勝山橋と常盤橋、北九州市小倉北区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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勝山橋の崩壊(大正9年)

大正九年八月一七日、暴風雨のために、橋が真ん中から崩壊してしまった。これはその時の貴重な写真。長沢信治氏撮影。


勝山橋

大阪町側から室町方面を写したもので、やや上流側になっている。他のものと合せて、橋上の様子が判然とする。真ん中の電柱は現在は取り除かれている。


勝山橋

これは橋の真ん中を写したもので、右端に勝山橋の字が判然と読みとれるところに注目願いたい。大阪町から室町方面を望んだもの。


勝山橋

勝山橋の創建ごろのもの、木造のものである。向うに見える建物は、勝山閣で、将校の集会所のような役割りをしていたという。


勝山橋のイルミネーション(明治44年)

明治四四年九月の九軌電車開通を祝って、勝山橋にイルミネーションを施したものである。市民の目をひいて大いに注目をあびた。川の水に映る光景は素晴しかったという。


紫川 右端に勝山橋

大正中期ごろの紫川右岸、大正町側である。ここでは木材の集積が行われていた。

(明治大正昭和「小倉」より)(彦島のけしきより)


勝山橋(昭和14年)

1911(明治44)年に九州電気軌道(現在の西鉄)の路面電車が開通した当時の勝山橋は木造で、同年9月の開通記念花電車が運行された際にはイルミネーションが点灯されました。 勝山橋は常盤橋とともに、京町・魚町地区と室町地区という旧小倉市の東西市街地を結ぶ橋梁であり、1931(昭和6)年には路面電車の増便などの理由から石造に改築されました。 

この写真絵ハガキは1939(昭和14)年に発行されたもので白黒フィルムの写真に後から色付け加工をしています。また、終戦まで北九州旧五市と下関市(旧市内)は要塞地帯に指定されていたため、このような写真絵ハガキや地図などを発行するには下関要塞司令部の検査と許可が必要でした。

(菊池満、参考)


常盤橋

大正初年ごろのもの。左側の円塔は、小倉名物の広告塔である。森鴨外の小説「燭身』に出てくるもので、明治二三年ごろ建造されたもの。明治の終りから下部がトイレになったが、その悪臭が嫌われて、大正の初めごろ、姿を消してしまった。この写真は全体像が判然としている。

(明治大正昭和「小倉」より)(彦島のけしきより)


参考

現在の勝山橋と常盤橋