関門海峡百話、俳句、短歌 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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四季の俳句

豊かな詩情に富む関門海峡は、俳句の世界にも多彩に登場している。春夏秋冬、季節を追い、作品を追ってみよう。

まず春の季節には、ここ数年放浪の詩人として特異なブームを呼んだ種田山頭火に、

昇る目は春のはいってくる船出てゆく船

汽笛とならんで歩く早春の白波

といった自由律の句があり、

ふたたび渡る関門は雨

というのも、春雨の海峡であろう。昭和七年から九年にかけての作である。

九州出身の女流俳人、中村汀女と杉田久女にともに春の海峡の句があるのも面白い。

汀女の句は、

海峡の灯も春宵や行き次かな

春潮の心こまかに岩に觸り

というので、九州への帰省の旅の折に残したもの。

久女のは、

薫風や釣舟絶えず並びかへ

という句で、昭和三年、高浜虚子を下関に迎えた際の作品である。

次いで夏の季となると、俳壇の巨匠高浜虚子に、

夏潮の今退く平家亡ぶ時も

の句があり、北九州市の和布刈公園に句碑が建てられている。

また、山口誓子にも、

夜の涼しさ空のの見られ帰る

夜の涼しさ燈台迫門に照りて消ゆ

夜の涼しさ関門に撃る船を見ず

などの句があり、「関門」と題する

風師山颱風を高く行かしむる

の句も、心に残る作品である。風師山は、門司側にあって、あたかも海峡によりそう如くなだらかなそびえを見せている。海峡をよぎる颱風のイメージが見事にとらえられているではないか。

秋の句としては、昭和七年九月、俳誌『其桃』創刊号に発表された巌谷小波の

秋晴や瀬戸を横ぎる朝心

秋風の瀬戸を占めたりいざり舟

といった句がある。

そして冬。長年地元の下関西高等学校に英語教師として教鞭をとられ、俳人としても知られる土居南国城に、句集『土塊』があるが、

部崎灯台くわうくわうと凍て潮ながす

ぎっしりと燭こほらせず渦の彼方

きらびやかなる燭もて峡を凍らさず

ぶいに雪の峡の流れの始まりぬ

はだれ凍つひとつぶいに潮ながれ

といった句は、「関門海峡」と題する一連のもの。この『土塊』は、昭和三十三年、教え子たちのあたたかい協力によって出版された。

長年見つめて来た海峡であるだけに、そこには密度の濃い凝視がある。また小島政二郎が新日本名所案内「関門」の中で紹介している彼の二句も捨てがたい

目の前を冬の帆ひたと海を隠し

渦潮が相打つ時の冬の声よ

(関門海峡百話 清永只夫)


海峡の潮を詠む

幾度もくり返すように、海峡は詩心をさそう。歌人とてその例外ではない。現代短歌の中にも、関門海峡を歌って優れたものが多い。

尾上柴舟
強き陽の光を乱す大うねり大逆潮はいまし始まる
蒼き波逆さに立てて真夏日の大海面は脈うちかえす
とやま
岬山に陽近くなれば暗き影見せつつ動く大蒼潮は

北原白秋
舳にしぶき反り飛び行く船見れば迅しとも迅し瀬戸の青潮
海峡の潮を詠む
風さへや現しき潮の戸波なす早鞆の瀬のいろのはげしさ

木下利玄
閱門海峽白話
海峡の落潮はやし市はてて寒くむなしき市場より見ゆ
下の関も門司も夕さりどよめけるさ中に疾き瀬戸の落潮

吉井
見はるかす目にかがやかにうつりたる赤間が関の夏潮のいろ
大いなる船ほうほうと汽笛鳴らし馬関海峡暮れにけるかも

佐藤佐太郎
ひとかたに流るる潮の見ゆるまで中空の月海峡に照る
底ごもる音を伝へてまのあたり白波たたぬ潮のながれる

対岸の灯火あかるき海峡に夜の潮ながる音を伝へて
ともしびの早く移りて潮流にしたがふ船がしばしば通る

渦もちてながるる夜の潮の音ここの二階に居れば聞ゆる

尾上、北原、木下、吉井と、いずれも格調高く心に響く歌である。だが、いささか観念的と言えば言えないこともない。やはりこれら作者の時代性によるものであろうか。

その点、佐藤佐太郎が、「潮流(下関にて)」と題して歌っている五首は、関門海峡に流れる潮を深くとらえて、感動を静かに伝えている。

下関図書館長で、歌人でもある中原雅夫氏が、「関門海峡をよんだ詩歌は多い。しかしこの五首のようにまともにくんでしかもよくまとまっているのはほかに余りないように思う」と、佐藤佐太郎の歌を高く評価されているのも妥当なところではなかろうか。

(関門海峡百話 清永只夫)


海から今晩は…..

寝ている枕元に自動車が飛び込んで来たといった事故は、交通戦争といわれる今日ではさほどめずらしいことではない。ところが海から今晩は。と、枕元に大型の船が飛び込んで来たとあれば、まさしく海峡の町ならではの珍事である。ある意味では、下関が海峡の町であったことを今更のように再認識させられた事故というべきかもしれない。

漁業を営む下関市壇の浦町の網根浅市さん方は、玄関先を国道9号線が走り、裏側には関門海峡が流れ、道路と海峡にはさまれた形で建っている。平家の落人伝承を伝えるこの壇の浦町一帯、うなぎの寝床と称する人もあるような、口の狭い家が接しながら数十軒建ち並んでいる。

網根さん方もその中の一つである。昭和四十八年四月九日の未明、この網根さん方に、プロパンガスタンカー(八百六十七トン)が操縦のミスで船首から突っ込んで来たのである。

このため木造瓦ぶき二階建の家も、海側にある階下の台所、風呂場、物干し場などがメチャメチャ。家全体も、衝撃で一メートル近く道路側にずれ、柱もほとんどが折れたりはずれたりした。

衝突の勢いで、二階に寝ていた浅市さんの奥さんは、天井まではね飛ばされ、 事故のあと寝込んでしまったということであるが、人命にかかわらなかったことがまだしもの幸せであった。

網根さんの家は、事故を起こしたタンカーの船会社の弁償で建てかえられ、ホッと一息というところであるが、海峡はわが庭ならぬ背面の危機となって壇の浦町の人々に大きい不安を残した。狭い海の道、くれぐれも安全運航を願いたいものである。

(関門海峡百話 清永只夫)



(彦島のけしきより)