山口県の伝説 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

まだわからん

むかしむかし、何日も何日も日照りの続いた年がありました。「せっかく蕎麦(そば)をまいたばかりなのに、このままでは蕎麦が全滅してしまうぞ」お百姓はそう言いましたが、何日かたって孫が畑へ行ってみると、少しも雨が降っていないのに蕎麦が青々と生えていたのです。

「じいちゃん! じいちゃん! 蕎麦が生えているぞ!」それを聞いたお百姓も、大喜びです。「そうか、そうか。蕎麦は少々の日照りでも生えると言うが、今年の様なひどい日照り続きでも生えてきたか。だが、蕎麦の花が咲いて、蕎麦の実を実らせるまでは安心は出来んぞ」

するとそれから何日かたって孫が畑へ行ったら、蕎麦が大きくなって花を咲かせていたのです。「じいちゃん! じいちゃん! 畑一面に蕎麦の花がまっ白に咲いているぞ。これで蕎麦が食えるな」「いいや、まだまだ。ちゃんと実るまではわからんて」

それからまた何日かたって、再び畑へ行った孫が言いました。「じいちゃん! じいちゃん!蕎麦に、まっ黒い三角の実がいっぱい実っているぞ。これで間違いなしに、蕎麦は食えるな」しかしお百姓は、首を横に振って、「いいや、物事は最後の最後までわからんぞ」と、言うので、孫はお百姓をせかして言いました。「それじゃあ、今から蕎麦刈りをしよう」

そこで二人は蕎麦を刈って、刈った蕎麦を干して、それから家へ持って帰って叩いて蕎麦の実を取り出しました。「じいちゃん! じいちゃん! これでもう蕎麦が食えるな」孫がそう言いましたが、お百姓はやはり首を横に振って、「いいや、まだわからんぞ」と、言うのです。

そこで孫は蕎麦を臼(うす)にかけて粉をひいて、その粉に少しずつ水を入れてこねると板状にして包丁で細長く切りました。そして熱々のお湯で蒸すと、いよいよ蕎麦の完成です。すると孫が、お百姓にニンマリと笑って、「じいちゃん! じいちゃん!これでいよいよ蕎麦が食えるな。なんぼ、じいちゃんでも、ここまでくれば、『いいや、まだわからんぞ』とは、言わんだろう」と、言いました。

ところがお百姓は、「いいや、まだわからんぞ。口に入るまではな」と、言うのです。すると孫は、ケラケラと笑って、「いくら何でも、そこまで心配する事は」と、その蕎麦をそばつゆにもつけずに、口の中にかきこもうとしましたが、「あっ!」と、孫はうっかり手を滑らせて、蕎麦をざるごと目の前の囲炉裏の灰にぶちまけてしまったのです。

するとお百姓は、「それ見ろ、だからわしは、物事は最後の最後までわからんと言っただろう」と、笑いながら言って、はんべそをかく孫に自分の分の蕎麦を食べさせてやったと言うことです。

おしまい

(山口県の民話)


節分の豆

むかし、むかし、ずっとむかし、まだ山やまに、鬼がたくさんすんでいたころのことです。その鬼どもは、里に出てきては、親たちが、ちょっとでもゆだんをしていると、子供をとって、たべてしまうので、里の人たちは、ほとほとこまっておりました。

村人どうし、いろいろ相談してみても、とうてい鬼をふせぐようなよい考えはありません。とうとう、神さまにお助けを乞うよりしょうがなかろうということになり、三斗(と)五升(しょう)七合(ごう)のお餅をついておそなえし、神さまにおねがいすることになりました。

そこで、神さまは鬼どもをあつめられて、「来年からはこうする。それはじゃ、節分の豆の中で、芽のはえたものがあれば、その家の子供をとってたべてもよい。しかし、芽のはえる豆がないのに、もし子供をとってたべたとなれば、そのときには、お前たちの金棒をとりあげてしまうことにする。必ずつつしめよ」と申しわたされました。

鬼どもは、金棒をとりあげられては仕事になりませんので、しょうがなく承知しました。このことを聞いて親たちはようやく安心し、「節分の豆だきゃあ芽のはえんようによういろうぜな」と話し合いました。

ところが、里にひとりのなまけ者の親があって、ていねいにいらずにまいてしまいました。すると、さっそく、鬼どもがその親の家にやってきて、「子供を出せ、子供を出せ」とせまりました。

「なぜじゃえ、豆は、いっちょるはずじゃ。芽は出やせん」とその親がいいましたが、鬼は豆を出して、その大きな歯でかんでみて、「このとおりじゃ、ぱりっとも、ぷりっとも音がせぬわい。おまえもかんでみろや」といいました。

その親がかんでみますと、なるほど鬼がいうように、青くさくてたべられません。「どうじゃ、それじゃ芽が出る、花も咲くぞ。さぁ、子供を出せ、子供を出せ」と鬼どもがせまってくるので、その親は「助けてくだされ、助けてくだされ」と泣きさけびました。

この泣く声を聞きつけられて、神さまがおいでになり、「これこれ鬼どもや、あわててはならん。それは、節分の豆ではないぞ。わしにも、これこのとおり、 まだこの親は、そなえておらん。わしにそなえもせん豆は、節分の豆ではない。この親は、ずぼらな親じゃ。もうしばらくしてまく豆が、ほんとうの節分の豆だから、あわてずに、その豆をみるがよい。もし、なかに芽のはえるのがあれば、そのときにはおまえたちのすきなようにするがよい。あわてるまいぞ、あわてるまいぞ」といって、その親の子供を助けられました。

それからこっち、節分の豆は、「これこのとおりにいりました。」とまず神さまにおそなえし、そのあとで「福は内、鬼は外」といって、豆をまくようになった、ということです。

節分に豆をまくいわれ(大津・豊浦郡)

(山口銀行編纂 山口むかし話より転載)


楊貴妃の墓 ~長門市油谷~

長門市油谷久津(ゆやくず)の二尊院(にそんいん)という古い寺に、楊貴妃(ようきひ)の墓と伝えられるものがある。楊貴妃は、唐の国(今の中国)の玄宗皇帝(げんそうこうてい)の妃(きさき)で、皇帝がこのうえなく愛していた美しい妃であった。

ところが、2500年ほど前、安禄山(あんろくざん)という武将が反乱を起したため、楊貴妃は皇帝といっしょに都からのがれた。そのとちゅう、妃は追ってにつかまって、殺されてしまった。まもなく反乱はおさまった。しかし、妃を失った皇帝の悲しみは大変なものだった。

ある夜のこと、皇帝はふしぎな夢を見た。はるかな水平線のかなたにまっ赤な鳥が現われたと思うと、その鳥はまっしぐらに都をめざしてまっしぐらに飛んできた。そして、皇帝のそばにおりると、ふっと消えてしまった。見ると、そこに楊貴妃が立っていた。楊貴妃は、おどろきのあまり声も出ないでいる皇帝をいたわるように、しずかに話しはじめた。

「わたしは安禄山に殺されたと思われていますが、じつは、ともの者が、わたしに似た者を、身代わりにしたのでございます。安禄山から逃げきってから、わたしは夢中で逃げました。それから、のがれのがれて、丸木舟で海に出、日本に流れつきました。土地の人たちはやさしくしてくれましたが、体が弱っていたので、その土地で息をひきとったのです。」そう言うと、楊貴妃は消えた。

皇帝は妃をあわれに思って、二体の仏像を使者にもたせて日本へ出発させた。日本へ着いた使者は、楊貴妃が死んだと思われる土地を歩いて、妃の墓をさがしまわった。くる日もくる日もさがし歩いたが、とうとう見つけることができなかった。使者は、二体の仏像を京都の清涼寺(せいりょうじ)にあずけ帰国した。

それから何年かたった。あれほど探しまわってもわからなかった楊貴妃の墓が長門の国(山口県)久津(くず)の天請寺(てんしょうじ)にあることがわかった。朝廷では、皇帝の気持ちをくんで、二仏を天請寺へうつすことにした。しかし、これは清涼寺の強い反対にあうことになった。二仏をおがみにくる人でにぎわっているのに、その二仏がなくなったらさびれてしまうというのだ。

そこで、朝廷では、その頃、仏像つくりの名人といわれた仏師に命じて、清涼寺の二仏とまったく同じ二仏をつくらせた。そして、清涼寺にある二仏のうち一体と仏師がつくった二仏のうち一体を天請寺にまつらせた。朝廷は、「どちらの寺も尊い仏像が二体づつあるのだから、これからはどちらの寺も二尊院と名乗るがよい。」と、命じられた。このときから天請寺は二尊院とよばれるようになったという。

楊貴妃の墓と伝えられる墓は、今も二尊院の境内にある。五輪石を積み重ねたもので、侍女と思われる石塔に守られ、唐の国の方角に向かって、油谷湾を見下ろす小高いところにたっている。いつの頃からか、妃の墓にお参りすれば、美人の子が生まれると信じられるようになり、今も、日本の各地からこの墓を訪れ、重要文化財の二仏をおがんでいく人があとをたたない。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部


しずが浦のタヌキ

むかしむかし、青海島(おうみしま)というところに、一人の漁師が八歳になる娘と二人で暮らしていました。娘の名前は『おしず』で、とても心やさしい娘です。

ある日の事、この島に来た猟師が子ダヌキを生け捕りにしました。猟師はお昼ご飯に、その子ダヌキをタヌキ汁にしようと考えました。するとこれを見たおしずが子ダヌキを可愛そうに思って、父親にせがんで子ダヌキを買い取ってもらったのです。

おしずは子ダヌキを裏山に連れて行くと、逃がしてやりました。「もう、人間に捕まったら駄目だよ」おしずのおかげで命拾いをした子ダヌキは、何度も何度も頭を下げて山奥へと帰って行きました。

さて、それから十年後。戦に破れて傷を負った一人の若い落武者が、この島に逃れて来ました。それを見つけたおしずが親身になって看護した為、やがて落ち武者の若者は元気になり、それが縁で二人は夫婦になったのです。

ですが、やがて落ち武者狩りが始まり、追手がこの島までやって来たのです。そこで父親は二人を舟に乗せると、こっそりと九州へ逃がしてやりました。二人がいなくなり一人ぼっちになった父親は、とてもさびしい毎日を送りました。

そんなある寒い夜の事、父親が家に帰ってみると、不思議な事に家の中は灯りがともり、ろばたの火が温かく燃えていたのです。「おや? 一体誰が?」父親が家の中を見てみると、なんとそこには十年前の子ダヌキだったあのタヌキが、父親の大好きなどぶろくを持って座っていたのです。

父親がさびしい毎日を送っている事を知ったタヌキが、父親をなぐさめようとやって来たのでした。それからタヌキは、毎日どぶろくを持って父親の家にやって来ました。

しばらくしたある日、九州へ行ったおしず夫婦が、父親を迎えに島へ帰って来ました。「お父さん、九州で新しい家を見つけました。そこで一緒に暮らしましょう」そして満月の晩、三人は舟に乗って九州へ行く事にしました。

その時、あのタヌキが裏山に駆け上り、三人を見送りながら腹包みを打ち鳴らしたのです。
♪ポンポコポン
♪ポンポコポン
♪ポンポコポンのポンポン

それ以来、タヌキは満月になると九州へ行った三人を思い出すのか、三人が舟で旅立った浜には満月になるとタヌキの腹包みが鳴りひびいたそうです。人々はその浜をおしずの名前を取って、『しずが浦』と呼ぶ様になりました。

(山口県の民話 福娘童話集より)


ガンダ浴の物語

昔むかし、ある港のガンダの浴(「ガンダ」は地名。「浴」は山にはさまれた狭い土地)に夫婦と一人の娘の家族がいました。家族は半農半漁で仲良く暮らしておりました。一人娘は、利口で働き者、そのうえ目はぱっちりの器量良し。となれば、村の若者たちはその魅力に惹かれ、彼女は憧れの的でした。

娘には多くの縁談がありましたが、彼女はなぜか、つぎつぎにそれを断ってきました。両親は、まったく結婚する気のない娘を大変気遣っておりました。じつは、娘には人に知られたくない秘密があったのです。縁談を断るたびに娘は心を痛めていたのでした。

ある夏のことです。ガンダの浴に白い雲が低く垂れると、辺り一面が薄暗くなりました。驚いたことに、その白い雲に年配の雷夫婦が乗っているではありませんか。白い雲から降りた雷夫婦は、その足で一人娘の家を訪ねました。両親に会い、挨拶を交わしたのち、遠慮がちに今日訪れたわけを話し出しました。

このたび突然お伺いいたしましたのは、うちの息子の縁談のことでございます。先日の暑い日のこと、息子はいつものように白い雲に乗って空中を飛び回っていました。その時ちょうど、お宅の娘さんがたらいで水浴びをしておられたのです。息子は娘さんの美しいはだかの姿を見初めてしまいました。

その日からというもの、息子は娘さんのことが忘れられなくなってしまいました。日に日に恋心がつのり、ついに「ぜひ娘さんをもらってくれ」と毎日のように催促される始末でございます。どうしたものかと私たちは困り果て、息子に「なにぶん相手は人間さまの娘、私たちは雷だから」と言い聞かせますが、息子は納得してくれません。

そこで無理は承知でご相談にまいったわけでございます。もしこの縁談をご承諾いただければ、これほどうれしいことはありません。雷の世界には、お金も財産もありません。そのかわり、水や雲、稲妻は無尽蔵でございます。日照りになっても、この浴に水を絶やすことはいたしません。今申し上げたことは、しっかりお約束いたします。

娘の両親は、思いもかけぬ雷家からの求婚話に気を失わんばかりの驚きでした。しかし、申し出を無下に断るわけにもいかず「しばらく考えさせてください」と、体良くその場を取り繕いました。雷夫婦が帰ると、両親は雷さんの息子から求婚があったことを娘に伝えました。

両親の話をじっと聞いていた娘は「私は雷の息子さんと結婚します。あの息子さんは私の悩みを知っています。それを承知で私に結婚を申し込まれたのです。きっと私を大事にしてくれます。どうかこの結婚を許してください。お願いします」と、ためらいもなく答えました。

まったく意外な娘の言葉に、両親は天地が逆さまになるほど驚きました。娘の決意の強さを知って両親は肩を落としました。お前ほどの非の打ち所のない娘は、どんな大金持ちからでも声がかかると思っていたのに…。と、つぶやきながら深いため息をつきました。

両親は仕方なく雷家に娘の気持ちを伝えたのです。両家の縁談は目出度くまとまりました。結婚式には雷神さまが仲人の役をつとめられることになりました。挙式は十五夜の日と決まり、その夜は祝福された空模様となり、満月はこうこうと天地を照らしました。

仲人の雷神さまは黄金の雲に乗って花嫁を迎えに来られました。そして両親にお祝いのことばを述べ、花嫁に手を差し伸べて黄金の雲に乗せたのです。両親と花嫁は別れがつらく涙にくれました。花嫁は気を取り戻したものの、黄金の雲の上から手を振るのが精一杯でした。

黄金の雲が遥か彼方へと去るや否や、真っ黒な雲がむくむくとガンダの浴の空いっぱいに広がりました。やがて黒雲から大粒の雨が激しく降り出しました。ガンダの浴の人々は小躍りして歓喜の声をあげました。じつのところ、この年は日照りで草木も枯れ、飲み水や食料などが不足して、人々は飢えに苦しんでいたのでした。

思いもかけぬ祝いの雨が浴をうるおして人々は生き返りました。浴の人々は山に祠を建てて一人娘の霊をまつりました。その後、村人は雨のない年になると、この祠にお参りして雨乞いをしたといいます。

人に言えない娘の秘密とは…。それは並外れた出べそであったとか、雷にへそを取られた一人の娘が村を救ったお話です。

(藤井かくいち著「海辺の昔ばなし」より)


フカの恩返し

昔むかし、この港の沖にはフカ、サメ、クジラがたくさんやってきました。その港にある小浜の丘に、おじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていました。野や山に若葉が美しく、海にトビウオが跳ねる季節のことです。

ある夜、浜辺の方から苦しそうなうめき声が聞こえてきました。声は朝まで続いたのです。おじいさんは空が白むのを待って、浜へ降りてみました。すると、血の匂いがつんと鼻をついてきました。近寄って行きますと、そこには大きなフカが腹を血まみれにして苦しんでいます。

傷口を見ますと、どうやら漁師に追い詰められて銛を打ち込まれたようでした。フカは涙ながらに助けを求めるようでした。おじいさんは、おばあさんを呼びに帰り、手当の用具をかかえて再び浜へ降りていきました。

おばあさんは、おお、かわいそうにと、つぶやきながらフカの傷口のぬぐい、おじいさんがチドメグサをもんだ液を傷口にすりこんでやりました。しばらくすると、フカは痛みがおさまったらしく、うめき声もとまり、すやすやと眠りにつきました。

その間におじいさんは、フカの餌にする魚を釣りに出て行きました。やがて目を覚ましたフカに餌を与えると、とても美味しそうに食べていました。おじいさんとおばあさんは、その日から日課のようにフカの面倒をみました。フカが日に日に元気を取り戻すがうれしくてなりませんでした。

季節も梅雨に入り、毎日雨が続きました。ある朝、いつものようにおじいさんが浜に降りると、なぜかフカの姿が見えません。驚くやらがっかりするやらで、気が抜けたようになりました。老夫婦は思い直し、フカは仲間のいる海に帰ったのじゃろう。それがいい。と、言いながらあきらめました。

梅雨が上がり、土用の寝苦しい夜のことでした。おじいさんの枕元にフカの主が現れ、このたびは、仲間のフカが大変お世話になりました。おかげで仲間も元気になって私どものところに帰ってきました。と言って深々と頭を下げました。

さらに言葉を続け、私たちフカが漁師に見つかると、いつも生け捕りされるか傷を負わされます。この世で人間ほど恐ろしいものはありません。その人間の中で、このようなおじいさんおばあさんがおられることを、初めて知りました。

言い終わるや、フカの主の姿はすうーっと消えてしました。まもなく、港の中がざわめき、大きな魚の大群が寄せてくるような音が聞こえてきました。音は夜明けまで続きました。

浜に降りたおじいさん、おばあさんは、あっと驚きました。沖の瀬から港の中ほどまでの泥沼がなくなって、海が深く澄み切って、見違えるようになっているではありませんか。

こりゃあ不思議なことじゃ。フカの大群が一晩中かかって港や港口の泥を吸い込み、沖に捨てたのじゃろう。と、老夫婦は話し合いました。おじいさんは、私たちに恩返しのお礼をしたのじゃろう。なんと感心なフカじゃ。と言って大喜びでした。

それから後は、磯に海藻が育ち始め魚も増えてきました。深くなった港には大きな船も出入りするようになりました。その後、毎年土用の季節になると、港に数頭のフカがお礼参りに入ってきたといわれています。

(藤井かくいち著「海辺の昔ばなし」より)


タコの頭に乗って海を渡ったお侍
大入道ダコの恩返し
---(旧)新南陽市---

福田大和守(やまとのかみ)は、*青雲の志に燃え、九州のとある港から、年に1・2度江戸に上る船に便乗し旅立った。門司で船泊りし、いよいよ瀬戸内海に入る頃から、急に天気か崩れ海が荒れ出した。そのとき、どこから現れたか1匹の入道ダコが船端にへばりついている。

これを見た船頭のかしらは、「うわー、すごい大ダコじゃ、とっ捕まえて塩茹でにしてくれよう。」と、2本の脚に船かぎを打ち込み、首の所に縄をかけグイグイ引っ張った。「オーイ、早う棒でも何でも持って来い、叩き殺すんだー。」かしらの大きな声に船乗り達が集まった。

大和守はびっくり。生まれつきやさしく情け深い青年武士なので、これは大変とみんなの中に割って入り、「見てください。フカかなんかに追われ、怪我をしているじゃありませんか。この船が通りかかったが幸い、助けてくれと取りついたのでしょう。どうか逃がしてやってくれまいか。」

だが、船頭のかしらは反対に、カンカンになり頭から湯気を出して怒る。「では、どうしても殺すといわれるなら、拙者に売ってください。」大和守の熱意にかしらは負け、金を受け取ると大ダコを海に放した。海はますます荒れ狂い、帆を降ろしていたが船はひっくり返った。

気を失っていた大和守が漂流して助けられた所は、とある小島の猟師の家だった。親切に甘え数日を過ごしたが、大望のある身、島を出る機会を狙っていた。そんなある夜、月が明るく浜辺を照らしていた。砂地を這う異様な音に、大和守は戸を開けて外に出てみた。

前のタコの倍はある大入道ダコが、こちらを向いて頭を擦りつけ礼を言っている。「いつぞや命を救っていただいた子ダコの親です。あなたのお役に立つため、私が本土までお連れします。どうぞ私の頭の上にお乗りください。」心の中で島に別れを告げ、大和守は翌朝、周防のとある浜辺に着いた。

「ありがとう、この恩に報いる為、拙者は一生タコは食べない、誓うぞ!」と約束した。大和守は、生涯それを守ったが、、どうしても食べなければならない時は「これはイカじゃ。」と、自分に言い聞かせ口に運んだという。

*立身出世を願うこころざし。

(参考文献・山口県ふるさとづくり県民会議編「語りつぎたい山口昔話」)


天人女房(てんにんにょうぼう)

むかしむかし、あるところに、一人の若い木こりが住んでいました。ある日の事、木こりは仕事に出かける途中で、一匹のチョウがクモの巣にかかって苦しんでいるのを見つけました。

「おや? これは可哀想に」木こりはクモの巣を払って、チョウを逃がしてやりました。それから少し行くと、一匹のキツネが罠(わな)にかかっていたので、「おや? これは可哀想に」と、木こりは罠からキツネを助けてやりました。

またしばらく行くと、今度は一羽のキジが藤かずらにからまってもがいていました。「おや? これは可哀想に」木こりはナタで藤かずらを切り払い、キジを逃がしてやりました。

さて、その日の昼近くです。木こりが泉へ水をくみに行くと、三人の天女が水浴びをしていました。天女の美しさに心奪われた木こりは、泉のほとりに天女が脱ぎ捨ててある羽衣(はごろも)の一枚を盗みとって木の間に隠れました。

やがて三人の天女は水から出てきましたが、そのうちの一人だけは天に舞い上がるための羽衣が見つかりません。二人の天女は仕方なく、一人を残して天に帰って行きました。残された天女は、しくしくと泣き出してしまいました。

これを見た木こりは天女の前に出て行って、天女をなぐさめて家へ連れて帰りました。そして盗んだ羽衣は、誰にも見つからないように天井裏へしまい込みました。

そして何年かが過ぎて二人は夫婦になったのですが、ある日木こりが山から戻ってみると、天女の姿がありません。「まさか!」男が天井裏へ登ってみると、隠していた羽衣も消えています。

「あいつは天に、帰ってしまったのか」がっかりした男がふと見ると、部屋のまん中に手紙と豆が二粒置いてありました。その手紙には、こう書いてありました。《天の父が、あたしを連れ戻しに来ました。あたしに会いたいのなら、この豆を庭にまいてください》

木こりがその豆を庭にまいてみると、豆のつるがぐんぐんのびて、ひと月もすると天まで届いたのです。「待っていろ、今行くからな」木こりは天女に会いたくて、高い高い豆のつるをどんどん登って行きました。

何とか無事に天に着いたのですが、しかし天は広くて木こりは道に迷ってしまいました。すると以前助けてやったキジが飛んで来て、木こりを天女の家に案内してくれたのです。

しかし天女に会う前に、家から父親が出て来て「娘に会いたいのなら、この一升の金の胡麻(ごま)を明日までに全部拾ってこい」と、言って、天から地上へ金の胡麻をばらまいたのです。天から落とした胡麻を全て拾うなんて、出来るはずがありません。

とりあえず金の胡麻探しに出かけた木こりが、どうしたらよいかわからずに困っていると、以前助けてやったキツネがやって来て、森中の動物たちに命令して天からばらまいた金の胡麻を一つ残らず集めてくれたのです。

木こりが持ってきた金の胡麻の数を数えた天女の父親は、仕方なく三人の娘の天女を連れてくると、「お前が地上で暮していた娘を選べ。間違えたら、お前を天から突き落としてやる」と、言うのです。ところが三人の顔が全く同じなので、どの娘が木こりの探している妻かわかりません。

すると、以前助けてやったチョウがひらひらと飛んで来て、まん中の娘の肩にとまりました。「わかりました。わたしの妻は、まん中の娘です」見事に自分の妻を言い当てた木こりは、妻と一緒に地上へ戻って幸せに暮らしたということです。

おしまい

(山口県の民話)


さるかめ合戦(さるかめがっせん)
長門市仙崎

むかしむかし大むかし。そのまたむかしの話です。青海島(おうみしま)と仙崎(せんざき)とは陸つづきで、その間はほんのわずかな細いどぶ川が流れているだけで、そのどぶ川も潮がひくと、浅い砂浜になって、歩いて行ききができるようになってしまうのでした。。

そのころのこと、青海島には何百何千という大ざるや小ざるが住みつき、通(かよい:地名)、青海島、仙崎ふきんをぞろぞろ歩きまわり、かき、みかん、びわ、たけのこなど、野や山の作物をあらしまわり、村の人たちはたいへんこまっていました。

とくに青海島には、さるのほとんどが住み、くらしのこんきょ地にしていたのですが、なかでもなかま外れにされていた三匹の親子ざるは、毎日、通(かよい)まで出てきては、一日中、野山や畑の作物まであらしまわっていました。

畑ではたらいているおひゃくしょうさんのそばに行って、1メートルいじょうもあろうかと思われる大ざるが、「ふうふう。」と大きな息をふきかけるのですから、だれもびっくりぎょうてん、くわをほうりなげて、とんで帰っていくのでした。

さて、それはそれはお天気のよい、ある日のこと、一ぴきのさるが、うとうとときもちよさそうに昼ねをしていました。目をさまして、もうそろそろほし潮(潮がひくこと)になろうかというので、山からはまべにおりてきて、物見(ものみ)の松の木にのぼり、「ははん、ぼちぼち潮がひきよるのう。」と、海をながめはじめました。物見のさるだったのです。

それからふと手前のはまべを見わたしたとき、いつもの仙崎の通り道あたりに、たたみ一じょうもあろうかと思われる大きな石がどっかりとすわっているのを見つけました。「ありゃあなんだ。おかしいぞ。あんなところに石なんぞなかったが・・・。」

物見のさるがじっと目をこらしていると、その大石がかすかに動いたようでもありました。ふしぎに思ったその物見のさるは、自分の役目もわすれて、松の木からおりると、すこしはなれた木かげから、そっとようすをうかがい、そろりそろりと近よって行きました。

そして、よくよく見ると、なんとそれは、それはそれは大きな海がめだったではありませんか。しかし、どうもようすがのんびりしています。そこで、もう少し近よってみますと・・・・。じっとしているはずです。海がめは、初夏のものうげな日をあびて、きもちよさそうに、うつらうつらと昼ねをしているではありませんか。

物見のさるは、いつものようにいたずら心がむらむらとわいてきて、よせばいいのに、海がめの首をぐっとつかみ、「やいやい、起きろ。ここはわしの通り道じゃ。」と、きいきい声でわめきたてました。びっくりしたのは海がめです。

のどかな昼ねのまっさいちゅうに、きいきいとかん高い声でさけばれたのでは、たまりません。物見のさるにつかまれた首を、こうらの中にすっとちぢめました。そのひょうしに、物見のさるの手は、こうらの中にはさみこまれてしまいました。

こんどは、物見のさるがびっくりしてあわてました。こうらから手をぬこうとひっぱればひっぱるほど、ますます海がめは首をちぢめます。とうとう物見のさるは、きいきないて仲間にたすけをもとめました。

すると、山の中から、何百ぴきものさるがぞろぞろおりてきて、物見のさるの手をかめのこうらの中からぬこうとして、いっしょうけんめいひっぱりはじめました。とうとう、さるとかめのつなひきになってしまいました。「よいしょ、よいしょ。」どちらも大声をかけて、ひきあいました。

力をいれてひっぱるので、ずらりとつらなったさるの顔はまっかになりました。海がめも、これはたいへんと、海へにげようとして、ブルドーザーのようにように、のしりのしりとあとすざりをはじめました。なにしろ、たたみ一じょうもあろうかという大海がめですから、百猿力(ひゃくえんりき)です。

さるたちは、ずるずると海へひきよせられ、手をはさまれた物見のさるは、もうすこしでおぼれそうになりました。このままでは、全部のさるたちもみんな海へひきずりこまれてしまいます。みんなは、「よいしょ、よいしょ。」と、力をあわせてひきましたが、どうにもなりません。

とうとう、いちばんあとにいた大きいさるが、そこにあった松の木にだきつきました。これで、海がめもがっくりと動けなくなってしまいました。こうなればしかたないと、海がめはひょいと首をのばしたので、物見のさるの手はこうらからすっぽりとぬけました。

とたんに、力いっぱいひっぱっていたたくさんのさるは、はずみをくって、どっと砂はまにしりもちをつきました。そのひょうしに、さるたちはおしりの皮をひんむいてまっかになり、しっぽもきれて、みじかくなりました。

そして、さるたちがおしりをついたとたん、かみなりのような大きい地ひびきとともに、みるみるうちに、今までつづいていた浅瀬(あさせ)のそこに地われがして、じりじりと水がはいりはじめました。

何百ぴきものさるたちは、しばらくぽかんとしていましたが、海の水がどんどんふえだしてくると、キイキイ、キャッキャッと、急にあわてて山の方にかけだしていきました。みるみるうちに青海島がずんずんはなれていきます。

何百何千というさるたちが、船にでものったような気もちで、どうすることもできずに、あれよあれよとおどろいている間に、とうとうなつかしい地方(じかた)とはなれてしまいました。

このときから、青海島がはなれ島になり、二千年もの長い間、この青海島に何百何千というさるが住みつくようになりました。そして、青海島のさるだけが、とくべつ顔やおしりがとくべつまっかだといわれるのも、こうしたわけからなのです。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

(彦島のけしきより)


青海島の王子山から写した仙崎