山口県の伝説、その2 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

百万一心(ひゃくまんいっしん)---山口市---

山口市の野田にある豊栄神社(とよさかじんじゃ)には、周防・長門(山口県)をおさめていた毛利氏の先祖である毛利元就(もうりもとなり)がまつられている。その境内に、「百万一心」とほられた大きな石碑がたてられている。土地の人は、これを「ひゃくまんいっしん」と読んでいる。

この石碑の石は、毛利氏のはじめのころのしろ「郡山城(こおりやまじょう)」(広島県)の石垣からでたてきたもので、幅約60センチメートル、長さ約1.8メートルの自然石である。この「百万一心」ということばには、次のようないわれが伝えられている。

いまから450年ほど前、毛利元就は、毛利の本家をついで郡山に入城した。郡山城はせまくて不便だったので、まもなく城を大きく建てますことになった。建てましの工事は難行(なんこう)した。本丸(ほんまる 城のおもな建物)の石垣が、きずいてもきずいてもくずれてしまうのだ。

そんなことが何度かくりかえされるうち、人柱を立てねばなるまいという話が、家来たちの間にささやかれるようになっっていった。そのころは、城や橋などのむずかしい工事には、人柱といって生きた人間を工事現場の土の中にうめて、神のいかりをしずめ、工事の成功をいのることがおこなわれていた。

その話を聞いた元就は、「城の石垣をかためるために、人を生き埋めにしなければならぬとは、あまりにもざんこくだ。人のいのちは、そんなにかるがるしくあつかうものではない。城がかたく強くきずかれるのは、人びとが助け合ってこそできるものである。人柱よりも人びとが心を一つに合わせることのほうが大切である。」と、家来たちに話し、紙に「百万一心」とう字を書いた。

そして、この字を、幅約二尺(約60センチメートル)、長さ約六尺(約1.8メートル)の石にほりこませてうめ、人柱にかえたということである。「百万一心」の四つの文字の意味は、「みんなが力を一つにし、一つの心になってやれば、どんなむずかしいことでもできないことはない。」という意味であったといわれている。

この人柱にかわる「百万一心」の教えは、元就がなくなった後も、ながく毛利氏に受け継がれた。毛利氏が安芸(広島県)からうつってくると、周防・長門(山口県)にも広くひろまっていった。山口県の各地に「百万一心」の石碑が建てられているのも、この古いいわれが広められたことをものがたっている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


大内人形 ~山口市~

今から六百三十年ほど昔のこと。そのころ、周防・長門(山口県)、石見(島根県)の三ヶ国は、二十四代めの大内弘世(おおうちひろよ)がおさめていた。天皇の信頼もあつく、陽禄門院三条氏(ようろくいんさんじょうし)という公家の、たいそう美しい姫を妻にいただいていたほどである。

ところでこの姫は、みやこから遠くはなれた山口の地へ来たので、いつもみやこをなつかしみ、さびしげであった。弘世がいくらやさしくしても、姫の気持ちを引きたてることはできなかった。

弘世は、なんとかしてこの姫をなぐさめようと思い、はるばるみやこからたくさんのむすめをまねいた。そして、むすめたちを姫のそばへつかえさせ、話しあいてをさせた。また、みやこや人びとのすがた形ににせた人形をたくさん取りよせては姫のへやにかざって、姫の気持ちを引きたてようとした。

人形はどんどんふえていって、人形を集めてかざった姫のへやのあるやしきは、やがて人形御殿といわれるようになった。そのやしきは、大内御殿といわれた弘世のすばらしいやしきの中でも、とくに美しいことで有名になった。

それから何年かたった。みやこでは、足利将軍のいきおいがおとろえて、多くの武将がたがいに相手の国をほろぼそうと争うようになった。この争いは、やがて応仁の乱(おうにんのらん)とよばれる、十一年にもおよぶ長いいくさに発展した。

日本をふたつにわけたこのいくさで、京のみやこも、焼け野原になった。このため、みやこの身分の高い人びとや有名な画家や歌人などは、みやこをのがれ、大内氏の山口にうつり住んだという。

そして、その人びとも、姫と同じようにみやこをなつかしむ気持ちから、大内の人形御殿の人形にいろいろくふうをくわえた人形を作っては、自分をなぐさめたという。

のちに、この人形は、大内人形とよぶようになり、みやこ風の上品さのなかに山口の土地がらのよさが生かされ、かわいらしいことで有名になった。今でも、山口県の名産として、大内塗りとともに人びとに愛されている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの)

むかしむかし、長門の国(ながとのくに→山口県)の北浦のある里に、とても貧しい夫婦が住んでいました。二人はわずかな田んぼをたがやし、山から拾ってきた薪(たきぎ)を売って、ようやくその日の暮らしをたてていました。

ある日の事、だんなが女房にこんな事を言いました。「毎日毎日、汗水流して働いているのに、わしらの暮らしは少しも良くならんな。わしは、もう働くのにあきてしもうた」すると女房が、こう言いました。

「確かに、そうですね。そう言えばこの間、大寧寺(だいねいじ)の和尚さんが説教で『果報は寝て待て』と言っていましたよ。あわてずに寝て待っていれば、良い事は向こうからやって来るんだそうです。あなたもひとつ、果報を寝て待ってはどうですか?」

「なるほど、寝て待てばいいのか。そいつは楽だ」そこでだんなは、その次の日から寝てばかりいました。しかし果報は、いつまでたってもやって来ません。そんなある満月の夜、寝ながら果報を待っていただんなが大声で叫びました。

「おい、こっちへ来てみろ。ほれほれ、この天井窓から、お月さんのウサギが餅をついとるのがよく見えるぞ」「あら、ほんとうね」確かに、天井窓からお月さんのウサギがはっきりと見えました。

さて、この話がたちまち村中に広がり、月夜の晩には大勢の村人たちが夫婦の家へ集まって来て、天井窓から月をのぞくようになりました。それがやがて、「あの家の天井窓からウサギの餅つきを拝んだ者には、果報が来るそうだ」と、言ううわさなって、だんだん遠くからも人が集まって来るようになりました。

そしてお月さんを見に来た人々がお礼のお金やお供物を置いて行くので、夫婦はたちまち大金持ちになったのです。ついに、果報がやってきたのです。喜んだ二人は、ぼろ家をこわして立派な家を建てると、もっとお金がもうかるようにと、十も二十も天井窓を取付けました。

しかしどうしたわけか、新しい天井窓からはいくらお月さんをのぞいても、ちっともウサギの餅つきが見えないのです。やがて夫婦の家には、誰も来なくなりました。それどころか雨が降ると天井窓から雨もりがして、雨水で家が腐り始めたのです。

困った二人は、大寧寺の和尚さんのところへ相談に行きました。すると和尚さんは、大声で笑いながら、「あはははははは。人間は欲を起こすと、果報者も阿呆者になるという事じゃ」と、言ったそうです。

おしまい

(山口県の民話)


たにしの姉妹

むかし、むかし、あるところに、二人の若い兄弟が助け合って仲良く暮らしておりました。ある秋の日のこと、田んぼで稲刈りをしていると、弟が二つの小さな、たにしを見つけました。

何ともいえない、かわいいたにしなので、持ってかえって流しのすみで飼うことにしました。「たにしや、たにし。外に出ると、鳥たちの餌にねらわれるぞ。ここにじっとしているのじゃぞ」兄弟は口ぐちにそういって、田んぼへ働きに行きました。

その日の夕方、弟が夕飯の支度に帰ってみますと、驚いたことに、夕飯の用意がちゃんとできあがっておりました。誰が用意してくれたのかと、不思議に思った弟は、あくる日の夕方、前の日よりも早く帰ってきて、そーっと家の中の様子をうかがいました。

ご飯やみそ汁のおいしそうなにおいがしましたが、やはり誰の姿も見えません。弟は兄にこのことをすっかり話すと、そのまたあくる日の夕方、兄弟そろって家のそばの柿の木にのぼり、様子をじっとうかがいました。

しばらくすると「お姉さん、夕食の支度をはじめましょうか」という声がして、おいしいみそ汁のにおいと、きれいな娘の歌声が流れてきました。「いったい、誰じゃろう」兄弟は急いで木からおり、そーっと家の中にはいってみますと、二人の美しい娘が、流しもとでせっせと働いておりました。

「あんたたちは、いったいどこの誰なのだい」兄弟の声に、はっと振り返った二人の娘は、どうしようかと互いに顔を見合わせていました。やがて、娘たちは、「わたしたちは、あなたたちに助けていただいた、たにしの姉妹です」と、こたえました。驚いた兄弟がいろいろたずねますと、この姉妹は、山ひとつ越えた里の裕福な家の娘たちでした。

しかし、ぜいたくに育てられたのでわがままになり、夕飯の手伝いもしない有様でした。あまりいうことを聞かないので、つい、母親が「いうことを聞かないと、たにしになりますよ」と、いったところ「たにしになってもええわいな」と、姉妹は口ごたえしました。

すると、みるみるうちに、たにしの姿になりかわってしまい、姉妹は、この村の田んぼにやってきて、鳥たちにいつ食べられてしまうかとおびえていたところを、兄弟たちに助けられたということでした。どうしたわけか夕方だけは人間に戻れるので、姉妹は恩返しに、夕飯を作っていたということです。

これを聞いた兄弟はあわれに思い、村の恵比須さまに、姉妹をもとの姿に返していただけるよう願いました。すると、ちょうど満願の日に「お前たち兄弟の仲の良さ、けなげな働きに免じて、姉妹をもとの人間の姿にかえしてやろう」と、恵比須さまの夢のお告げがあり、たにしの姉妹はもとの美しい姿にもどりました。

それから姉妹は、まじめに働くようになり、やがて、それぞれ兄弟のお嫁さんとなって、末長く幸せに暮らしたということです。

(熊毛・都濃・佐波郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


もぐらの婿さがし

むかし、むかし、一人娘をもったもぐら夫婦がおりました。もぐら夫婦は「わしらあ、土をほって暮らすだけじゃで、せめて、かわいい娘なりと、どこか上のほうのものにやりたいもんじゃのう」と、つねづね考えておりました。

「一番上ちゅうと、お天道(てんとう)さんじゃろう」そこで、モグラ夫婦は、お天道さんのところへ行って「あんたより上のものはないそじゃけ、うちの娘をもろうてくだされい」と、頼みました。

すると、お天道さんは「わしよりまだ上には、黒雲(くろくも)がおる。わしがどんなにてらしちょっても、黒雲がくりゃあ、かなわんけえの」と、言いました。

そこで今度は、黒雲のところへ行き「お天道さんが、あんたのほうが上じゃとおしえてくれたけえ、娘をもろうちゃくれまいか」そう、頼んだところ、黒雲は「いやいや、わしより上は風じゃ。風がふきゃあ、わしはすぐとんでしまう」と、言いました。

もぐら夫婦は、さっそく風のところへ行き「娘をもろうてくだされい」と、頼みました。すると、風は「いやあ、わしも練塀(ねりべい)にゃあ、どねえしょうもない。わしの風がなんぼふいても、練塀が邪魔(じゃま)すりゃあ、かてんけえの」と、言いました。

上には上があるものじゃと、もぐら夫婦は感心して、練塀のところへ行きました。「練塀さん、うちの娘をもろうてくだされい」また頼むと、練塀は「いやいや、わしがこねえに立っちょっても、もぐらから下をほじくられたら、じきに倒れてしまうけえ、もぐらの方が上じゃ」と、言いました。

すると、もぐら夫婦は「へえ、そいじゃあ、わしらが一番上で、えらいっちゅうことになるんじゃあないかいや…」と、言いました。そして、もぐら夫婦は、とうとう、娘を、自分たちと同じもぐらの家へ嫁にやった、ということです。

(豊浦郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


おキツネのお産

むかしむかし、あるところに、とても腕のいいお産婆(さんば)さんがいました。お産婆さんというのは、赤ちゃんを産む手伝いをしてくれる人の事です。このお産婆さんに来てもらうと、どんなにひどい難産でも、ウソのように楽に赤ちゃんを産む事が出来ると評判でした。

ある夜の事、お産婆さんが寝ていると、ドンドンドンと誰かが戸をたたきました。「はて、急なお産かな?」急いで戸を開けると、このあたりでは見た事のない男の人が、ハァーハァーと肩で息をして立っています。

「お産婆さん、早く来てください。嫁が今苦しんでいます。初めてのお産なもんで、もうあばれて泣いて、見ていられません」「はいはい、落ち着いて。それで、お宅はどちらかね?」「わたしが案内しますので、急いでください」

男の人は、一刻をあらそう様子です。お産婆さんは大急ぎで着がえて、お産に必要な物を持って外へ出ました。「おや?」外へ飛び出したお産婆さんは、首をかしげました。外はまっ暗なのですが、男の人のまわりだけは、ちょうちんに照らされているように明るいのです。

不思議に思うお産婆さんの手を、男の人がぐいと引っぱって走り出しました。「早く。早く、お願いします」男の人と一緒に、どのくらい走ったでしょう。気がつくとお産婆さんは、見た事もないご殿の中にいました。

そこでは数えきれないほどたくさんの女中さんがお産婆さんを出迎えて、口々に、「奥さまを、よろしくお願いします」と、頭をさげます。ピカピカにみがきあげられた長い廊下を女中頭(じょちゅうがしら)に案内されると、金色のふすまが見えました。

「奥さまが、お待ちでございます」女中頭に言われて部屋に入ると、大きなお腹をかかえた美しい女の人が、ふとんの上でころげまわっています。「はいはい、落ち着いて。もう大丈夫ですから」お産婆さんはやさしく言うと、女中頭にお湯や布をたくさん用意させて、さっそくお産にとりかかりました。

「さあ、楽にして。力を抜いて、がんばって」すると、まもなく、「フギァアーー!」と、声をあげて元気な男の赤ちゃんが生まれました。「ふう、やれやれ」お産婆さんが汗をぬぐうと、さっきの男の人が入って来て、目に涙を浮かべて、お産婆さんにお礼を言いました。

「本当に、ありがとうございました。こんなにうれしい事はありません。どうぞ、あちらの部屋でゆっくりお休みください」お産婆さんは、また長い廊下を連れていかれ、今度は銀色のふすまの部屋に案内されました。

「おや、まあ」そこには黒塗りの見事なおぜんがあり、お産婆さんのために用意されたごちそうがならんでいます。あまりのごちそうに、どれからはしをつけたらよいのか迷うほどです。「ああ、ありがたい」

お産婆さんは、無事にお産をすませてほっとしたうれしさもあって、用意されたごちそうをパクパクと食べました。そしてお腹いっぱいになると、今度はうとうと眠ってしまいました。それから、どのくらい時間がたったでしょう。

コケコッコー!一番鶏の鳴き声で、お産婆さんははっと目をさましました。でも目をさました場所は小さな小屋の中で、お産婆さんはしきつめた草の上で寝ていたのです。「なんとまあ、不思議な事もあるもんだねえ」

お産婆さんは村に帰ると、村の人たちにゆうべの事を話しました。すると村の人たちは口々に、「お産婆さんの評判を聞いて、きっと、キツネが頼みに来たにちげえねえ」と、言ったそうです。

(山口県の民話 福娘童話集より)


龍王からおしえられた踊り

むかしむかし、中村という所に、赤ちゃんの取り上げが上手なおばあさんがいました。どんなに難産(なんざん)でも、このおばあさんの手にかかればすぐに産まれるので、『中村の取り上げばあさま』と呼ばれていました。

ある日の真夜中、おばあさんが寝ていると家の戸を叩く者がいます。ドンドン、ドンドンドン。こんな時間に来るのは急産の取り上げに違いないと思い、おばあさんはすぐに支度(したく)をすると外へ飛び出しました。

外には、使いの男がいて、「こんなに遅くにすまんが、一緒に来て下さい」と、言いました。「それは良いが、どこの家かいの?」おばあさんが尋ねると男は、「ずっと遠くです。案内しますから、足元に気をつけてください」と、先に立ってどんどん歩いて行きました。

真暗闇(まっくらやみ)ですが、なぜか足元だけは明るいので、おばあさんは何とか転ばずに歩けました。そのうち波の音が聞こえて来たので、(これは、海の近くだな)と、思ったとたん、おばあさんは気を失ってしまいました。

おばあさんが気がつくと、そこは金銀(きんぎん)がキラキラと光り輝く龍宮城(りゅうぐうじょう)だったのです。おばあさんがびっくりしていると、龍宮城の主の龍王(りゅうおう)が現れました。

「夜中に、遠い所をごくろうであった。そちに、姫のお産のかいぞえを頼みたいのだ」「お産?」お産と聞いては、ジッとしていられません。おばあさんがさっそく姫の部屋へ行くと、それはひどい難産(なんざん)で、姫の顔には血の気がありませんでした。

「よしよし、すぐに楽にしてやるからな」おばあさんはさっそく仕度に取りかかり、それからすぐに玉の様な男の子が産まれました。「おおっ、良くやってくれた。お礼に、何でもやろう」龍王は大喜びで、おばあさんの前にお礼の金銀サンゴを山の様に積み上げました。

けれど、おばあさんはそれを受取ろうとしません。「どうした? 気に入らんのか? ・・・そちは一体、何が欲しいのじゃ? 何なりと取らせるゆえ、申してみるがよい」龍王がそう言うと、おばあさんは恐る恐る答えました。

「はい。実はわたくしの村にあまり雨が降らず、田んぼのイネが枯れようとしています。どうか龍王さまのお力で、雨を降らせてもらいたいのです」この村人を思う気持ちに感心して、龍王はその願いを聞き入れました。

「それでは、今後はわしをまつって、豊年(ほうねん)踊りを踊るがよい。さすれば大雨を降らせよう」さて、それからおばあさんが龍宮城を去って村に帰りつくと、いなくなったおばあさんを探して村中が大騒ぎでした。

おばあさんが訳を話して龍王との約束を伝えると、村人は大喜びです。「これで、村は救われる!」「取り上げばあさまは、ありがとう」この時から村人たちは、このおばあさんの事を『龍王ばあさま』と呼ぶようになりました。

そしてこの踊りが山口県に今に伝えられる、楽踊り(がくおどり)の始まりだという事です。

(山口県の民話 福娘童話集より)

(彦島のけしきより)


参考


山口県の楽踊り


風流踊として、「楽踊り」は昔から防長各地に伝承されている。特に長門地方に多く見られ、踊る場所によって、腰輪踊り・闘鶏踊り・諫鼓踊り・念仏踊り・花踊りなど異なる名称で呼ばれている。「楽踊り」は、田植神事の「田楽踊り」に派生し、変型発達したものだけに、雨乞・風鎮・牛馬の安全・五穀豊穣などを祈念して踊り始めたものが多い。美しい花笠・腰輪・団扇使いが特徴である。「玉川地区闘鶏踊り」は、毎年4月29日に開催される。江戸時代から、地元厳島神社に腰輪踊りが奉納されていた。踊りの名称は、大正15年に昭和天皇が皇太子の時、この踊りをご覧になり、闘鶏のようだと言われたのが現在の名称になったという。「赤崎祭り」は、毎年910日に赤崎神社楽桟敷(国指定重要有形民俗文化財)で開催され、楽踊りや湯本南条踊りが奉納される。楽踊りは、「虎の子渡し」と「月の前の伶楽」の二種類があり、田楽踊りから発展して念仏踊りの要素も入り今日に至っている。「勝間の諫鼓踊り」は、熊毛神社の例祭(1011日)で7年に1回奉納される。昨年は、その式年祭が古式豊かに奉納された。熊毛神社は、738年の「周防国正税帳」に記録が見られる古社である。豊臣秀吉が朝鮮出兵の途中、勝間と言う地名は吉瑞だとして、熊毛神社に戦勝を祈念した。その後、凱旋の帰途再び訪れて戦勝の御礼に参拝し、太刀・神馬等とともに「諫鼓踊り」を奉納した。以来、その踊りを神社の例祭で奉納するようになったと言われている。(参考)