うにの文化誌、下関うにの由緒 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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『下関うにの由緒』3

この文書の執筆者湊久太郎は、豊西村(現・豊浦町室津)出身で大正二年山口県師範学校を卒業すると共に、六連島(彦島尋常高等小学校六連島分教場)に赴任。昭和十三年~十四年吉見尋常高等小学校長。後に豊西村村長になった。

ちなみに吉見村は昭和十四年に下関市と合併。「関門地方経済調査・第二輯」(市立下関商業学校、編集兼発行者上田強・昭和四年二月刊)に五年生林勝登「六連島の雲丹に就いて」(同誌8-8頁)という小論文がある。

それによると「宝永の頃(注・一七〇四一七〇八)、麻生氏の子孫にて西村(今も西村ありて寺なり)某氏或る時海産物の採集に努めて居る時偶雲丹を採集し之を製造(方法不明)し試食せしに其の味頗るよく食膳に供ふるを得るを以つて其の製造方法を吟味し、貯蔵方法を研究し、之を藩主毛利公に献上せしに非常に御満悦御嘉納あり、爾来毎年三月節句前に之を献上する事となった。(中略)

雲丹の採集は四月下旬より七月一杯約百日間にわたりて行はれ、老若男女皆之れが採取に従事する。(中略)  現今にては本島はその繁殖のため採集を禁じ遠く鹿児島、長崎方面に下関市の尼安商店、和田商店より傭はれて至るものあり。人夫は県阿武郡、南は九州長崎五島の人傭はる。(中略)

尼安商店はガゼを製造なさず馬の子のみである(中略)  此の実は海栗十貫につき四百五十匁取り得一升の目方が約五百匁であるから十貫で約一升とれる計算になる。(注・要するに殻付ウニからとれる身は、約一○%である)。

瓶は六連島の雲丹を買入てをる尼安、和田、兒島諸店より送り来る。瓶には五勺瓶、一合瓶、一合五勺瓶、二合瓶、の四種あるを普通として各店によりて使用の瓶は異って居る。(注・一升=約一八:/一升=-合・一合=10ヵ)。

精製された海栗(注・ウニ)の実にアルコールを一合につき二勾、塩は一升につき二合五勺まぜ瓶の中に入れコルクの栓をなし蝋付にして密閉す、以前は焼酎につめていたが腐敗し易きため今日はアルコールを用ふるに至ったのである。(中略)

明治十六七年即ち本島火災後より販売に努力したけれどその価格は一升拾五銭より武拾銭位にて販路はわずかに下関、小倉、博多位にすぎなかったらもこれ皆島の人が行商に出掛けたものである。次いで明治二十三年頃に至り行商は九州、山口、広島方面へ出かけ此の頃漸く一升二十銭から二十五銭位に販売せらる」に至った。

かくて年を追ふにつれて一般世人に知られ販路は拡張せられ需要増加したれば行商をやめ市内の尼安、和田諸店を特約店とし一升の相場四円乃至六円。(二三年前) 今年は下ったが尚且三円七十五銭するに至った。市内尼安商店にては大中小の三種の瓶に分け大瓶一円二十銭中瓶八十銭小瓶五十五銭にて販売してゐる。

而して雲丹は下関名産として各地に卸され特に阪神東京方面に至り非常に好評を博してゐる。その包装は木箱にしてその中に大瓶五打、中瓶七打、小瓶はポール箱にてつくみ木箱に入れて此れを汽車便にて輸送す。

最近三ヶ年に於ける島の雲丹収入高を揚ぐれば
大正十三年度 四、九八四円(相場百目七十五銭)
大正十四年度五、七六〇円(相場百目八十銭)
大正十五年度六、一三〇円(相場百目八十銭)
斯くの如く需要大となり、事業の盛況を見ると共に斯業の前途に一沫の暗雲ただよふに至った。

即多年の採集の為めの海栗の繁殖頓に減退し茲六七年間の六連島の海岸の採集の模様を見るに年々減少を示しつくある。茲に於て六連島漁業組合は之を救済せんとして再三再四試験の結果海岸各所に沈石して以って海栗の繁殖を計らんとしつつある。

以上が、当時五年生だった林勝登氏の研究である。

(うにの文化誌 藤野幸平)


『下関うにの由緒』4

これと共に同誌第五輯(昭和七年刊)に五年生三輪秀夫氏の『下関雲丹』の一文がのっている(同誌-3頁)。

その要点を次に記してみよう。

ウニの動物学的定義とも言えべきものを調べて見ると次の如きものである。
一、外形(略)
二、水脈管(略)
ウニと言ふ字を漢字で書くと、海栗、海膽。雲丹は海栗より製した製品に用ひらる。

種類

海栗の種類(主なもの)
一、ムラサキウニ(別名ガゼ又はムラサキガゼ)、本邦沿岸に産す。棘長く赤紫色である。
二、バフンウニ(別名コマノコウニ)、本邦沿岸に産す。棘短く緑色である。この卵巣は食用として最上である。 (注・精巣もあり、良い)
三、赤ウニ赤色のものをいう。
四、コシダカウニ 壹岐付近に産す。
五、ガンガゼ 暗赤色のもので、棘は有毒である。温海に産す。
六、フトザオウニ 小笠原、琉球に産す。
右の六種のうち、下関うにの最も普通の原料となるものは、一と二である。

雲丹の種類
一、長崎どろうに
二、越前絹ごしうに
三、下関うに甘口で、同種類のものに丹後、壱岐のものがある。
四、北海道、練うに、価格安くして一般向。

採取(下関うにの場合)

イ採取地
豊浦郡、大津郡、阿武郡の沿岸並その付近の島(注・北浦一帯)、並に福岡県の一部

口採取法
別にこれと言ふ科学的採取法はなく、漁師が岩や石等の間にある(注・生息する)海栗を手又は釣(注・鉤)様の道具で採取する。

ハ 採取時期
海栗に卵巣のあるのは四、五、六、七、八の五ケ月でこの五ヶ月が採取時期である。

買入法

製造業者は直接漁師より海栗の卵巣を買入れるのであって、単位は卵巣百匁に付幾何にと値をきめる。
普通一貫目の海栗から三百匁乃至五百匁の卵巣が得られる。(注、十貫の誤り?)

製法

採取せられた海栗は漁師によって割られ卵巣をとり出され塩蔵の場合は卵巣一貫目に付き約二合の塩が加へられる。これが普通「下関の甘口うに」として賞味されてゐるものである。(塩多きもの辛口も製す)アルコール蔵の場合は初め極く僅の塩を加へ、後アルコールを入れる。阿武郡、大津郡等の遠隔地では、漁師はアルコール蔵塩蔵にする為めの塩、アルコール等は自費である。即ち一切の製造工程は漁師によってなされ、下関の製造業はただ精製された品を買ふのみである。豊浦郡の一部(六連島等)では塩、アルコール等は下関の雲丹製造業より配給されてゐる。

製產額

大正五年当時、約五万円に過ぎざりしが営業者の努力により逐年増加し最近では次の如き数字を示すに至った。

年、 生產高(单位貫)    生產額
昭和四年 一九、五〇〇貫 一五六、〇〇〇円
昭和五年 二、四〇〇貫  一五九、〇〇〇円
本製造業者 開業年 商号商店主名
明治二十四年 尼安 百合本安太郎
明治二十八年 和田又 和田七郎
明治三十一年 兒島吉三郎
大正二年 川口屋 川田省次郎
不明 関谷弥四郎

贩路

沿革
雲丹は以前はただ海辺の漁師が自家用として賞味して居ったに過ぎなかったが今より四十余年前之に着目した先代の尼安商店主により初めて世に公に売出された。

販流低格
一円売、七十錢売、五十錢売の三種

販路
大部分は土産品用として市内で販売される。尚主な輸送先は青島、台湾、大連、阪神デパート等で、これ等の主な土地に行くのは総べて瓶詰の雲丹である。

下関雲丹の特長

主な特長は次の如きものである。

一、甘口
二、品質良好
三、美味、製造技術の優秀なこと
四、滋養豊富、栄養価値の玉子に優ることは確かである。

副産物
卵巣を取り去った海栗の殻は之を肥料に供す。

加工
雲丹を他の食品に混ぜて種々のものが作られている。雲丹菓子、雲丹焼、乾雲丹、雲丹あられ等

この外うにの卵巣は料理店等で生(ナマ)のまま賞用されている。

結語

未だ雲丹の嫌ひな者は多い。これが大部分土産品として用ひられる下関雲丹の欠点である。(中略)大抵の人の好むようなものへと雲丹のすべてを改良して行く事こそ斯業発展の第一歩ではあるまいか。(中略)  原始的な感じの残っている雲丹営業には未だ未だ改良の余地あるものと愚考す。新しい天地の開拓と斯業の益々発展せんことを祈りつつペンを摑く。終りに御親切に御指導下さった下関商工商議所、川口屋店主、尼安店主に満腔の謝意を捧ぐ。

(うにの文化誌 藤野幸平)


『下関うにの由緒』5

次に、昭和九年に刊行された、同誌第七輯(ィー四頁)の四年生加藤源一氏の『北浦特産の雲丹製造に就て』を記してみよう。既述の二氏のものは、六連島を中心としたものであるが、これは北浦のうにを加工したもの(神玉村矢玉浦、納商店のもの)である。

「緒言」で筆者は神玉村納商店では、五十年前から雲丹製造をしている、と記述している。昭和九年から逆算すると、創業は明治十八年という計算になる。これは北浦地方で、うにの採取がその頃すでに行われていたということなる。

昨今(昭和九年頃)は、そのすぐれた風味、栄養価値が次第に一般に知られるようになってきたという。「採取、製造工程」として、筆者は次の様な工程図を描いている。

その簡単な説明として次のことを挙げている。

北浦方面にては、ウニの生殖巣の充実する四月頃より七月上旬までが採取期間である。漁村男女の副業で、沿岸より水深五、六尺(注、一メートルは約三・三尺)のところで採る。殻を翌朝二つ割となし小さいさじで中味をとり出し、海水で洗い生殖巣(身=実)をとる。普通一人一日の水揚高は、最高三百匁、少きは五十匁(注、一匁=三、七五グラム)

ウニの種類は、ウマノ子(バフンウニ) 身の色は山吹色で、味、風味共に上品。オニガゼ(形バフンウニより大、色は漆黒。身の色は黄、味もバフンウニより幾分劣る。価格も約半額なり。

値段及び製造業者は、神玉村にては矢玉浦に納庄蔵商店。和久浦にては西尾喜久蔵商店、中島猛商店。取引価格は年初、三者による競争入札であるが、多くは協議により決定する。毎年莫大の差はないが一銭より三、四銭ぐらいの開きはある。

本年の取引価格は、ウマノコ百匁につき四十三銭、オニガゼ二十二銭であった。これは採取者(漁師)への支払いだが、製造三業者は別に、その金額の一割を土地の漁業組合へ税として納入する。

瓶詰するまでの(塩蔵操作)時間は、十時間から十五時間を要す。なお長期間貯蔵するものは、アルコールを加える。食塩も焼塩あり二等塩もある。調味料は各製造業者の企業秘密である。

入味(身)は、正味百匁、八十匁入、四十匁入、それにパラフィンで密栓し、レッテルを貼り、化粧箱に入れて販売する。価格は一円、八十銭、四十銭で小売する。大衆向の品はオニガゼ(安価品)あるいは朝鮮ウニ等の安いものを混入して、原価の低下を計っている(納商店にては、大衆向は製造せず)

雲丹の販路は、下関市を中心として、京阪神、東京、台湾、朝鮮、満洲方面へ及ぶ。今後満洲方面にてはますます販路を開拓の予定。最近大連博覧会に出品して各方面の品より一頭抜出て好評を博せり。

尚、近くの海岸部落の水揚高は次のようである。神玉村矢玉浦は九百円位、和久浦は一千円位。神田村〜特牛浦、肥中浦、島戸浦で計二千円位。角島村一万円位。粟野村二千円位。

雲丹は日本全国海岸地方にて広く製造販売せらるれども、山口県産のもの力も好評を博するが如し。之は製造業者の言によれば一年子の風味、色沢最も上等にして、老齢のものは苦味辛味等を感ずる。また潮流関係にて自然的に味の劣るものである。

かくの如く雲丹は山口県特産物として、更に研究製造せば一層有望商品として広く販路を有するに至るであろう。

(うにの文化誌 藤野幸平)


『下関うにの由緒』6

以上の三編は、下関市と豊浦郡との加工雲丹の由緒についての貴重な資料である。どれも当時の下関市立商業学校生徒が、熱心な研究を実地になし関係商店に赴き(商工会議所へも)調査報告の形式でまとめている。これは時の指導者上田強氏の偉大な識見によってバックアップされていた証左でもある。

同氏には多数の論著があり、筆者も何度か野球に関することで終戦後お会いした。ちなみに同校図書館はまた多数の蔵書を誇るものであるが、上田氏が名校長として在職中に若鶴勉氏を専任司書としてその敏腕を振わしめられたことは知る人ぞ知るものである。若鶴氏は筆者の渡満の時の向山小学校長たりし人で、下商図書館の現在を実現させた陰の功労者であるといわねばならない。

なお『しものせきなつかしの写真集』(下関市史別巻・平成七年刊)に尼安本店・児島商店ともに、ウニの製造販売をしていたと掲載されている。特に後者の説明には、明治四十二年に米国で開催された世界大博覧会に出品して賞を受け、宮内省のお買上げとなった。以後、ウニの輸出に貢献した。とも書き添えてある。

(うにの文化誌 藤野幸平)



(彦島のけしきより)