長関街道
だんの浦長府間は、今でこそ電車が走り五〇キロ以上のスピードで自動車がすっとんでいるが、大正十年前後までは、巾四メートル位の海岸ぞいのデコボコ道だった。山からは大きな松の枝がのぞき、海峡の潮が足もとを洗う個所すらあった。
電車が開通する前の数年間は、後藤タクシーがタクシーを改造したような六人乗位の乗合バスを運行していたが、それまでの数年、この道を乗合馬車が走っていた。向き合せに八人位は乗れたろうか、ぎよ者台の横に積まれた馬のかいば桶が何とはなしにわびしかった。
だんの浦を出て前田村を通り豊浦郡長府町の二の宮前まで、一日三往復か五往復位だったろう、今のとうふ屋が使うようなラッパを鳴らしてパカパカと走った乗合馬車、あれから五十年近い今、ちっと目をつむって思う時、なつかしさというよりも、あのころの世の中が今よりずっとよかったように思われてしかたがない。(粟屋)
壇之浦
赤間関の東端、源平の合戦や幕末の外艦砲撃の舞台として、わが国の歴史の一頁を飾る由緒の場所である。もともと漁家が二、三十軒あったが、幕末、台場築造の時、それらの人々を阿弥陀寺のはずれに移住させた。現在は壇之浦とみもすそ川の二つの地名に分かれてしまった。
この街道は、一方は海に臨み、美しい松並木の間に九州の山々を指呼の間に眺める、楽しい道であり、みもすそ川附近には茶店もあった。
明治年間には、この道路下は団竹が茂り、細いうねうねとしたものであったが、その後松はすっかり切りはらわれ、道路は拡げられ、国道9号線として車がひしめいている。
街道の中ほど甲(かぶと)山の麓に、立石稲荷がある。ここに「平家千人塚」また前の海岸に大きい岩があるが、これは毎年旧の元旦に行われる「メカリ神事」の時、神官が烏帽子をおく所と云われ「えぼし岩」の名がついている。(阿月)
(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)
参考
① 壇ノ浦漁港と御裳川(参考)
② 下関導燈(参考)
③ みもすそ川(参考)