関門海峡百話、司馬遼太郎 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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動く景色

関門海峡の眺めのすばらしさは、景色が動くということである。一日ほぼ千艘といわれる船舶の往来、小は釣の伝馬船から大は万トン級の貨物船、あるいは定期航路の大型フェリー船と、型も色彩もさまざま、その変化の楽しさもさることながら、その日、その日の空の色を映して、青くまた灰色に変貌する海面の色、そして西流、東流、全く逆流する潮の流れも、このうえなく興趣をそそるのである。

司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』の中に、「壇之浦付近」と題する次のような一文がある。

「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む。自然というのは動いていなければいけない。伯耆大山の落葉樹の林も鳥の声が樹間をきり裂いてゆくからはじめて林であり、出雲の松江城下の晴れた日、にわかに日照雨がふって白い雲がうごいている。だから松江の雲がいい。馬関海峡(ここは下関海峡というより馬関海峡とよぶほうが、潮の色までちがってくる)は、潮がはげしくうごき、潮にさからってゆく外国の大船までが、スクリューを掻き、機関をあえがせて、人間のいとなみの可憐さを自然風景としてみせてくれる」

司馬遼太郎は 人間のいとなみ、という言葉を持ち出しているが、人間のいとなみと、歴史のいとなみが、動く自然の中に見事に織り込まれ、綴り合わされて来たのが、この関門海峡なのである。

動きの見事さと人生への共感を思うのは小島政二郎も同じである。彼の紀行文「関門」の中に次のような一節がある。

「絶え間なく、大小いろんな形の汽船が右から左へ消え、左から右へ消えて行くよさ。それがみんな矢を射るような潮の速さを語っていた。何か人生をそこに私は感じずにいられなかった。そうした船が、夜更けに汽笛を鳴らして通るのを聞くと、一人ぼっちで暗夜を行く寂しさを訴えているような気がした。日本の最後の港に別れを告げる声のようにも思えた」

鋭い眼力者司馬遼太郎をして、日本一好きな景色とい めたこの海峡、夜景や関門橋だけを自慢にふりまわす必要はないようである。

(関門海峡百話 清永只夫)


海峡に向かって涙する

司馬遼太郎にもおとらず、関門海峡の眺めを絶賛する小島政二郎の紀行文「関門」は、昭和四十年二月十九日発行の「週刊朝日」に掲載された新日本名所案内の一つ。海峡に対する、彼のいわば恋慕の詩である。

「…関門海峡の眺めが類ないくらい美しいだけに、この語り掛けて来る力も優にやさしく美しかった。幾度見直しても飽きない生きている美しさだ、関門海峡の美しさは火の山からの眺めも、手向山からの眺めも、美しかった。若い人達は、風の中を、関門海峡の夜景を見に、ケーブルがなくなってからもう一度火の山へ登って行った。しかし、私には二度自分自身が渡ったことのある玄界灘まで見える風師山からの最後の日の俯瞰図が、最も美しく、訴えて来るものも強烈だった。玄界灘から吹上げて来る風は、私の体を吹飛ばすほど激しかった。忽ち私の五体は冷えて行った。それでも私はそこから立去りかねた。私は日本の過去、自分の過去を思い返して、心の中で泣いていた」

長い引用になったが、彼が思い返す日本と自分の過去とは、他でもない勃興期の日本であり、勃興期に人となった自分である。そして、世界の五大強国にのしあがり、その是非は別として大陸へ進出していく日本の門戸としての関門海峡の思い出であった。

このルポ「関門」が、後に随筆集に収録され、その本の題名が『明治の人間』とされたことが示すとおり、彼は明治人の一徹さによって、海峡との対話を行っている。

「関門海峡を取巻く高低さまざまの山も、青い海も、そういう太古の歴史から、明治大正に於ける勃興期の歴史をも肌ににじませているのだ。今まで登れなかった手向山や風師山から六連島を見ても、蒼茫と霞んでいる玄界灘を見ても、勃興期に人となった私には、涙なきを得ない」

という一節こそ、明治人であり、戦前派である小島政二郎の関門海峡観の基調となるものであるのだ。

その点、今日の若い人々にとって、歴史における海外への門戸としての理解はあっても、関門海峡と海外雄飛のイメージが結びつくことは、おそらくないのではあるまいか。

(関門海峡百話 清永只夫)

注: 関門海峡の西は玄界灘では無く、響灘


手入れ要らずの庭

司馬遼太郎には『歴史を紀行する』の中に次のような一文もある。

「宿の裏はそのまま壇ノ浦の海になっている。部屋のそとにくろぐろとした潮が巻き、底鳴りしつつ走り、その最急のときのすさまじさはながめているだけで、当方の息づかいがあやしくなるほどである。この海峡で義経が平家の艦隊を全滅させ、長州藩が四カ国艦隊と戦い、幕長海戦のときには竜馬が高杉の艦隊に協力してオテントサマ号をもって幕府艦隊を牽制した。『手入れ要らずの庭です』と、家つきのおかみさんがいう。庭とは、むろん海峡をさしている。まったくこれほどの庭はないであろう。このせまい水路をきれめなく往来する船々の色彩や形をながめているだけでいつのまにか日を暮れさせてしまい、下関での心づもりの場所をみる時間をうしなった」

下関市阿弥陀寺町の料亭での感想である。この阿弥陀寺町から壇の浦町にかけては、まさに海峡に接する感じで家々が建ち並んでいる。

中でも阿弥陀寺町は、国道九号線と海峡にはさまれて一流の料亭が競っている一画、座敷のすぐそこに潮が流れ、ガラス戸ごしに目の前を大型船が行き過ぎていく様を眺めながらくむ酒は格別な味がある。まして、汽笛でも鳴り、ふくのさし身でもあれば申し分ない。

昭和十三年八月、この地を訪れた俳人山口誓子も

夜の涼しさ料亭の階下に潮たぎつ
夜の涼しさ料亭に著きし揺れ

といった句を残しているように、まさに足下に潮が流れているのである。

また壇の浦一帯は、海峡での漁に営みを託している人々が住む。彼等の家は独特の構造を持ち、階下から直接船に乗り込んで海峡に出る。家と海峡が共同体のような感じでさえある。

それにしても、この海峡を庭と感じるのは、この町の家々だけではあるまい。関門の地に住む人々は、日々の生活の中で、海峡を一つの借景としての豊かさで受け入れ親しんでいるとも言うことができるのではなかろうか。

(関門海峡百話 清永只夫)


御裳川

壇之浦

壇之浦町

壇之浦町から阿弥陀寺町

阿弥陀寺町

(彦島のけしきより)