北浦海岸地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

安岡地区


旧市内地区


彦島地区


中山忠光卿の墓

夏には数万人の人出でにぎわった綾羅木海水浴場は、今は潮騒と松頼の音がさびしくひびいて、浜辺には人影もない。

この静かな松林の中に、悲劇の青年公家中山忠光を祀った社殿があり、境内の高台に「藤原忠光卿神霊」と刻んだ墓所があって、国の史跡に指定されているが知る人は少ない。

明治天皇の叔父にあたる尊い身の中山忠光卿が、いくら幕末の動乱期とはいえ、わずか二十歳の若さで暗殺されたことは、まことに痛ましいかぎりであり、暗殺の真相が謎に包まれているだけに、よけいに悲劇の深さを思うのである。

東京都からせっかく長州藩を頼ってこられたが、長州藩自体が正義派と俗論派との政権争いの激い時であったので、忠光卿を十分に保護することもむずかしく、そのため幕府の隠密や俗論党を避けて、延行(綾羅木)、安岡、宇賀、川棚、小串、湯玉、田耕と目まぐるしい逃避行を続けられ、一日たりとも安心して落着かれたことはなかったのである。

忠光報が暗殺されたのは元治元年(一八六四)十一月八日のことであり、それから一カ月もたたぬ十二月の十五日に、高杉晋作が挙兵していることを思うと残念でならず、悲劇の運命というほかはないのである。

しかしこうしたいたわしい境遇の中で、ただ一つだけ忠光朝の心をなぐさめるものがあった。それは侍女、恩地登美の愛である。忠光潮が暗殺されたとき登美は女の子を身ごもっていたが、その方がのちの嵯峨侯爵仲子夫人である。

「あなたのお父さまの墓のまわりでとったものです、どうかお納め下さいと松露をさしあげました。すばらしくおきれいだった仲子姫が、真白いハンカチをひろげてそれをお受けになった時、私の手にハラハラと涙を落されました。私はまだその時の涙の熱さをてのひらににぎりしめています」

これは仲子夫人が中山神社に立ち寄られた時の一老婆の話を、瀬戸口久子さんが「紙人形」に書かれた中の一節である。

仲子夫人の孫、愛新覚羅浩夫人は元満州国皇帝溥儀氏の実弟連傑氏の夫人であり、その長女慧生さんは、昭和三十二年に天城山心中事件で十九歳の生命を断つなどの悲劇も重なって、中山家にまつわる運命の悲劇が痛ましく思われてならない。


垢田海岸散歩道

下関は三方を海に囲まれているので、海を見たいと思えば、いつでも、いろいろな角度から容易に眺めることができるが、垢田の海は私の好きな海の一つである。それは市内の身近かな所にありながら、郊外のひなびた味わいをもっているからだ。

垢田のバス停から海岸へ向かう一本道を下っていくと、公会堂を過ぎるころから人家がとぎれて野菜畑が連なり、歩くに従ってパラバラとムラスズメが飛立ち、路傍の秋草が足にまつわって歓迎してくれる。

かなり歩いたなと思うころ、突然波のかおりがして、紺碧の海が目の前に開けてくる。しばらくはさわやかな潮風にうたれていると、汗も引き不思議と心が安まってくる。やはり海は、畑や田んぽの彼方にあるのがもっとも海らしくて、自然の魅力を感じる。

付近の岩礁にはエビス様が祀られ、以前は密航船の監視所もあったが今はなく、たった一軒の廃屋がわびしい。

海岸に出た右手の広場に「喜佐方丸遭難慰霊碑」があったが、今は左側の土手下に移されている。
これは明治四十二二年(一九〇九) 十一月二十九日に、大連から大豆を積んで帰航中の貨物船第二喜佐方丸(三、○○○t)が、折からの大しけに遭難い、藍島の近海で座礁し沈没、船長以下四十人の乗組員と乗客四十数人、計八十余人が遭難したのであるが、夜中の十一時ごろのことで、荒波にボートをおろし、垢田の海岸を目ざしてこぎはじめたが、垢田の沖合二マイル(約三·二キロ)のところで運悪くもボートがひっくり返り、翌日三十一人の死体が海岸へ打上げられたのである。

今は知る人もないこの慰霊碑は、今日も沖行く船の安全を祈るがごとく、じっと海を見守りたたずんでおり、碑の回りには亡くなった人びとの魂を慰めるように、うす紫の野菊が点々と咲いている。

そしていつの間にか、遊びに来た子どもたちの、底ぬけに明るいさけび声が、慰霊碑の感傷を打消すように、潮風の中に散っていった。


武久海水浴場

何年ぶりかで武久海水浴場を訪れ、あまりにも激しい変りかたに驚いた。白砂青松の地として、市民の憩いの場として親しまれていた昔の面影が、想像できないような荒れかたなのである。海岸への入口には当時の橋がかかっているが、以前の川はなく、代りによごれた溝が横たわり、それも埋立てられつつある。

その昔、この橋の前後にはたくさんの店が並んでにぎわっていた。行きには唐豆の袋を買い首にぶらさげて泳ぎ、いい加減海水にふやけたころ、熱い砂の上に寝そべって食べ、帰りには冷やしアメを飲むのがきまりであった。

聞けばなつかしいこの海の家も、今はたった一軒しか残っていないという。同伴した友の話では、橋を渡った右側にお稲荷さんがあり、海に入る前には必ず拝んで安全を祈ったとのことで、行ってみると、なるほど「正一位白菊稲荷大明神」という鳥居がぼつんと残っていた。

ところで肝心の松の木が一本もないのはわびしいかぎりである。子ども同士で泳ぎに行ったときは、休憩所を利用することはなく、脱いだシャッやズボンは、根上り松に引っかけたものである。

それからまた、大岩が小さくて近いことはどうだろう、子どもの時には大岩まで泳ぎつくのがたいへん骨だったし、誇りでもあった。名前のとおり大きな岩だったと記憶しているのだが。

さきほどの橋をくぐった川が、右に大きく迂回して海にそそぐあたりでは、イトウナギがたくさん泳いでいて、競ってすくい、アサリもとれたのであったが、今は楽世界も病院になり、付近には大きな養老院が建ち、さらに団地やアパートが連なって、急激に新しい町に変りつつある。

しかし海の水は思ったよりもきれいで、ゆったりと弧を描きながら押し寄せ なぎさの黒味がかった砂が、わずかに昔をしのばせてくれる。

大岩付近で二、三の釣人を見かけたが、とても釣れる様子はなく、いたずらに秋の入日のみがわびしく輝いて、武久海水浴場懐古の想いは、またいちだんと遠くへ去ってしまったのである。


こんぴら道

下関市内に現存している数少ない道しるべの中に、こんびら道を案内したものが二つある。

一つは新地妙蓮寺近くのビジネスホテルの前に「左こんびら 北うらへ」と彫った一·四メートルの御影石の道標で、戦災に遭ったのだろうか、三つに折れたのが継いであるのが痛ましく、それにしてもよく保存されている。以前は了円寺下あたりまで入江になっていて、舟で来た参詣者が、ここから厳島神社のそばを通り、了円寺の裏山を越え大坪に出たのである。

そして大坪の元踏切の手前に、写真のような「こんぴらみち」と刻まれた灯ろうを兼ねた道しるべがあり、寄進者の名前がたくさんかかれている。
右手の路地のような坂道をたどって行くと国道に出るが、向かい側の彦島有料道路の入口土手の上に参道が見える。

金びらさんは昔から普応寺と並んで建っており、はじめは山頂にあったのが、明治二十三年に要塞が置かれたため現在地に移された。社殿には、長府藩十一代藩主、毛利元義寄進による、特狩野察信の描いたみごとな絵馬が飾られている。

ところで金びら道の、道しるべが語るように、藩制時代には、北前船の乗組員や市内の参拝者でにぎわったに違いないが、金びらさんに関する記録がないのはどうしてだろうか、わずかに大正八年印刷の下関市街地図に 「金刀比羅神社」の名があるくらいである。

そういえばもともと「こんぴらさん」とは神様か仏様かよくわからないような気がするのでしらべてみると、金比羅とは焚語(仏教用語)で鰐(わに)の意で、仏教の守護神でインドにある霊鷲山(りょうじゅせん)の鬼神であり、魚身で蛇形をしておられ、尾には宝玉があるといわれている。しかし日本では大物主神と混合して金毘羅権現といい、海上の守護神として広く民間に信仰されているのである。

ともあれ昔は航海術も発達しておらず、天候や暗礁に悩まされたであろうか ら、金びらさんへの祈願切なるものがあったわけだが、現在でも海上交通が激しく、難所といわれる関門海峡の状況をみると、やはり下関の金びらさん に大活躍してもらわねばならないと思うのである。

高杉晋作と六連灯台

文久三年(一八六三)五月、尊王壌 夷の血気にはやる長州藩は、関門海峡通航のアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を矢つぎ早に打ち払い、束の間の凱歌をあげたが、翌六月には早くもアメリカ軍艦と フラン ス軍艦 により、強烈な報復の打撃を受けて顔色を失い、その結果、高杉晋作が起用されて奇兵隊を結成し、その後の防禦にそなえたが、外国の近代兵器の前にはいかんともしがたく、翌元治元年八月には、英、仏、米、蘭の四カ国連合艦隊により、壊滅的な損害を蒙り休戦となったのである。

ここで再び高杉晋作が登用され、講和談判の全権大使となったが、高杉は巧に交渉して難問の彦島租借を断固拒否し、また三百万ドルの賠償金支払いの義務を幕府に転嫁して、長州藩の安泰をはかったのである。この三百万ドルの賠債金について、最近ある資料から次のような結末を知り、まだ知られてない事実だけにたいへん興味をおぼえたのである。

それは、幕府としても三百万ドルの大金は即座 に支払えないので、年賦によることになったが、それでもなお負担が大きいので、とうとう四ヵ国は、賠償金の三分の二にあたる二百万がを放棄することになり、その代信として、外国よりも遅れているわが国の航路整備のため、灯台を設置するよう要求され、下関の六連灯台や門司部崎の灯台もその指示に従い、明治四年に英人の技師により建設されたのである。

馬関懐夷戦のため奇兵隊を組織し指揮した高杉晋作が、その講和談判にも大活躍し、その結果がまた地元六連島の灯台建設に糸を引いていることは不思議な因縁であり、いまさらながら、彼の遺した偉大な功績の重みを、ひしひしと題感じるのである。


竹の子島南風港

竹ノ子島は彦島西山の最西端にあって、昭和橋により陸続きとなっており、橋の下を透きとおった青さをたたえた川のような海峡が、今日もゆったりと流れている。島は昔、二つにわかれていて、北の方を鬼ヶ島と呼び、南の島を竹 ノ子島といったそうだが、鬼ヶ島は福浦と同じように海賊に関係があったようである。

竹ノ子島は小さな島であるが全体が美しい風光に恵まれ、馬関攘夷戦のとき築かれた台場跡には台場ヶ鼻通航潮流信号所が設けられ史跡をとどめている。

また橋の北側の入り海は南風泊(はいどまり)といって、北前船時代には南風をさける天然の避難港として利用され、赤馬関そして彦島最終の西端にある最後の港であったから、船人にとっては見おさめともなる場所であり、出帆の前夜は上陸して、美女を相手に一献交わし、別れを惜しんだのである。

それで全国的には竹ノ子島の名よりも、南風泊の名の方が有名になり、船宿は二十五軒もあったといわれ、持に遊女屋も六軒ばかりあって、船人たちの足をとどめ旅情を慰めたのである。今も格子窓の残った古い家が見られるのはその名残りで、往時の繁栄ぶりがしのばれる。

さて時代の波はこの本土の果てにもようしゃなく押し寄せ、海岸は次第に埋立てられ、昭和四十九年には日本一のフグ市場として、下関市地方卸売市場南風泊市場が誕生した。

近代的な市場に接岸する大型船を横目に見ながら、朝に夕に橋をくぐって出入する漁船の姿は、漁港にふさわしい活気と郷愁をともなった詩情豊かな風景で、いつまでも見あきない眺めである。


海の見える老の山公園

下関は明治二十年(一八八七)に要塞地帯として指定され て以来、市内高台にある見晴しのよい山や丘は、全部といっていいほど要塞のベールに包まれてしまい、終戦になるまで市民は近づくことができなかった。

戦後、都市の復興とともに、開放された山や丘が公園に転用されたことはたいへん嬉しいことであり、観光都市下関のイメージもいちだんと高くなったということができよう。

しかし世界の各国やわが国内でも、有名な港町にはそれぞれ立派な公園があるので、下関も高台の公園だけでなく、海峡の町にふさわしい埠頭公園や海浜公園の実現を心から願うものである。

さて戦後芽を吹いた公園の中に彦島老ノ山がある。老ノ山は昭和二十七年ごろから失対事業により公園化が進められ、昭和四十七年から本格的に公園施設が整備され、公園敷地は二十三万平方メートルといわれる広大なもので、市内では火の山公園に次ぐ広さを誇っており、付近には県立第一高等学校や勤労青少年ホームもあって、環境にも恵まれている。

老ノ山公園の展望台に立つと、関門海峡、小瀬戸、響灘と周囲の海がみな眺められ、紺碧の海に浮かぶ島々、そして白い航跡を引いて出入する数々の船がはるかな郷愁をよび、美しい風景となっている。

最近は公園の設備も大きく変わり、写真のように芝生の広場が見たくさん設けられて、レクリエーションやだんらんの場に利用できるよう配されている。

去る日曜日、午後の公園は、晩秋の日ざしを惜しむかのように、家族づれや子供会、そしてアベックも数組姿を見せ、大人も子供も喜業々 として運動や遊びに夢中になり、平和でなごやかなひとときであった。


山の神

山の神といえば下関には、国の重要民俗資料に指定された蓋井島の「山の神」の森があるが民俗学にいう山の神は、山を領する神として全国一般に信じられている。

そして農民のいう山の神は春に山から里に下りて田の神となり、秋の収穫がすむとまた山に帰って山の神となるので、稲荷信仰の神様と同一にされているところもある。

また、猟師、炭焼、木椎など山稼ぎをする人の信じる山の神は、田の神とは関係がないといわれ、神社の祭神としての山の神は大山祇命(おおやまづみのみこと)や木花開耶媛(このはなさくやひめ)である。

山の神の性格についてはいろいろな説があり、男神だという所と女神だとする所、さらに夫婦神として信仰する所もある。

男神を信じるのは猟師に多く武力によって神を助けた男神だと伝えられ、女神の信仰は安産の神様、子育ての神様としてあがめられている。

またおもしろいことに、山の神は非常に恐ろしい女神で機嫌をとるのがむずかしく、嫉妬深くて醜いなどと伝えられるところから、口うるさくな った妻のことを称して「山の神」というようになった。

山の神は醜い魚のオコゼが大好物だといわれ、供物によく使われるらしいが、それは嫉妬深い性格のため、醜いオコゼを見て自分の醜さを慰めるのであろうと推察され、鬼のように恐ろしい神様にもしおらしさが感じられるので、私は、やはり女神だと思う。

彦島老の山にある山神は、頂上の駐車場から少し下った真浄寺の入口にあって、自然石に「山神」と彫られているが、安産、育児の神様として祭られているのではないかと思われる。

小さな木の鳥居が一本ぼつんと奉納されているが人影はなく、陽が傾いた笹やぶから聞こえてくるミソサザイの鳴き声が、ますますあたりの静けさを深めており、しのびよるたそがれの冷気にうながされて下山した。


福浦のこんぴらさん

彦島の福浦湾に面した甲山(かぶとやま)の頂上に、こんびらさんがある。

このやしろは文政一二年(一八一六)に、福浦港の繁栄を計画した郡代、水野忠実の発案により建てられたが、彼は沖に北前船が碇泊するのをみつけると、こんびらの神官に出張を命じ、その船の海上安全を祈祷させたので、これが当たって評判になり、次第に寄港する船がふえてきて、全盛時代には十五軒もの遊女屋が二五〇人の女郎を抱え、たいへん繁昌したということである。

また嘉永二年(一八四九)の七月には、藩から北浦、下関一帯の海防調査を命計じられた吉田松陰が、このこんぴらさんにも登ってきており、小田圭の碑文があること、台場の未完成のことや、設置されている灯明台の油はどうしてまかなっているのかなどに触れ、さらに参道の石段がまだ工事中で一六〇段しかない、完成すれば二〇〇段くらいになるだろう。

段の高さから算出すると 一四丈(四二·四m)の高さになるなど、当時のくわしい手記を残している。
ところでこの石段は五○度の急勾配で、まるで石のはしごを立てたようであり、はじめて登る人は目がくらみ、下を見るとおそろしくて足がふるえるほどである。

冨田義弘氏の書かれた彦島の民話の中に、こんびらぎつねの話があり、参拝人がこの石段の数を一生けんめい数えるが、どうしても上りと下りの数が合わない。

それは八合目にある脇道までくると、必ず何かが起こって数を間違えるものだ、つまり、こんぴらぎつねにばかされるのである、とあるが、なるほど石段の両側はうっそうたる木立が暗いまでに茂り、途中にはきつねが出てきそうな脇道まである。

あえぎながら登った頂上からの眺めはすばらしく、その様子は富観台に刻まれた小田圭の文章が雄弁に物語っている。

すでに薄暗くなった石段を用心しながら降りてくると、石段にぬかずき 一心に祈っている一人の老婆の姿があったが、次第に迫ってくる夕闇のなかにとけこんでいく老婆のほの白いうしろ姿が妙に印象的で、いつまでも心に残るのであった。


水雷発射基地

瀬戸内海と日本海を結ぶ関門海峡に臨み、大陸との門戸として昔から交通の要衝にあった下関は、西日本の軍事基地としても重要な位置を占め、そのため軍当局から目をつけられたのは当然然のことであり、市制施行に先立つ二年前、つまり明治二十年(一八八七)に早くも要塞設置が決定され、明治二十五年ごろまでに千丈ヶ原(千畳ヶ原),椋野 ·金比羅山·火の山·老の山·霊鷲山に砲台が設置され、貴船町一帯には兵舎·倉庫,将校集会所が、上田中町から後田にかけて砲舎·弾薬庫·軍馬舎·大畠練兵場などがそれぞれ設置され、下関市は市制施行(当時は赤間関市)とともに軍事基地の格印を押され、苦難の道をたどることになったのである。

要塞の中でも火の山·金比羅山·老の山などの各砲台は、海峡を通ってくる敵艦に備えたものであるが、実は幕末の文久·元治(一八六三から一八六四)における馬関戦争のときにも外艦との交戦に備え、既に彦島の田ノ首 ·弟子待や細江·専念寺·亀山神社·壇ノ浦·前田など、海峡の要所々々に砲台が設置されたのであり、時代が違ってもやはり下関は、重要な役割を果たしてきたわけである。

要塞について年輩の人は記憶があると思われるが、彦島弟子待にある水雷発射基地を知っている人は少ない。これは日露戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊の襲来に備えて明治三十五年につくられたもので、明治四十二年の記録には「水雷撃設所」という名で載っている。

当時日本は、ロシアの強大なパルチック艦隊の動向が不明で不安に包まれていたが、東郷元帥の率いるわが海軍が、日本海海戦で奇蹟の大勝を博し、この水雷基地が不用になったのは好運であり幸いであったといわねばならない。

赤レンガづくりのトンネルから突き出た幅三メートル、長さ約五十メートルの水雷発射台となった突堤が海に向かって長くのび、その残骸を横たえているが、昔の夢は忘れ去られて、今では恰好の釣り場となっている。

突堤の上にはたくさんの大人や子どもが糸をたれてヒラ釣りに余念がなく、釣り人の背にあたたかい陽が降りそそぎ、青いきれいな波がひたひたと石垣を洗って走り、白い船が夢のように通り過ぎて行くなごやかな午後のひとときであった。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)