壇ノ浦町の漁港は元々は関門国道トンネルの人道入口のある御裳川にあったのが、砲台建設で移転させられたようだ。
現在の壇ノ浦町の漁港も平家の落人の漁師が住んでいそうで趣がある。この漁港と漁師の家々の西隣の阿弥陀寺町は真新しいマンションや料亭やホテルとなっているが、かつては魚屋や料理屋や船宿の町であった(参考)。幕末までは長府藩の米倉もあった(参考)。ここには昔ながらの船着場の階段と灯籠が遺っている。
参考
② 壇ノ浦町あたり
阿弥陀寺町(壇ノ浦町の漁港の西隣)、魚屋の町として発展、幕末までは長府藩の米倉もあった。
壇之浦海沿いに家ができた当初、地区が狭いため、家はできても間口は1間半(1.7m)、奥行四、五間(約8m)というのが多かった。
そもそもこの家の建設は、明治初年に砲台ができることになって、今の御裳川橋あたりにあった二十戸ばかりの漁師部落が移転に迫られ、壇之浦の海岸を整備、ここに新しく建てようということになったもの。
とにかく家が狭くて困る。そこで、裏の海面に二m足らずほどの掛け出しをしてほしいと県に請願、その許可を得た。これで漁具や洗濯の干場もできたのだが、実は当時でも海面使用料というのがあった。もっとも、年間十銭と、破格の安さではあったのだが…。こうしたいきさつから、壇之浦海側の家は独特の構造をもっており、階下から直接船に乗り込んで海峡の漁に出られるようになっている。
家と海峡が完全に共存しているといった感じなのである。壇之浦が漁師部落として誕生したのに対し、阿弥陀寺町は魚屋の町として発展してきた。
魚問屋が軒を並べ、セリ市場もいくつかあった。ここに集まってくる魚は、地元の壇之浦をはじめ伊崎、竹崎、安岡、吉見、遠くは仙崎、そして対岸の田野浦や豊後の姫島などからも盛んに運び込まれたものだという。
阿弥陀寺町でもう一つ特筆すべきは料理屋の多かったことだろう。眺めの良さ、ピチピチした魚が食べられるといった好条件によるもので、春帆楼などは別格としても、傘福、大吉、常六といった魚屋は次々に料理屋兼宿屋業に乗出していったのである。
高杉晋作をはじめ、伊藤、山県、井上、桂といった維新の志士たちもここの座敷で杯を傾け、夜ともなれば稲荷町、裏町に遊んだといわれている。
唐戸湾が埋立てられ、遠洋漁業が発達するに従って、町の魚市も次第にさびれたものの、昭和七年に海岸が埋立てられて電車が走るようになってからは、海沿いの料理屋はすべて岸壁に新築し、新開業もあって料理屋は二十軒近くにものぼった。
しかし、戦火は町の守り神だった鎮守八幡宮をはじめ、この町をことごとく焼いてしまった。
戦後、岡崎、中島などが十年くらいの間にできたが、かつての繁栄を町全体として取り戻すには戦火のダメージはあまりにも大き過ぎた。だが、往時のこの町の良さだけは今も十分に残されている。
司馬遼太郎は「歴史を紀行する」のなかで、阿弥陀寺町の料亭での感想を次のように紹介している。
…「宿の裏はそのまま壇ノ浦の海になっている。部屋の外にくろぐろとした潮が巻き、底鳴りしつつ走り、その最急のときのすさまじさはながめているだけで、当方の息づかいがあやしくなるほどである。(中略) 手入れ要らずの庭です。と、家つきのおかみさんがいう。庭とは、むろん海峡をさしている。まったくこれほどの庭はないであろう。このせまい水路をきれめなく往来する船々の袅や形を眺めているだけで、いつのまにか日を暮れさせてしまい、下関での心づもりの場所をみる時間を失った」 座敷のてすりにもたれたまま硯海に釣り糸をたれて楽しむ…
こんなふんい気だけは、今もこの町に生き続けている。
(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)