馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所、その8 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

駅弁当

山陽鉄道が開通して馬関駅が出来たのが明治三十四年の五月。その時、尾ノ道の人で浜中峯吉という人が、この駅で弁当を売った。これを浜吉の弁当といった。

その後鉄道が国有となり、明治三十九年の暮、浜吉が駅前に鉄道旅館と待合所営業を始めてからはその弁当も本格化され、山陽線中一番うまく、また一番よく売れた。

この峯吉さんと父とはいろんな関係での知合いで、父はよく暇な時には浜吉に話し込みに行くことがあった。私も父に連れられて再三となくお供をした。

広い台所を見ると、御飯を炊く所、おかずをつくる所、折箱を整理する所…それにまた、おかずを折箱に詰める人、御飯を詰める人、それを重ねて上にレッテルをのせ、十文字にヒモをくくる人と、まるで昼前や夕方は戦場のような忙しさである。

私は特に御飯を詰めるのを見るのが面白かった。それは「せんべい」を焼くほどのスリルはないとしても、ジッと見ていると中々動的でリズミカルである。

ところがその中に女の人で一人だけ飛び抜けて熟練した人がいた。その動作はとても正確で、折箱にひとシャモジ入れると、それがキチッと箱に詰って、決してあとで増減しないのが不思議でならなかった。

あとで父にそのことを話すと、父は「あの人がここの奥さんだよ。あの人がひとシャモジひとシャモジ入れたのを、あとでハカリにかけてみると、どれもこれもみんな目方が同じなんだ」といった。

熟練というものは恐ろしいものだと、その時子供心にもつくづく感心したことである。それは弁当が二十五銭から三十銭に上ったころの話である。(なお、この人の名前を浜中シナといい、数年前高齢八十六歳でなくなった)

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


はじめて河豚をたべた話

父は毎晩晩酌をしていた。それも必らずガラスのカン瓶でカンをつけさせ、たまたま母が忙がしくてカンがつき過ぎると、父は必らず仏頂づらをした。

母は一本の木の箸をカン瓶につけるとジューツと泡が立ち上るが、それを父の前に出すと不精々々に飲んだ。こうすると酒のコゲ味が消える…ということをその時はじめて聞いた。

父は代々下関に住みながら案外河豚はたべなかった。いやではもちろんなかったが中毒が恐ろしかったらしい。

小学校の五年の時だったと思う。京都から久々に珍らしいお客がみえた時のことである。そのお客は今まで一度もたべたことのない河豚を是非河豚の本場であるこの下関でたべたいようすだつた。

折角の希望だから父は近所の藤友というふく料理屋にお客を案内した。私は子供心に一度たべてみたいという好奇心から、お客の来た朝からせがみ続けた。

お蔭でどをにかゆるされて父のお供がかなったが、そのかわり、朝から菓子はたべてはいかぬ。油物はあたる。胃袋はカラにしないと中毒する。…という具合で一滴の水さえやかましかった。

父もまたその通り実行したので私はそんなものかと思いながら夕方まで父の指示に従ったが、今から考えてみると、云い出したお客こそ迷惑な話だった。

こうして私達は日が落ちかけて藤友に行ったのだが、さて刺身に箸をつける時はさすがに恐ろしかった。二切れたべてみて、こうまでして命がけでたべるほど、それほど河豚というものはおいしいものとも思えなかった。

私はそれっきり箸をつけるのをやめたが、家に帰ってみると矢張り何か気持が悪かった。その時母が何か知らぬ薬を飲ませてくれたことを覚えている。そんなことがあってのちは河豚をたべる機会もなく、いつの間にか中学を出た。

しかしその間、父は例のガラスのカン瓶で毎晩晩酌を飲むことを忘れなかったが、河豚の刺身で一杯かたむけている姿を一度も見たことがなかった。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


ぜんざいとそば

「河崎屋」といえばここのぜんざいはうまかったしまた量も多かった。主人は河崎といい、朝日館という活動館の少し西にあった。

五銭でドンブリ一杯あったが、十銭といえばそれこそ大ドンブリで胸がムカムカする程たべられた。相当間口の広い店だったが、夕食過ぎて行くと大低腰かけにかけ切れないお客が店の外にまで立っていた。

下関にもその頃たべものゃはいろいろあったが、私たちがたまさか行くところはこうしたぜんざいやか、父に連れられてそばやにはいるくらいのことだった。

そばやには東京庵というのが新地と細江と入江、それに唐戸にも家を持ち、西之端の末広、阿弥陀寺の赤のれん、東南部町の三好庵、大社そば、裏町のやぶなどがあった。

そばはかけに限る。そばは喉でたべるもの。ダシは飲むものではない。父はいつもそんなことをいっていた。父はしかしかけそばよりもかきそばが好きだった。そばの粉はこの界隈では一の宮のが一番良いといっていた。

遠く信州からも取りよせて毎朝御飯の前に一杯は必らず自分でかいてたべていたが、同じ信州のそばでも、平地でとれるのと山肌でとれるのでは味が大分違う。平地のそばは気目が小さく、色がやや白っぽいが、山肌のものよりズッと不味い。…ともいっていた。

熱湯で茶碗を温め、適度のそば粉に湯を交ぜてかいたが、必らずその時には木の割箸をつかった。 かき終ってポンと箸でそばを茶碗からとると、茶碗の底がツルツルに離れるのが上手な出来で、これにつける醤油には別にどんな調味料も入れてはいけない。…といっていた。

私も父に教わりながら毎朝一碗宛かいてたべたが、だんだんたべ馴れてくるとこんなにうまいものはないと感じ出した。

私の家の附近のたべものやでは船溜の「かき舟」岬之町の洋食屋「山陽亭」と「吾妻亭」、それに一風変っていた十銭洋食の「浪花軒」などを知っているがこれも減多に行く機会はなかった。

下関の喫茶店の草分けは一般には西之端の「サントス」(大正十三年)となっているようだが、それよりも細江海岸通りの東端に三輪という人が始めた「みつわ」という店が一番古かったようだ。大正八、九年の創業とか聞いたが、これとても遂に一度もはいる機会がなかった。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


アイスケーキ

明治時代の氷屋はいわゆる「氷水屋」で、今でやるカンナや機械で氷を削って蜜やアンを入れて出す「氷屋」とはおおよそ違った。

この氷水屋はここでは「氷万」こと垢木万蔵が明治九年北海道から天然氷「函館氷」を船で仕入れてから始ったもので氷を袋に入れ金槌でたたき、それに砂糖をかけたり、白玉を入れたりして出した。

「氷水屋」の店先には当時流行の南京玉の「のれん」を下げ、家の中には「金剛水」と書いた大きな額がかかっていた。

しかし私の回想はそこまで古い昔ではなく、今でいうアイスキャンデーの前身アイスケーキがそのまた前身の氷菓子からようやく機械化されて作り始められた頃のことである。

下関に氷菓子が手工業として始ったのは大正にはいってすぐのことで、これが機械でモーターをならして生産しだしたのは大正六年、市内豊前田町のぜんざいや河崎屋がその嚆矢であった。

それが非常に当ったので、その翌年には市内に五、六軒のケーキ屋が出来た。私の家に最も近い所では山陽クラブという映画館(当時の活動館)のすぐ東隣にも出来た。

 私は夏中この店に日参した。 ちくわのような氷菓子が串についていたが、これには赤、白、黄といろいろの色があった。

私の父と最も仲のよい竹崎の藤田というお医者さんは二日に一度は必らず私の家にみえた。ある日のひる下り、往診の帰り途かヒヨッコリあらわれた先生が、~おい面白い狂歌が出来た。といって店先でサラサラと紙に書いた。それには

世の中はアイスケーキと不景気で、青くなったり赤くなったり

とあった。

父はそれを読みながら私に「大きうなって道楽は何をしてもええが、俳句とかこんなものが一番金がかからんで一番楽しいもんだ」といって笑った。父の話は話として、今から考えてみると、あの頃はよっぽど世の中が不景気だったのだろう。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


ダ菓子1

私の家の四、五軒西に小さなダ菓子屋があった。名前は忘れたが、大久保彦左衛門のように眼鏡のツルを糸にして耳に引っかけ、いつも店先で縫い物をしているオバハンがいた。

ここに行けば、パッチンも買えたしラムネ玉もあったし、みかん水、水まんじう、堀立て、と何でもあった。夏になると必ず店先に小さな噴水式のものをつくり、水頭に色のついたピンポン玉を踊らせて人目を引いた。それが如何にも涼しかった。

ここにはいろんなダ菓子を売っていた。

「みりん菓子」というのがあった。指輪ようのもので白、黄、赤といろいろあったが、輪の外は砂糖で出来、中身にはみりんが入っていた。歯でくだくと舌の上に砂糖とみりんの味がねっとり乗って実にうまかった。

「竹ようかん」があった。竹筒にようかんを流し込み、いろ紙で封がしてあった。たべる時には一方の口に穴をあけ、 それを口につけて吸い込む。普通のようかんより柔かくまた水くさかったが、結局はその味わいよりも、それを吸ってたべるところに面白さがあったのであろう。

「ツボおこし」があった。素焼のツボにはいったおこしで、容器を割って中身だけを売った。

「へそがし」があった。指先くらいの丸型で、黒砂糖を練りその上に白砂糖がまぶしてあった。

「うさぎのふん」というのは「へそがし」より小さく中にアンがはいっていた。

「あめん棒」これはアメの棒である。長さ三寸、直径三分くらいのもので、中に豆など入れたのもあった。

「ネコのふん」というのはこのことで、「ねじりあめ」というのは「あめん棒」を少しねじたもので、亀山さんの節分の「鬼の棒」がそれである。

「筆がし」筆の形をしたあめで、長さ三寸、径三、四分。軸は桃、穂は茶、穂先は白の色がほどこされていた。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


ダ菓子2

「金平糖」は「金餅糖」 とも、また「金米糖」 とも書いた。砂糖に小麦クズをまぜて作ったもので、今はそのシンには何もはいっていないが、昔は「けしの実」や「にっけい」がはいっていた。

「お多福アメ」は長アメにお多福を入れ込んで、いくら折っても同じお多福の顔が出てくるしくみになっていた。店でも売っていたが、縁日などで、よく、アメの中からお多ゃんが飛んで出る。といって、威勢よく売っていたのがそれである。

「麦菓子」は麦の粉をふくらしていろんな形…たとえば、魚とか鉄砲、扇、鶏…などをつくりそれに適度の配色をしたものである。

「石菓子」は親指のツメくらいの大きさのもので、型は不自然。ネズミのかかった白色をおびているので、如何にも小石を思わせた。

「落雁」には「豆落雁」と「麦落雁」とがあった。「豆落雁」は落ガンの非常に小型のもので「麦落雁」は麦の粉で作ってあつた。「石菓子」と共にそううまい菓子ではなかったが、その写実になにかしら魅力があった。

「芋せんべい」というのがあった。芋を千切りに切り、上に「リン」をかけた。

「かつおがし」というのもあった。一見かつおの形をしていたのでそうした名がついたのであろうが、長アメを斜に切ってひし形になっていたので、これを「ひしアメ」ともいった。口に入れて当分とけなかった。

また「にっけい」「にっけいがし」「豆板」「りんかけ豆」「あめ玉」「たんきりアメ」「ぼうろ」「塩せんべい」「梅鉢」「ぽんぽんがし」「しようが糖」「豆とじ」「かりんとう」そんな種類のものが沢山店先にならべてあった。

その中でも、今は知らないが、一銭かたく握っていくと、大きなアメ玉を五つもくれたことを覚えている。それが、私がまだ幼稚園に上る前、だから、大正の二、三年のころだと思う。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


薬売

「批把葉湯」 は俗に「消夏の散薬」といわれ、せんじ薬で婦人薬になった。~烏丸本家批把葉湯、口中さわやかにして胸すかし――。と、悠長な呼び声で六尺の両端に薬箱を吊して売って歩いた。その箱の四面には紙を貼り「本家批把葉湯」と書いてあった。

頭に手拭をかむり、股引、草履ばきに尻からげ、それに扇を ゆったりつかって歩く姿は まことにイキなものだつた。これは夏を中心にして四月のはじめから九月一杯まで売って歩いた。

「せめんの菓子」というのがあった。粉菓子ようのものに虫下しの薬を入れたもので、甘味もあり、子供の虫下しとして特効があった。

車にでかでかと装飾をした箱を載せ、幟を立て(幟には赤の鳥居のマークに「せめんの菓子」と白く染め抜いてあった)ある者は三味線を弾き、ある者は太鼓をたたき、女も混って五、六人が街から街を賑やかに練って歩いた。

みな揃いのマーク入り紺ハッピを着込み、「大阪天王寺石の鳥居前岩崎大海堂のせめんの菓子――」とおらび、買った人にはいちいち紙旗を添えてくれた。

ちろん、大阪から定期的に各地に出張したもので、あの上方人らしいガサツな宣伝が賑やか好みの私達子供連中の心を無性にゆすぶった。

「おいちにの薬」というのもあった。おいちにの薬のこうけんはーと、兵隊服を着き、手風琴をならしながら歩いた。これは日露戦争後に生れた薬売りで、大抵がその戦争での廃兵であった。売品の主なものは「正露丸」で、これは胃腸病の薬になった。

「征露丸」の前には「千金丹」があったらしい。和服に雪駄をはき、白のこうもり傘に「岡内千金丹」と大書し、五、六人連れで街を流したが、「征露丸」の「おいちに」が出はじめてから自然に消えていったという。

「千金丹」よりまだずっと古い街の薬売りに「かんの虫赤蛙」があった。明治前後からその末期まで続いたというが、市内高尾方面に住む一部の人が附近で採れる赤蛙を籠に入れ、紺の手甲、きゃはん、わらじがけという如何にも奥地から出てきた男のようにみせかけて売って歩いた。子供の「かんの虫」の特薬であった。

(注: 高尾あたりと勝山から長府の間に被差別民の部落があった。)

「救世軍」とか「孤児院」の薬売りは非常に新しく、富山の「おき薬」は今でも知らぬ人はあるまい。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


すし売り

家をかまえたすし屋は、ところどころにいろいろとあったが、矢張り子供心には「すし売り」 の方がズッと印象が深い。もろぶたを二、三枚重ね、その中に押ずし、おからずし、いなりずし、巻、時には、にしんのこんぶ巻や魚のてり焼などをいれ、それを肩に担いで売って歩いた。

これは特別威勢のよい商売で、向うはち巻、角帯に尻からげ、雪タばきというイキ姿で、一寸このかいわいでは珍しい江戸前の気分を出していた。なかでも変った「すし売り」は長府金屋の山野屋で、ここの主人を山野品吉といった。 

自分でこのすしを「みやこずし」と名付け、のりの巻ずし、みやこずし、にしんのこぶ巻、小ダイのはなずし、まけちよく添えちよく、なじみにやただやるなーとふれ歩き、長府名物男の一人でもあった。

それと反対に阿弥陀寺に「前竹」というのがあった。この人は上方風のイキ好みで、ふれ声一つにしても、すしやーんえー、すしやーんえーんーと、いかにものびやかな抑揚で売って歩くので、だれもが一応静かに振り返ってみた。

「豆腐売り」「ごま豆腐売り」「いぎす売り」「ところてんや」「うどんや」 「おきうど売り」「おごう売り」「もずく売り」…と、あのころの食糧売りにもいろいろあったが、そのおのおのにみななつかしい思い出の一つ一つがあった。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


金山寺納豆ととうがらし

食糧のふり売りにもいろいろあった。「きんざんじ売り」がその一つ。金山寺や、納豆などをいれた隋円形のオケが大小あった。下積のオケが一番大きく、上に重ねるほど小さいのをおき、おのおの五、六箱ずつを六尺にふりわけ、朝早くから街を売り歩いた。

なにぶん、どこの家庭の朝飯にも間に合わさなければならないので、早朝から「きんだんじ なっとからしづけ」と早口に呼びながら走るように家の前を通りぬけるので、よくうちの女中などは器片手にあとを追っかけて買いにいったものである。

このオイサンは水あめをつくっていた赤岸のこうじゃこと古谷さんで、のち当時いた「佃煮売り」や「煮豆売り」のように引出箱に入れて歩くようになった。

「七味唐辛子売り」も変っていた。頭には唐辛子をかたちどつた円スィ形の真っ赤にぬつた帽子をかむり、黒の江戸腹はっぴには「唐がらし」と大きく染め抜き、肩かけカバンに唐辛子を入れて歩いた。

ひりりと辛いが唐辛子
さんしょのこ
とおんとおんと唐辛子

と、ふれ歩いたが、なかでも赤間の恩地とかいうビッコの人が一番人気者だった。また、一番最後まで売った。

ビッコの上に不愛想で、その上いつもズズぎたない風さいをしていたあのオイサンがどうして人気者だったか、いまもって私にはわからないが、多分他の人よりも良い品物を売っていたからかもわからない。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


きびだんご

六尺の両端に箱をつるし、片手で鳴子を握ってパチャパチヤとたたきながら    おつきびちゃーんのあつあつ。と呼びながら「きびだんごや」が街を歩いた。いつもきまつて箱を下すところは西細江の光明寺の前だった。私達は、その鳴子の音を聞くときびだんごのオイサンより先に、お寺の前に来て待っていた。

箱が六尺からはずされナベのふたがとられると、たぎり切つた熱湯の湯気がパーツとあがる。引出しを抜き、中から取り出された、くしに差した団子が一つかみそのナベの中に入れられる。すぐゆがけるので、きな粉のはいつた別の引出しを抜いて、一本々々湯から揚げては、そのきな粉にまぶしては売ってくれた。

大きい団子の時は三つ、小さいのだったら五つくしに差してあったが、それをその場で一つ一つほうばると、舌が焼けつくように熱かった。また熱い間だけは非常にうまく、これを家に持ち帰ってたべると、それ程にうまくはなかった。それだけに私達の「きびだんご」に飛びつく魅力はその「熱さ」にあった。

街を売って歩く私達子供のころの口近いたべものは、このほかにも「わりがし」「菓子つり」「わたがし」「かるめら」「大福餅」などがあったが、少し年代が下ると「玄米パン」や「太鼓まんじゅう」「鶏卵焼」などがあった。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


あめ湯と冷しアメ

昔のあめ湯もなつかしい。

六尺の前後に箱をつり、箱の中に火をおこし、あめ湯の入ったカマがかけてあった。客があれば箱を下し、五勺入りのコップにあめ湯をなみなみにつぎ、しようがを落し、ハシを一本添えて出した。

箱には四角な行灯をたて、赤紙に黒字で「あめ湯」と書いたのもあったが、大抵はその箱の胴に大きく書きなぐってあった。

ふれ言葉はただ・あめ湯…とだけだが。あーめとのばし「ゆ」と軽く吸い込むようにつけ加えるコツが非常にむつかしく、それだけに上手なあめ湯売りが通ると、私達はツイそのふれ言葉を真似てはよくしかられたものである。

「冷しあめ」は今でもある。しかし、子供のころの冷しあめは、大抵おけかバケツに入れたものを、シワクでコップに移してくれた。

それがだんだん仕掛けが大げさになり、真ちゅうなどであめ湯のおけをつくり、上水式にカランをひねってはコップに移すしかけにまで進んだ。そのおけもなかには縦横一間もあるものがあり、カランも五つ以上ついたのがあつた。

口中さわやかにして胸すかし…と、背の低い金時のようなオイサンが山陽の浜で大きなおけのそばで汗を流し、声をからして売っていたのはさして古い話ではない。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


新粉細工とどろ焼

団子細工を「新粉細工」といったのはよつぽど古いことである。モチ米を練っていろんな形の人形や動物をつくり、それに色をつけ一、二寸四角の杉板にのせて売った。

いわば粘土細工のようなもので、もともとはたべるものではなかった。それが、私達の子供のころになるとその中にミツなど入れてたべられるようになった。しかし、あまりおいしいものではなかった。

おいしいものではなかったものに「どろ焼」があった。鉄板の下に火をおこし、その上で水にといたメリケン粉を流し、いろいろの形のものをつくり、それをはぎ取ってはたべた。

縁日の屋台にはよく出たものだが、これはたべることよりも、そうしたことをして遊ぶことの方に面白味があった。

「あめやき」というのもあったが、これは「どろ焼」と手法は同じことで、このアメは「ざらめ」でつくってあったので、普通のアメよりズッとまずかった。

「一銭洋食」はそれからのちに出来た。今でいう「お好み焼」の元祖ともいえる。ニンジンや ねぎやこんにゃくを入れ、しようゆも適度にかけて焼いたので、一銭にしては少しはうまく食えた。

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いいちくたいちく

アメ売りといえばも一つ思い出す。

手甲、きゃはんにたすきがけ…といった服装で、頭にタライをのせ、タイコをたたいて街を歩く。ある時はタライをのせたままで、クルクル踊ってみせた。

また、ある時は身振りおかしくタイコを打ちながら~いいちくたいちくたえもんさん、ちんがらぼうにおおわれて、おとひめさんがねえ…。などと歌ってみせた。

アメはかなづちで割ってくれたが、タライの中にはアメのほかに、風車のついた旗が沢山立ててあり、アメを買うと、その旗を一本々々添えてくれた。

なんでも、このアメ屋は、大阪あたりから各所に流れてくる人らしく、どうだす、とか おまへん…とか、上方らしい言葉をつかうのが何かしらおかしく、それだけに愛敬があって、子供心にたまらなく引きつけられた。

これはアメではないが、えんどう(さくえんどう)をいって砂糖かきツをまぶした豆がうまかった。いりたーてのまめまめーんーとサビのある声でふれ歩くが、一銭出すと、その目の前で四角なあみで豆をいり、三角の紙袋に一杯入れてくれた。私達はこの豆のことを「いりたて豆」といった。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


ふくらしアメ

これは一名「細工アメ」または「吹アメ」ともいった。

アメを筆軸ようの竹の先に丸くつけ、一方の口から息を入れてふくらまし、それを熟練した指先の技巧で、ひようたんだとか、花だとか、鳥だとか、人物だとかいろんな形のものを細工しては、その上に赤、青、黄などの食紅を適度にぬつて売ってくれた。

私達は「こんどは何が出来るかな」という興味で、目をサラのようにして変化していくアメを見つめた。 ウグイスだウグイスだァーとたれかが叫ぶと、一方では、バカ、鶏だ、とこれに応酬する。

さて出来上つて食紅がサラサラツとぬられてみると、なーんだあひるかーといった光景は、たえられないおかしさと面白さがあった。

しかし「吹掛け」といって竹にアメをつけたままのを、そのまま売ってくれることもあるので、私達は下手な手つきでそれをふくらまし、何ともわからないものをつくっては楽しんだ。

何にしろ、この「ふくらしアメ」は街の芸術家であった。それにまたこれに使うアメの製法にもなかなか苦心のひそんだ秘伝があったらしい。一日のアメをつくるのに丸二日はかかる…とよくそのころ聞かされたものだが、その真偽の程は知らない。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


けずりアメ

子供のころの思い出はまず口近いものからはじまる。それも特に街頭の菓子売りや、まずしいダ菓子屋に集中される。

一銭銅貨の小遣をもらった私達が、少年時代どんな菓子をどうして手に入れたか。そしてそれをどんなに楽しんでたベたことか…私のはるかなる回想をこのあたりから糸口を手繰ってみたい。

「けずりアメ」これは「かんなアメ」とも、また「かりかりアメ」ともいった。長い足のついたタライの中に大きなアメのかたまりと、カンナと竹バシを入れて、これを肩にかついでアメ売りが街を歩く。

その時必ず一方の手で竹筒で作ったガラガラを回す。そのガラガラの音を聞くと私達は一銭握って家を飛び出す。アメ売りが街角にタライをおくと私達はそのオイサンのまわりを取巻く。

オイサンはカンナでアメを削り、竹バシの先に花のようにこれをくつつけては、一人々々へわたしてくれた。口のまわりをアメだらけにし、着物の袖でこれをふき、母からしかられたのがこの「けずりアメ」であった。

せんべいを油で揚げたもので「かりかりせんべい」というのが あつた。これも矢張りガラガラを回して歩くので一寸「けずりアメ」とまちがうことがあったが雨が降ってもカリカリターと呼ぶので、そのふれ声で「けずりアメ」と区別することが出来た。

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)


まえがき

近ごろ社会科教育の進むにつれて民俗学的知識が要求されることが多くなったので、その一助に佐藤治氏の「馬関少々昔咄」を亀山叢書の第六輯として江湖の机上に贈ることにしました。

氏は下関に生れ郷土の民俗に最も蘊蓄ふかく多くの著作がある。この資料は身近な、そして心豊かな郷土史だと思います。

亀山八幡宮宮司 竹中所孝

(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)

(彦島のけしきより)


参考

鉄道旅館浜吉(参考)