわけではない。子どもは、何にもかえがたい宝物というわけだ。じまんの鼻をへしおられた判官は、くやしくてくやしくてたまらない。それもそのはず、判官には子どもがいなかったからである。

判官はあまりのくやしさに、どうか子どもがさずかりますようにと、中山(宇部市藤山区)の観音様に七日七夜いっしんにいのった。判官の真心が通じたのか、何か月かたって、玉のような女の子が生まれた。判官はたいへんよろこんだ。が、心配ごともあった。

それは、姫が生まれた夜、ゆめまくらに立った観音様のお告げのことだ。お告げによれば、姫は、八歳になると命が終わるという。そこで判官は、いつまでも長生きしてほしいという願いをこめ、姫に万寿という名をつけてだいじに育てた。

やがて、八年が月日はすぎた。姫はますます美しく、元気に育っていった。判官はほっとむねをなでおろす一方、観音様のお告げにはらをたてて、「このうそつき観音め。人をだますな。」と、こしを強くけった。それで、中山の広福寺の観音様は、こしが曲がっているのだそうだ。

それから何年かたって、三国一の武将といわれた判官は、包村のむほんにあってほろぼされ、姫とともに自殺したという。

朝日さし  夕日かがやく木の下に
黄金千枚  かわら千枚

と、うたわれている霜降山には、金のニワトリと金のネコが、今でもうめられたままになっているという。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

(彦島のけしきより)


参考

霜降山

宇部の人たちは城山と呼んで親しんでいる背後の丘陵である。平安時代から鎌倉時代にかけてこの地方で勢力を伸ばしていた厚東氏は、この丘のふもと棚井に館を構えて海上にも勢力を振っていた。霜降山に城砦を築き、瀬戸内海を往来する船の動きを眺めながら、よく時局を洞察して行動していたと伝えられる。厚東氏の権勢と繁栄を物語る伝説のいろいろが、今もこの山には秘められている。