太宰治の禅林寺 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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かつて、大学3年生の時、夏季の学生実習で横河電機に行った。宿泊には三鷹市下連雀の独身寮を利用させていただいた。

この寮と三鷹駅の北口にあった横河電機の本社を一週間に渡り往復した。この往復路に水谷豊(同い年)の卒業した大成高校の校舎とグラウンドの存在は気が付いたが、文学的興味の無かった当時、太宰治の墓所のある禅林寺なんて知る由もなかった。

大体、太宰治はあの水の無い玉川上水に彼女と一緒に飛び込むなんて馬鹿だなあ!くらいの認識しかなかったのが残念である。

禅林寺

太宰治の墓所

赤四角: 太宰治の墓所、三鷹市下連雀4丁目18−20 霊泉山 禅林寺
赤丸: 太宰治文学サロン


参考

① 【東京】<東京人>没後70年 太宰治 創作の地・三鷹で「桜桃忌」

東京新聞(2018.6.17、参考)

禅林寺にある太宰治の墓。いつも新しい花が手向けられている=三鷹市で

六月十九日は「桜桃忌(おうとうき)」。ちょうど七十年前の一九四八年のこの日、愛人・山崎富栄と玉川上水に入水した太宰の遺体が発見されました。三鷹・禅林寺にある墓は、今年も多くのファンと花で埋めつくされるでしょう。

東京帝国大学に合格した太宰は、一九三〇年秋に故郷の青森県津軽より上京して来ます。最初の下宿は、現在の高田馬場駅の近くにありましたが、以後、ひんぱんに転居をくり返します。青森時代より左翼運動に身を投じ、東京での下宿が共産党シンパ活動のアジトに使われたため、官憲につけ狙われたのです。

「東京八景」は、そんな落ちつかない放浪生活を、印象的な八つの景色で回想する作品です。戸塚、神田、柏木、八丁堀等々と続き、最後に置かれたのが「武蔵野の夕陽(ゆうひ)」でした。一九三九年、三鷹の新築まもない借家に妻・美知子と居を構えます。昭和初期の三鷹は東京市外で、まだ畑と雑木林の広がる田舎のような町でした。ここから太宰の生活も創作活動も本格化します。

駅前の飲み屋へ通い、隣町の吉祥寺まで散歩をし、知り合いの料理店の二階を仕事場として借りる日々。「走れメロス」「パンドラの匣」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」など、多くの代表作が三鷹時代に生まれています。

三鷹には現在、「太宰治文学サロン」、古本カフェ「フォスフォレッセンス」など、太宰愛を満喫できるスポットがあります。三鷹を歩くことが太宰と歩くことになるのです。 (岡崎武志) 

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「都市を味わい、都市を批評し、都市を創る」をキャッチコピーに掲げる月刊誌「東京人」の編集部が、7月号の記事をもとに都内各地の情報をお届けします。問い合わせは、「東京人」編集部=電03(3237)1790(平日)=へ。


② <あのころ>桜桃忌 太宰治の遺体発見

共同通信(2018.6.19、参考)


1948(昭和23年)6月19日、6日前に愛人と入水自殺した作家・太宰治(38)の遺体が東京・玉川上水で見つかった。新聞小説「グッド・バイ」が未完のまま遺作となった。この日は太宰の誕生日でもあり、直前に書き上げた短編名にちなんで桜桃忌と呼ばれ、東京都三鷹市の墓には毎年ファンが訪れる。