浜吉弁当と鉄道旅館、旧下関駅前 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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浜吉弁当と旅館

旅に出るといろいろな楽しみがあるが、食べることもその一つであり、乗物の座席が取れたらその次に考えるのが弁当のことである。

私は旅に出たら、なるべく地方名産の駅弁を買うことにしているが、最近は昔にくらべて、包装も中身もだんだん情緒にとぼしくなったようで味気ない。

お茶にしても、現在のプラスチック製容器では、せっかくの味も台なしで、以前の、駅によってそれぞれ違った形につくられた陶器の時代が、なつかしく思われるのである。

しかしまだ伝統のある有名な駅弁は昔の風味を伝えており、富山の「ますのすし」あたりは、依然として日本一の豪華版を維持している。

この近辺沿線のうまい駅弁には鳥取「かにずし」津和野、小郡、折尾、鳥栖「かしわめし」宮島口「あなごめし」 岡山「祭すし」 鳥栖「シュー マイ」などがある。

さて、明治三十四年五月二十四日に山陽鉄道が開通し、細江埋立地 に馬関駅(明治三十六年に下関駅と改称) が開業したときはたいへんなさわぎで、当日は近郊から集まった人びとで駅前はごった返し、市民は初めての陸蒸気(おかじょうき)に目をみはり「来てみれや山陽鉄道へ、丘の上を船が走る」という唄がはやったほどである。

このころ広島県の尾道からやって来て、下関に住みついた浜中峯吉·シナの夫婦が山陽鉄道開通を目あてに弁当屋を開業し、人びとはこれを浜吉弁当とよんだが、これが駅弁の第一号といわれている。

その後、明治三十八年九月に関釜連絡船の航路が開け、下関駅はたくさんの乗降客であふれるようになり、浜吉弁当は売れに売れて商売繁昌し、一躍資産家となるにつれて商売の手をひろげ、旅館や駅待合所の売店も経営するようになった。

さて時代が変わり戦争がはげしくなると、物資統制により鉄道弘済会と各弁当業者が合併して一本となり、有名な浜吉弁当も昭和十六年に姿を消し、下関駅弁当株式会社に変身したのである。

写真にある桃山風に建てられた銅板葺玄関のある建物および、木造三階建の珍しい建物が浜吉旅館であり、今は国鉄職員集会所になっていて、前面の旧山県陽ホテルの建物とともに、わずかに往時の面影を伝えている。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)


旅館「浜吉」と下関警察署

奥が下関警察署、その手前が浜吉である。警察署は昭和5年に鉄筋コンクリート造の建築。平成5年に現在の庁舎が隣接地に建てられるまで使用された。〈細江町·昭和50年代 · 提供=谷山昇氏〉(下関市の昭和より)

浜吉が解体撤去され跡地に下関警察署が新築された。(澤忠宏 関門海峡渡船史より)

(彦島のけしきより)


焦土と化した細江町

昭和20年の空襲にも耐えた鉄道旅館浜吉と警察署と旧山陽百貨店(戦後の労働会館)。写真右手に隠れている旧山陽ホテルは残ったが、その他、郵便局などは焼失している。

(戦後やまがち50年より)(彦島のけしきより)


平成5年には、鉄道旅館浜吉の跡地に下関警察署の新庁舎が完成した(参考)。


参考

下関市細江町2丁目3−8 鉄道旅館浜吉跡地


① 旧下関駅の鉄道旅館とステーションホテル(参考)


② 旧下関駅前(参考)


③ 下関駅弁