馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所、その6 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

旗もらい

仏事では「御大師様のお接待」と「お花祭」がある。御大師様は毎年三月二十一日。この日は弘法大師の命日で、真言宗の各寺院や宗徒の家で参拝者にいろいろの接待をする。

おのおの寺院や家の表には御大師様の像が飾られ、そこにお参りする人、とくに子供達にはハタなどを接待するので私達はそれを「旗もらい」といった。

朝早く起き、母と女中と三人で、半紙を小さく切ってそれにお米を包んだのを百も百五十る作り、それを信玄袋の小さいのに入れて肩にかけ、私は朝御飯もソコソコに表に飛出した。

私の歩く範囲は毎年西は豊前田から竹崎の茶山筋、東は入江から三百目筋あたりまでであったが、袋から包みを一個出しては竹の先にアメのついたハタを一本ずつもらう。

家によっては素晴しく大きなハタをくれる所があるが、そんな家には二度も三度も繰返して行列のあとについた。また、そんな家の前はとくべつ黒山のような人だかりとなった。菓子をくれるところもあった。風車のようなおもちゃをくれるところもあった。

しかし、それよりもこれよりも、一番面白かったのは豊前田の東光寺であった。ここの大師様は米包を投げて、それがそのお像にあたると両手を動かし頭を前後にコックリするので、それがたまらなくおかしく、的がはずれると何度も何度も投げた。

九時ごろが一番の人ざかりで一群、一群がっそら、こんどはあの家だな…というので、街は人、人、人のかたまりがなだれを打った。十時過ぎには大抵私は家に帰った。多い時には百本以上もハタを持って帰ることがあった。

十一時ごろ、人の流れがようやく引くと、街は、アメを食ったあと捨てた大小のハタがあちこちに散乱し、ほこりが春先の風にウズを巻いた。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


お祭あれこれ

お祭といえばまだいろいろと思い出がわく。

五穀祭にひきつづき今の綜合グラウンドである大畠練兵場で招魂祭があった。競馬は毎年のつきものだったが、サーカスをはじめいろんな見世物が出て、あの広い練兵場がアリのように真黒になった。

七月十七日の観音崎永福寺の「幽霊祭」には毎年母と一緒に行った。お参りというよりも幽霊の絵を見に行くのが目的であの物すごい人波に押されて死に物狂いであの高い石段を登った。

しかし、正直なところ、そうまでして毎年わざわざ同じ絵を見に行く必要はなく、つまりはその帰り路、母に何かと土産物を買ってもらうのが目当てであった。

ある年は「走馬灯」を買ってもらった。ある年は「金魚」を買ってもらった。そしてまたある年は、そのころハャッていた「日月ボール」を買ってもらった。

「日月ボール」といえばあのころこれをつかってこんな歌をうたったことがある。

ひい、ふう、みい、よう、いつむつ ななつななつとなえて八つになれば私も尋常一学年ああ日月ボールを買っておくれ親には孝行いたします。君には忠義をつくしますああ日月ボールを買っておくれ、

こんななつかしい歌も今は「日月ボール」と共にこの街から姿を消したが、それでも少し田舎にはいると「平和ボール」という名で時折これを見かけることがある。

十一月十五日は「七五三」の日であるが、私は三つの時に参ったので全然記憶がない。

十二月といえば西南部の恵美須神社と東南部の大黒神社の「斎附」(ときつき)に朝早くから父に連れられて一度あていったことがある。

恵美須神社では赤白のモチと小宝をもらい、大黒神社では裏白のついたまくらのような小俵をもらった。その小俵は今もって私の家の神だなにまつってある。

あのころの両南部町の商店は正月を控えておのおの祭中「市」をひらいて物すごい人出だった。今から考えると両南部町の盛衰は戦前の西細江と今の西細江の違い以上のものがあった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


甘酒祭

亀山八幡宮の秋の大祭は今でも十月十四、五、六の三日間行われている。父の話では、明治時代のこの祭は下関で一番豪華なもので、各商店は業を休み、町内交代で山車やシャギリ山を繰出し、全市を挙げてその喜びを分った。

細江から岬之町、南部から西之端、赤間、中之町一帯にかけ商家は店先に毛せんを敷きつめ、近親の人、知己の人をよせて酒食に歓をつくし、家々自慢の甘酒に舌つづみを打った。

家並みはそろいのマン幕を張りめぐらし夜はモツコウの定紋を描いた提灯に明るいろうそくの灯が踊り、道行く人々の喜色をそのまま路上に楽しい影を投げかけたという。

その後、その山車やシャギリ山は各町のぼう大な出費の関係、それに、電信、電話線が町にはりめぐらされた関係もあって思うように行われず、私の物心っいたころには大方廃絶に近かかった。

しかし、そのころ でも、私の家もこの祭になると店を休み、商品には布をかぶせ、夜ともなると、日ごろ以上に灯を明るくし日ごろ以上に表戸を開き、内輪の者はもちろん、通りがかりの知人を引っぱり込んでは甘酒をすすめた。母のすしと甘酒はうまかった。私はこの祭が来ると母のつくった甘酒を飲むのが一番楽しみであった。

一度、私の家で御神幸の当元をしたことがある。店先にヒもうせんを敷き「西細江町」と書いた大きな神事額を飾って御みこしをお迎えした時には私は父のそばでかたくなって立っていた。母は、引っ込んでおいで…といった表情だったが私は何か父からはなれたくなかった。

御みこしはだんだん近づいて来る。町の宮係りの人が町内の名前を書いた高張提灯を提げて一番先に赤い顔をして私の家に来る。次々にハタ持ちなどが止り、立派なおみこしが家の正面におろされる。そこでノリトが終ると母は加勢人と一緒でお供の人達に茶碗酒のふるまいをし、御みこしはまたしずしずと旧駅前の御旅所へ進んだ。

大人なみにホッとした私はその足で台所にかけ込み、女中に湯呑茶碗に一杯甘酒をっいでもらって、それをグッグッと飲んだ。飲み干した私はまた表てに飛び出し、御みこしのあとをそのまま追っかけて行った。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


乃木神社参拝

学校の遠足といえば、近い所では大平山、少し離れると門司の清滝公園か長府の乃木神社であった。その中でも乃木神社の参拝が一番楽しかった。

乃木神社が出来たのが大正八年だから、そのころの私はもう小学校の上学年であった。たしか秋の大祭である九月十三日と思う。

この日は桜山に行くのとは違って一日がかりなので朝の出発も早いし弁当もいった。弁当は、大抵竹の皮ににぎり飯やかまぼこ、たくあんなど入れ、それをサラシでぬった長い袋に入れ、肩にかるって胸の上で結んだ。

背中に何かズシンと重みがかかるのが何となくうれしかった。水筒を持っているものは弁当とはすかいに肩にかけた。

服装は普通かすりに黒木綿の帯をしめ、帽子にゲタばきだったが、私の組では私ともう一人だけはハカマをはいた。

列をつくって歩く長関道路は実に楽しかった。もちろん、今の道ほど広くなく、乗物らしい乗物も時たましか通らず、特に到るところクマざさの繁みが道を覆うばかりであったので、ここはとても夜など歩ける所ではないと思った。しかし、景色のいい所だと思った。皆んなそろって歌などうたって歩いた。

長府の町は何かしら田舎らしいというよりもむしろひなびたといった感じのほうが強かった。だが、乃木神社は美しいというよりも清ソ(楚)な感じだった。

それよりも、乃木旧邸や宝物館や梅井や…そんなものが一番私の目をひいた。「軍神乃木将軍」という頭が、日頃先生の口から、親の口からしみついていたためか、先生の説明をひとことも聞きもらすまいとして、いつも一番前に出た。

売店で絵葉書を買い、鳥居を出てから乃木せんべいを買ったが、どの店もどの店も物すごい人だった。境内で行われている剣道大会もまた黒山の人だったが、私達はそれから忌宮を抜け、今の電車の鳥居前の所…そこは海であった…に出てそこではじめて弁当を開いた。

握り飯は本当にうまかった。秋の潮風を思わせる味だった。私達はそこで出発の時刻も忘れて無我夢中で遊んだ。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


夏越祭

七月三十日の亀山さんの夏越祭になると必ず思い出すのが「ひとかた」と「茅の輪」と「提灯船」である。

「ひとかた」は一名「かたしろ」ともいい、白い紙を人形のかたちに切ったもので、お宮からさがったこの「ひとかた」に家族の者の名前と年を書き、これでおのおのの体をなでてお宮に納めた。お宮ではこれをお祭りしたあと海に流した。

体をなでるのは自分の体の罪けがれをこの「ひとかた」に託すわけで、それと同じ意味で、当日は神前に「茅の輪」がつくられこれをくぐると矢張り自分の罪けがれが除かれるといわれている。私はよく母と一緒にその輪をくぐりに行った。「提灯船」は美しかった。

御神幸が私の家の前を通るのが大抵夕景係ごろで、御旅所は旧駅の前、つまり今の警察署の前に臨時に建った。私は近所の友達と必ずおみこしのあとを御旅所までついて歩いた。

御みこしが静かに置かれる。そこでノリトがあがり、それが終ると宮司さん以下宮総代世話人は川卯旅館に休憩にはいる。川卯旅館は今の市民館のすぐうしろの位置にあった。

私達は一度家に帰った。フロを浴び、夕食をとり、うす暗くなったころまた出ていく。その間わずかな時間だったと思うのに、御旅所の様子はがらりと変り、提灯には火がともされ、参拝の人々が広場にひしめき合う。

人が去らないのは今からいよいよ御みこしが船で帰られるからで、休憩をとった人々は今の警察署の所からみんな船に乗った。船は御座船に供船、向い船がついた。御座船には御みこしが乗り、数ハイの船には総代世話人などが乗った。

船は提灯が無数にともされ、それが夜空に映えて真昼のようだ。やがて船はしずしずと細江の船だまりをすべり出す。荘重な笛、太鼓の音があたりの騒音を打ち消し、それが、秒一秒と遠くなっていく。

提灯がゆらゆらとゆれ、それがまた美しく海にくだけて、まるでホタルの乱舞である。私達は船だまりを岸づたいに岬から観音崎に走り、そこからまたこの提灯船をながめた。どこからかまた一ソウの供船が加わった。

あたりはいよいよ黒く、提灯はいよいよ赤かった。笛、太鼓は依然としてなりつづけた。岸辺に打ち返す波の音は思いなしか、何か今日の喜びをそのままつたえているようだった。

(なお、この「提灯船」は一名「たこ船」といった。これは船の中で必らず総代世話人が酢だこでサカズキを交すしきたりになっているからだそうで、あのころの私達はまさかあの美しい提灯の火の下でたこをほうばっている人々がいようとは少しも知らなかった)

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


五穀祭

五月一、二、三の三日間は亀山さんの五穀祭である。この三日間は一年一度のドンチャン騒ぎのお祭で、夜ともなれば山陽の浜は好み好みの仮装でシャモジをたたき、三味、太鼓をならして

~八丁浜えらいやつちゃ
ぼんちかわいや寝んねしな~
しもーし車やさん…

などと歌って狂い踊る団体の列が途切れることなく次々に進む。それを囲む見物人の群はこの浜一杯あふれて見動きも出来ない。

しかし、中には良家の娘さんが日ごろ覚えた三味やビワなどかかえ御師匠さんと一緒に街々をながして歩くのが何十組とあった。

こうした人達にはこの日が一年一度の総ざらえであり、また、一年一度晴れて家を外にして歩く日でもあるので、ことさら美しく装いをこらし、親類、知己の家の前ではわざわざ足をとどめておのが芸を、おのが姿を見せた。

今から考えると、これは一つの嫁入りの顔見世でもあったろうが、それにしてもあのころの馬関っ児の芸熱心さは今の想像も及ばない。

私の隣に京真というゲタ屋さんがあった。そしまた、そのすぐ近くに油谷という太物屋さんがあった。そこの娘さんはどちらも私より少し年は少なかったと思うが、素晴しく芸達者だった。その二人はおのおの別の組でシャギリに出た。

~さあ京真から出発だ
というと近所の人がドッとその家の前に押しかけた。

~さあ油谷から出るぞ
というと、また、その方へ黒山のように雪崩をうった。

私は母と一緒に時々見に行ったが、どちらが上手下手の見比べはつかなかったにしても、矢張り油谷の方が好きだった。というのは、京真は細三味線だったが、油谷は太 (ふと)を使ったからだった。

父がいつも浄瑠璃をやっていた関係で、子供ながらも何か聞きつけた太三味線に魅力があった。あのドミたような余韻のこもる太の音が次第に騒音と雑踏の中にかき消えていくのを私はいつまで言いつまでもボツネンと見送った。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


先帝祭

壇之浦から唐戸に電車が通い出したのが昭和七年の十月だったので、私がまだ小学校の帽子をかむっていたころの阿弥陀寺町は幅三間くらいの極く狭い道路だった。

先帝祭の女郎参拝でも、稲荷町のクルワを出た道中は赤間町から中之町、阿弥陀寺とヘビのような道を練って歩いたので、その混雑は今の想像以上のものがあった。

私の親類にあたる料亭「常富」は赤間神宮のすぐ下にあった。「常富」だけではない。宮下に並んだ各料亭は、この日、日ごろの御得意先を招いて酒コウのもてなしをする習慣になっていたが、私の家は内輪の関係で必ずこの「常富」の招待を受けた。

私は毎年のように父に連れられて行った。ひる御飯が出るので、そのころをみ計らって行くと二階の大広間にはズラリとおぜんがならび、ひいき筋のお客が仲居の酌で酒を受けている。

私は父のそばに小さく座っていて、目の前にならんでいる目うつりするほどのごち走にどれから先にたべていいか戸惑いする。仲居がしきりにあれこれとすすめるので、私はツイどれもこれも少しずつハシをつける。

少し酒のはいった父が「先帝祭にはいかをたべんといけん。今日いかをたべんと体にウジがわく」という。何の意味か知らず、私はいかとたけのこのはいった、今から考えれば「木の芽合い」をたべる。たけのこは今でもいやだが、いかはとてもうまかった。だがそれよりもサラに盛り上げたバラずしが一番うまかった。

そのうち、郭を出た道中がだんだんお宮に近づいて来た。腹の太った私は臨時につくった二階のさし出しに出て、手すりにもたれたまま道中の来るのを待った。順序通りに郭の旗が通ると「稚児」「花」「警固」「官女」「女臈」としずしずと私の目の下を進む。物すごい町中のざわめきである。

さし出しもくずれるばかりの人で、私は押しつぶされそうになった。「女臈」付添いの女からさし出しに向って手ぬぐいを投げる。さし出しから金包みが飛ぶ。日ごろの顧客と郭との仁義であろう。

そのうち道中はお宮に上る。なだれを打って観衆がそのあとひとかたまりになって追っていく。正にケンランと殺気のルツボである。

私はホッとした気持でまたもとの座敷に戻り、お茶や菓子などたべたあと、土産に「木の芽合い」とすしを詰めた折箱をもらい、父と一緒に常富を出た。
とてもこの雑踏ではお宮にも上れないので、帰途父に「おこし米」など買ってもらって家路をいそいだ。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


桜山の競馬

桜山神社の春の祭は毎年四月十六日に行われた。この日は全校の生徒が参拝した。

厳島神社の左からはいって石畳を進むと小さなガードがあり、それをくぐって左に高い坂路を登って行くとそこに大きな広場があった。これを桜の馬場といった。ここでは毎年草競馬が行われた。

胴の太い、足の短い馬車馬がデコボコの道を暴れ回って走った。遅咲きの桜もまだあちこちに見え、桜見物を兼ねての競馬狂がサクのまわりを幾重にも取りかこんでワーツワーツと歓声をあげた。

中には、出発前の馬に馬主が酒などを飲ませることがあるので、そんな時には馬は酔ってその観衆の中に飛び込むこともあった。列をつくって歩いている私達は思わず立ち止まってこの有様を見るのだが、そうするとすぐ先生からしかられた。

追い立てられるようにして下を山陽線が通っている黒橋をわたり、また、石段を登りつめるとそこが桜山神社であった。それまでの沿道には店屋がズラリとならんでいた。例の冷しあめのオイサンもいた。私のすぐ裏に住んでいるオバハンも風船を売っていた。

私達は広くもない神前に一年から六年までギッシリつまるように整列し最敬礼、という先生の号令一下、出来るだけ頭を低く、出来るだけまた頭をながく下げた。最敬礼がすむと解散であった。

私達は社のうしろにまわり吉田松陰以下三百六十いくつもある神霊をあらためておがむと、飛ぶように石段をおりて桜の馬場に急いだ。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


正月二日の朝

これは祭礼とははずれるが、元日の話が出ると、どうしても正月二日の朝のことが思い出される。

父の話によると、むかしはまだ夜も明けないうちから「初風呂が沸きました―」と銭湯の風呂男が一軒々々戸を叩いてあるいたものだとのことだが、私の子供の頃はもちろんそんなしきたりはもう無かった。

しかし、私は三時頃から父と一緒に近所の清水湯という風呂屋に行った。その頃からもう人で湯場は一杯である。父は下駄をぬぐなり直ぐ番台に近ずき、そこの主人、たしか木村といったが、その人と年賀を交したあと金包を渡した。

風呂の帰りには主人は必らず私に両手で持てないほどのミカンをくれた。私の初風呂は毎年それがあるから楽しみであった。街は 初売りで大賑いであつた。酒屋さんが、醤油屋さんが、そして化粧品屋さんが車一杯に商品を乗せ、旗やのぼりを立てて威勢よく飛ぶように東へ西へと御得意さんの家から家へと走る。

私の家の表には必らず酒と醤油が手拭を添えて置いてあった。呉服屋や洋品店、その他いろいろの小売店は景品や福袋のサービスで大量である。私は風呂から帰ると、母に連れられて、二軒、三軒と買い物について歩き、景品や福袋だけを大事に抱えて帰った。

大きな風呂敷に大小のダルマをつめた男が「起き上りエー飛び上りエー」と戸別に売って歩く。私の家でも必らず二、三個は買つて神棚に祀ったが、大体二、三寸程度の小型のものが大部分で、中には赤に混つて紫色の起上りもあった。

この「だるま売り」は大低四国の松山あたりから海を渡ってくる行商人であった。むろんこのだるまは七転八起と疱瘡除けの縁起ものであった。

縁起といえば、日頃出入りの魚屋が俵をお積みなんせえーといって「なまこ」を持ってきた。「なまこ」の形が俵によく似ていたので、下関ではこれを「俵子」といっていたが、正月早々から俵が舞い込むということからこれを床の間に飾った。

二日の朝がすっかり明け上ると、雑煮のあと必らず「書き初め」である。父は平生私の勉強のことは何もいわないが、この「書き初め」だけは厳しかった。これをチャンと書き終えないと遊びに出られなかったので、毎年これがたった一つの苦であった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


親分

私より三つ四つ上の人でMというのがいた。これが私達子供仲間で一番顔利きの男で、私にとつては最も怖い人だった。

「増富の広場」のスミに半分壊れたような空家があって、そこの裏口に下塗りのままの壁があった。Mがそこの前に集れというので私も仕方なくついて行った。

Mはこの壁にゲン骨を入れ壁に穴があいたら自分の乾分にしてやるという。私は決して乾分にはなりたくなかったが断るとあといじめられるのが恐しいので人並にゲン骨を入れた。

穴があかない。も一度やれ、も一度やれーというので四、五へん同じ所を力まかせに殴ったが遂に穴があかず、反対に私のこぶしから血が出た。

 お前はダメだーというわけで幸いにして私はMの乾分にならなくてすんだが、乾分になれなかった者は、それからのち、事毎にお金をせぶられた。

中には親の金を盗んでまでしてそのMに貢いだものもいた。しかしMの乾分はいつの間にか一人逃げ二人逃げしておしまいには誰一人としてそのMと遊ばなくなってしまった。Mはのち本を万引して呼出しを受けたこともあったが、人の話では高等小学校を出てから病気かなんかで死んだとのことだった。

それとは反対にFという人はよかった。Fの父親は私のすぐ近所で荒物屋をしていて私の父とは特別親しかったが、そのFは無口な人だが年下の私を非常に可愛がってくれた。雨降りなどには自分の家に近所の子供を集め、賞品ツキでよく五目ならべをした。その賞品は大低Fのお父さんが出していた。

私がその第一回に優勝した時ははり紙を部屋に下げ、せつけんとも一つ何かをもらった。しかし、それからは一度も勝ったことがなかったので、第一回の時はたしかにフロックであったのだろう。だが、いくら負けても私は雨が降ると必ずFのうちに遊びに行った。

そのFは今も時々道で会うが、相変らず無口ではあってもあの小さなまなざしは、昔ながらに何か後輩に対するいつくしみを感じさせる。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


夏越祭(七月三十日·亀山八幡宮) 

社殿前に"茅の輪"が設けられ、輪をくぐると、夏を元気に過ごすことができるという。夜は花火大会や福引などが行われる。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

(彦島のけしきより)


参考

下関のお祭り( 参考)