関門海峡百話、関門海峡のおまつり | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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海峡にワカメを刈る

旧暦の大みそかから元日の早朝にかけての干潮時を期して、海峡の早鞆瀬戸を舞台に、和布刈神事がくりひろげられる。この神事も、松本清張が推理小説『時間の習俗』の冒頭の舞台に用いて以来、ひときわ有名になったが、門司の和布刈神社、下関の住吉神社が、海峡を隔てた両岸で、ほぼ同じ方法、同じ時刻に行う非常に神秘的な海峡の行事である。ただ、和布刈側はこの神事を一般公開して一つの観光行事にまで育てているが、住吉側はいまだに秘儀主義を守っている。

両神社は、ともに神功皇后伝承にゆかりの神社で、神事の起こりも、皇后が三韓征伐からの凱旋を祝って自ら神主となり、早鞆の瀬戸のワカメを刈って神前に捧げたという古事に始まるとも、住吉鎮座のはじめ、竣立の命(穴門国の直)が皇后のお言葉を奉じて海峡にワカメを刈り、元旦の供物として献じた古事によるとも言われている。身を清めた神宮三人が、鎌、手桶、炬火をもって海峡の凍りつくような急流に身を浸してワカメを刈り、神前に捧げる。

門司和布刈の場合は、神社が早鞆の瀬戸に接しているため、神社の石段を降りればすぐそこがワカメを刈る場所、すべての神事が同一地点で行われることになるが、下関住吉の場合は、神社が海峡と離れてあるため、和布刈道として定められた道を歩いての往復だけに、たっぷり四時間はかかることになる。同じ性格を持つ神事が、一方は公開、一方が秘儀としていることは、単に神社の姿勢だけでなく、こうした条件の相異が一因ともなっているのではあるまいか。下関の場合、お宮から海峡への行列を見ると目がつぶれるといい伝えられ、また壇の浦の漁師の間には和布刈神事が終わるまでここのワカメを刈らないなどの禁忌が今になお残っている。

神事発祥の理由を今日的に究明すれば、南方渡来の海洋民族の習俗を伝えるものとか、海草を好んで食べる日本人の民族性に根ざすものだと、さまざまな理論が展開されようが、上代から伝わるというこの神事、ふるさと人にとってまことに厳粛な神事であったにちがいない。いずれにしても、関門両岸に時を同じくして炬火が赤々と燃え、海峡の潮を照らし出す様は古代さながらの秘儀を思わせ、海峡を神秘に彩る。その両地の同次元性は、両地にとっての海峡の共有性を深く印象づけてくれるようでもある。

(関門海峡百話 清永只夫)


海中の大石にしめなわ

二月の和布刈神事とともに、海峡の季節を彩る風物詩として下関側にしめなわ祭がある。これは、毎年十二月の十日前後に、壇の浦の灯台から東に約二十メートル、関門橋の橋塔に近い岸壁に近く、海峡の中にしっかりと立つ大石に、舟をこぎ出して大きいしめなわをかけ海上安全を祈願するという祭事である。

実はこの大石、関門橋の橋脚の立つ下関甲山の頂上に祭られている立石稲荷の御神体といわれ、源平合戦の折、平家が京都から逃げ出すとき、伏見稲荷の分身としていただき、ここまで護って来たが、遂に平家一門とともにこの海に沈み、神霊がここに止まって海難の守護神となったという由来を持つ。

面白いことに、社殿は山上に、御神体は海中にということになる。分身として石に神霊を託す信仰は一般的にもよくあること。だが、その石の大きさを思う時、船で運びあがめるにはいささか不自然さを感じないわけではない。ところで、この大石にしめな を祭る神事の起こりは、いわゆる荒天鎮撫の伝説によるものである。

今から約六十数年前というから、明治の末頃、この大石が倒れたことがある。年は大雨、大風、さらに地元壇の浦の町には火災、疫病と悪いことばかりが続き、町の人々の心を不安にかりたてた。そうしたある夜のこと、この浦の老漁夫の夢枕に狐があらわれ、倒れている大石を起こさなければ、いつまでも災難は続くであろうと告げた。

そこで早速人足を雇ってその大石を起こそうとしたが、荒天と激浪のために何度やってみても失敗する。思案の結果、他人だのみでは神の心を鎮めることは出来ないと、壇の浦の町内が総出で、自分たちの手で作業をはじめたところ、大石は簡単に立ちなおり、不思議やその日から、さしもの風も止み、病人も元気になり、大漁が続くようになった。

それ以後、壇の浦の人達は、この大石を立石稲荷のご神体として信仰し"しめなわ祭"を受け継いできたというものである。この祭りも、戦中、戦後、一時とだえていたが、昭和二十六年に関門民芸会(代表佐藤治氏)が、地元壇の浦の漁業協同組合と相談して、その年の十二月に復活、今日まで冬の海峡に話題をまきながら盛大にいとなまれてきている。

(関門海峡百話 清永只夫)


みなと祭と源平船合戦

関門両市は、海峡の町であると同時にみなとの町でもある。このみなとの繁栄を願って門司と下関では、四月中旬から五月中旬にかけて「みなと祭」をにぎやかにくりひろげる。

門司は和布刈神事で名高い和布刈神社の大祭に併せて、五月十三、十四、十五の三日間。下関は、五月の初めに行われていたが、四十七年、NHK大河ドラマ「新平家物語」の平家ブームにあやかって、名も「源平祭」と改称、四月二十三日から三日の先帝祭に併せてくりひろげられることになった。

祭りは、両市それぞれに趣向をこらし、シャギリや仮装行列が街をねり歩く。仮装は両市の体質を反映して、門司がきれいどころへの変身と国際色でいけば、下関は源平武者への変身、源平武者行列が呼びもの。また、関門対抗の武蔵・小次郎剣道大会などもある。

呼びものといえば、昭和三十年からはじまった下関の源平船合戦。安徳幼帝の御座舟を中心に、漁船数百隻を源平両軍にしたてて、海峡に赤旗、白旗をなびかせ、寿永四年の壇の浦合戦を再現、十万の観衆が海岸を埋めつくした。それはまさしく、海峡の祭りであった。

しかし、それも十年間続けられ、次第に漁船の調達なども困難となり、昭和四十年に一応休止となった。休止……ということは、何か特別のことなどあった折には再現を、という含みをもたせての処置で、四十七年の平家ブームには、NHK「新平家物語」のテレビロケともからんで、この年に限り復活させている。それに要した経費は、五百万円とも七百万円ともいわれている。

「みなと祭」も、両市の行政姿勢にともなっておのずから変容をとげているようである。

(関門海峡百話 清永只夫)


和布刈神社の和布刈神事の様子。北九州市公式HPより、住吉神社の神事は非公開


(彦島のけしきより)