紫川の牡蠣船と釣具のポイント | 日本の歴史と日本人のルーツ

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牡蠣船(屋形船) 小倉今昔写真館 その68

小倉の昭和30年〜50年代。紫川マイタウンマイリバー構想が始まる平成2年まで、河口から神嶽川旦過市場付近まで、数カ所存在した記憶があります。

写真は京町銀天街 現常盤橋周辺の牡蠣船。近くには「釣具のポイント」の発祥店などのお店が有りました。



参考

① 牡蠣船の位置

1975年(昭和50年) 勝山橋(下)と常盤橋(上)あたり  赤矢印: 牡蠣船


② 釣具のポイント(タカミヤHP)、、、常盤橋際の広告塔の近くか!?


戦後、日本国有鉄道小倉工場に勤務していた先代は、小倉市の常盤橋々上でひしめき合う釣り人を目の当たりにしたことから「これからはレクリエーション時代になる。中でも、釣りは日本人にとってかけがえのない趣味になる。釣具店を開業しよう」とひらめきました。

そして橋の際に1.5坪の2階付の店舗をみつけ、昭和24年10月に開店。同25年、当時羨望の的であった国鉄を辞めるほどまでに強い熱意を持って本格的に釣具の小売販売業としての第一歩を踏み出しました。

当時の釣具店は11月から3月までは殆んど休業状態で、半年商売と言われていました。しかし、生活を賭けた先代は、一人も来客のない寒い冬の日も、元旦すら一日も休むことなく営業しました。そして、時折買って頂くお客様には、心からの感謝を込めて後ろ姿が見えなくなるまで手を合わせ拝む日が続きました。


③ 勝山橋と常盤橋(参考)

④ 常盤橋(参考)と広告塔



広告塔は、明治23年頃、長崎街道の東の起点である常盤橋の袂に建てられた。 森鴎外の小説「獨身」において広告塔は、西洋から直接小倉に伝わった 「東京にないもの」のひとつとして挙げられ、 「常盤橋の袂に圓い柱がたってゐる。これに廣告を貼り付けるのである。」と書かれている。

茶の看板は、辻利の九州支店。大正時代、私(辻利之)の祖父祖母が京都宇治から、九州支店設営に小倉を選んだ。博多ではなく小倉を。常盤橋界隈は、長崎街道 唐津街道 中津街道等の五街道の結節点。溢れんばかりの小倉市民やその温かい人情に、祖父祖母は京都には戻らず、小倉を一生の地と決めたと父から聞いた。(小倉今昔写真館  辻 利之)

⑤ 昭和30年代の紫川周辺

常盤橋のたもとに牡蠣船が係留されている。

小倉警察署 水道局 小倉市役所(後の小倉北区役所)。小倉駅がまだ室町(現ヤマダ電機)に有る時代ですので、昭和30年前後だと思います。

私見で恐縮ですが、この写真から見えるのは、戦後から昭和30年代は、魚町〜旦過の南北の現目抜き通りより、京町〜室町〜大門の東西の道の方が賑わい、人が多く行き交っていた様に思います。昭和34年に小倉駅が現場所に移設された後、魚町や平和通り 旦過市場が栄え、室町界隈が静かになっていった、そう感じました。

(by 小倉今昔写真館と北村嘉玲氏)