下関市立歴史博物館常設展示図録より、長府毛利家遺物 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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29 △寮の馬具

天正 18年(1590)、毛利秀元が元服した際に、後陽成天皇から下賜されたもの。この時、天皇家の御紋である菊と桐の紋の使用を許されることとなった。長府藩主が参内する際には、この馬具が用いられた。


30△豊臣秀吉朱印状 長府毛利家文書

毛利秀元は、文禄の役で初陣を果たし、続く慶長の役でも毛利軍総大将として出陣した。本書状は、慶長2年(1597)、豊臣秀吉が釜山に上陸した秀元に対して進軍を命じたもの。


31 △毛利秀元書状(遺言状) 長府毛利家文書

毛利秀元が死の前日に自らの後継者である毛利光広らに対して認めた遺言状。光広の家督相続と三男毛利元知への分知などを指示している。花押が乱れており、秀元が最後の力を振り絞って記したものと考えられる。二男光広·三男元知とともに宛名に加えられている稲葉美濃守(正則)は、秀元の娘婿であり、秀元が最も信頼し期待を寄せた幕閣である。


32 △毛利綱元画像

3代藩主毛利綱元は、4歳で家督を相続し、60歳で死去するまで57年間にわたって藩政に関わった(いずれも数え年)。藩士から町人村人に至るまで領民全般の生活に関わる法令「天和法度」を定めたほか、覚苑寺を開いて黄檗宗の普及に力を注ぐなど学問や文芸においても功績を遺した。


33 △毛利匡広画像

清末藩初代藩主毛利元知の二男として生まれた毛利元平は、父の跡をついで2代清末藩主となった。しかし、長府藩の断絶を受けてこれを再興して長府藩6代藩主となり、名を匡広と改めた。


34 △毛利元運画像

12代藩主毛利元運は、天保12年(1841)に文人大名として名を馳せた毛利元義の隠居にともなって家督を相続した。衣食住にわたって徹底した質素倹約を奨励する一方で、元義が復活させた他国遊学者への経済支援を推し進め、人材育成に力を入れた。なお、元運の二女銀子(安子)は、萩藩14代藩主毛利元徳の正室となっている。


35 △毛利元周画像

13代藩主毛利元周は元来病弱だったが、萩藩内戦の際には、事態の収拾に奔走。病をおして萩城に赴き、防長二州が一丸となるよう萩藩主毛利敬親に説いた。


36 △毛利元敏画像

14代藩主毛利元敏は、廃藩置県を受けて東京に移住、その後イギリス留学を経て長府に帰る。気象観測を趣味とした元敏は、長府毛利邸内に測候所を設け、日々の天気を記録した。


(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)