阿弥陀寺、引接寺、亀山八幡宮あたりのお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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赤間神宮と耳なし芳一

赤間神宮の宝物館裏に、平家七盛塚と並んで耳なし芳一の像が配られている。

「耳なし芳一の話」は平家七盛塚にまつわる伝説で、江戸時代の「御伽厚化粧」や「臥遊奇談」に書かれた短篇を、小泉八雲(ラフカディオ·ハーン)が 「怪談」の中の一つとして、長篇に書き改め紹介したもので、平家滅亡の悲話を主題とした下関の伝説を代表するものである。

小泉八雲は英国人でありながら、大の日本びいきで帰化したのであるが、日本の怪談が大好きで、古本屋をあさり「怪談の本は私の宝物です」と称していたほどで、この作品を執筆中には、夜あかりを消して、節子夫人と耳なし芳一の芝居をたびたびやり、書斎の裏の竹やぶで笹の葉ずれがサラサラ鳴ると「あれ、平家がほろびています」とか、風の音を聞いて「壇ノ浦の波の音です」とまじめに耳をすましていたといわれている。

ところで平家物語は、七、五調の文体で語り物として作られ、はじめは性仏(生仏)という盲目の琵琶法師が語り伝えたといわれているが、琵琶法師というのは、平安朝のころからいたといわれ、はじめて琵琶を弾奏したのは百人一首でも有名な盲目の歌人、輝丸であったという説がある。

平家物語がこの琵琶で語られる場合、平曲というのであるが、この哀史を語る法師はすべて失明した人たちの職業とされ、平曲をマスターするのもたいへんだったらしく、はじめ師が歌い、次に弟子が歌う。

三度目は師弟ともに歌い、四度目は弟子だけで歌うという指導方法により一小節ずつおぽえていき、四度目に弟子が歌えなかったら、もう教えてもらえなかったほど厳しいものだったという。

水野宮司の話によると、琵琶法師の名には必ず「一」とつけるのがならわし であり、芳一、妙一、鬼一などと呼び、琵琶がすたれるころから「一」が座頭市のように「市」に変じたという。
また下関は平家滅亡の地であり、九州渡海への溜り場であったので、全盛期には百数十人の琵琶法師たちがいたということである。


本陣伊藤邸跡

藩制時代の赤問関には在番役所が置かれて町政をとりしき ったが、現在市役所そばの消防署横にある「赤間関在番役所跡」の石碑が建っている場所がその跡地である。

この役所の長は在番とよばれたいへん権力を持っていたが、在番の下には民間から選ばれた大年寄がいて、町の行政担当責任者として町政を一 手に引受け執行した。

大年寄の中で特に有名なのが伊藤で、この伊藤家は奉行を勤めた家柄であり、代々有能な人材が輩出して町政にすぐれた手腕をふるった。

伊藤家は阿弥陀寺の下にあって本陣をつとめていたので、参動交代の大名の宿はもちろんのこと朝鮮使節やオランダカピタン一行も泊め、その接待も重要な役目の一つであった。

伊藤家の古い図面をみると来客専用の一棟は、部屋数が十三室で畳数が百十七畳あり、住家の棟は十八室で九十六畳ある。そのほか蔵が四つと馬屋、薪小屋があり、当時の広大な規模が想像できる。

これら賓客の接待をつとめた大年寄の伊藤杢之九盛永(もくのじょうもりなが)は、来客たちのもたらす学問、文化を理解吸収してその博識ぷりをうたわれたが、シーボルトが訪れたとき、オランダの名刺を出して会見し、歓迎会には真紅のビロードに金縁をとった上着、金糸の縫取りをしたチョッキ、短いズボンに絹の靴下、上靴をはき帽子をかかえ、カビタンの式杖となっている黄金のにぎりのついたステッキまでととのえ、オランダ船長の服装で迎えてオランダ人一行をあっと言わせたと伝えられ、そのことがシーボルトの江戸参府紀行にも記録されている。

伊藤家一族の墓は園田のやぷの中に訪れる人もなく静かに眠っており、春帆楼の崖下の荒地には「本陣伊藤邸跡」の碑が、雑草や捨石の間に空しく埋もれていてふり返る人もなく、その昔、赤間関の歴史が繰り広げられた大切な舞台をしのぶには、あまりにもわびしい姿である。


引接寺の龍

唐戸の赤間通りを東に突き当たった所に引接寺がある。

このお寺は、 明治二十八年(一八九五)三月、春帆楼で日清講和談判が開かれたとき、清国使節、李鴻章一行の宿会舎となったところである。

山門の天井に飾られたみごとな龍は、左甚五郎の作と伝えられているが、この龍について次のような伝説が残っている。

旧藩時代のこと、夜中に引接寺の石段下で、旅人が何者かに殺害され、それから何度となく同じ時間、同じ場所で入が殺された。

犯人がわからないため、町の人は鬼が出るといって恐れ騒いだが、旅の侍が待伏せて怪物に切りつけると、手ごたえがありものすごいうめき声をあげて逃げて行った。

夜が明けて血のしたたりをたどっていくと、お寺の山門の下で消えており、調べてみると、天井に彫り込んであった龍の胴体が真二つに割れていたので、夜ごとの犯人はこの龍であったことが判明したというのである。

また昔からこの龍は、のどがかわくと、よく水を飲みに出たともいわれている。

現在も二つになった胴を山門の天井に巻きつけ、きばをむき出し空をにらんでいるが、昭和二十年の戦災に遭ったとき、この山門と鐘楼だけが焼け残ったのは、やはり水神としてのこの立派な龍が、頑張っていたからであろうと思われる。

さてこの引接寺にまつわるもう一つの話がある。
慶長時代のこと、この寺に浄然という美男で気品の高い僧侶がいたが、赤間町の小間物商、京屋の娘おすみ(お杉ともいう)が、この僧侶にひかれて恋するようになり、長い恋文を書いて送ったが拒絶されたので、思いあまったお杉は、或夜、男装して塀を乗り越え浄然の部屋に侵入し、やっとのことでつのる想いを遂げたのである。

しかし二人の仲が評判になり世間に広がると、道ならぬ恋はけしからんとばかり、よこしまな町奉行のさしがねで、哀れにもとうとう二人は筋ヶ浜で処刑されたのである。

この物語が盆踊りのくどきになり「引接寺お杉」として全国に伝えられたのも、今は昔のことであるという。


亀山さん子持ち狛犬

亀山八幡宮の境内に巨大なこまいぬ(狛犬)が奉納されており、台座には文久元年(一八六一)十二月、発起人、黒崎屋善六と刻まれている。

こま犬は、どこの神社に参拝しても必ず見ることができ、古くから親しまれ、なじみになっているが、その由来についてはあまり 知られていない。しし(獅子)に似たこの奇妙なこま犬は、ししと高麗(こま)犬が混同されてつくられた架空の動物であり、中国文化の影響によって生じたもので、魔よけのために用いられ、昔は宮中の門扉、几帳(きちょう)、犀風(びょうぶ)などの動揺するのをとめるために使用されたものである。

お宮を守っている一対のこま犬は、寺院山門の仁王と同じように、必ず一つは口を開き一つは口を閉じている。これは、あうん(阿吽)の相とよばれ、口を開いた阿は生をあらわし、口を閉じた吽は死を意味しているといわれ、一対のへだたりが、生から死までの距離を表現しているのだと伝えられている。

さてこま犬にもいろいろ種類があると思われ、調査してみるとおもしろいのではあるまいか。伊崎の鈴ヶ森神社には玉に乗ったこま犬がいるが、亀山さんのこま犬も珍しい形で、子持ちのこま犬である。向かって左の犬は子犬を背中に一匹乗せ、胸に一匹抱いているので、母親であることがわかり、写真では見えぬが、右手の親犬はただ一匹で空をにらみ、口を開けているが、おそらく父親であろうと思われ、母犬と子犬を守っている。ように見える。

それにしても、お宮の入口で門番のようににらみをきかせているこま犬の姿 に、このような親子の情愛を刻んで表現したのは、うるわしいことであり、当時の人たちの暖たかい心情が、ほのぼのと伝わってくるのをおぼえるのである。


山陽道の碑

山陽という言葉は「日本書紀」に山の陽 (みなみ) および山陽 (かげとものみち)と記録され、古くから使われていたことがわかっている。

大宝元年(七○一)に制定されたわが国最初の法律「大宝律令」山陽道は、七道(東山、東海、北陸、山陰、山陽、南海、西海)の中の唯一の大路として挙げられている。そして山陽道とは、もともと播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門の八カ国を指し、地区割りの名称であったのが、のちになって一帯を貫く幹線道路の代名詞になったのである。

また鉄道の山陽本線は、神戸から門司までのことであるが、道路の山陽道は、大阪から下関までをいうのである。

ところで亀山八幡宮の大鳥居の下に「山陽道」の碑がある。高さ 一,二メートルの石碑に深く彫られた山陽道の字が、たいへん印象的であり象徴的で、この前に立つといろいろな思いがこみあげてくる。石碑は二つに継がれて痛ましいが、碑文によると、明治十一年(一八七八)九月、渡船場が新築された際に建てたとあり、建築掛山口県九等属、嶺村定一、石工福田市助、河村卯三郎の名が刻んである。

昔は亀山八幡宮の下は海で、石段下には波が打寄 せていたのであり、今のガソリンスタンドの所が突端になっていて堂崎と呼ばれ、渡し場があり船番所が置かれていた。門司や小倉へ渡るには役人の検査を受け、許可されなければ渡船できなかったし、許可なしにひそかに渡った者は打首というきびしい掟があった。

この山陽道の石碑も堂崎にあったことが推定され、明治十一年以前にも、同じような道標があったことが想像されるのであるが、このあたりの風景は、「筑紫道記」などにも描写され、また渡海については、司馬江漢の「西遊日記」や橘南渓の「西遊記」に、海峡を渡る困難な様子と、旅人の不安な心情がありありと描かれていて、よく当時の状況を伝えている。


アバタのお亀イチョウ

下関の氏神様である亀山八幡宮の大鳥居の下は、大正時代までは海であり、夏には子どもの海水浴場としてにぎわっていたが、大昔の源平合戦のころ(一 二八五)には亀山はまだ離れ小島であった。

この島と陸地の間を埋め立ててつなぎ、船場をつくるために、埋め立ての大工事がはじめられたが、名だたる早柄の急流のため作業は遅々として進まず難工事となった。

土木工事技術の幼稚な当時では、橋や堤など水利土木工事に障害があると、それは水神のたたりであると考え、水神をなぐさめ鎮めるために人身御供(ひとみごくう)として人柱を立てる習慣があり、このときも人柱が必要になったが、そうしたある日、工事役人のところへ、お亀という女性が人柱になることを申し出たのである。

お亀は稲荷町の遊女であったが、生まれつきみにくい顔立ちのうえ天然痘にかかり、顔中にアバタがあったので、お客からはきらわれ、また親兄弟もいない独り身であり、将来の希望もなかったので、人柱になって町の人たちのお役に立ちたいとけなげにも決心したのである。

そしてお亀は約東どおり海の底に沈んでしまったが、それを見た工事関係者お亀の尊い犠牲を無にするなとばかり一生けんめい工事に励んだので、さしもの難工事も完成したという。

人々はお亀女郎の功績を記念し霊をなぐさめるため、亀山八幡宮境内にイチョウの木を植えたところ、よく生育し、ぎんなんが実ったが、不思議なことにこのぎんなんの実には、アバタの模様が入っていたので、誰言うとなくお亀見の霊が乗り移ったのだとうわさし、それ以来天然痘が流行したときは、必ず亀山八幡宮に参り、病気のがれのお守りとして、ぎんなんの実を授かり持ち帰ったといわれている。

お亀イチョウは戦時中に空襲で焼けたけれども、焦げた親木から不死鳥のように二代目の若木が芽を吹き、今はたくましく生長して、再びアバタのぎんなんをつけ、あわれにも尊いお亀女郎の執念を伝えている。


遊女玉紫と亀山八幡宮

下関の稲荷町は遊女の里として全国的に有名であったが、当時公許の諸国遊女町は浅草吉原、京都島原、石見温泉津稲町、長門下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山町など全国で二十五ヵ所あったという。

下関稲荷町の遊女は他国の遊廓の女と異なり、特別に格式を持ち気位が高かったといわれ、このことは頼山陽や西鶴によって書かれている。

それは女郎と称し、客から受ける金を花代とよび、また他の娼婦には許されてないたびをはくことがみとめられ、客よりも上座にすわっていたといわれ、さらに芸技には特に秀でて教養もあり、しとやかで衣装が古式であり、芝居なども演じたといわれているが、このことは、女郎が平家官女の血をひくことを意味していると伝えられている。

稲荷町九軒の遊廓の中で、いちばん繁昌した大きな家は大坂屋(対帆楼、鎮海楼ともいう)であり、この大坂屋に玉紫という売れっ妓の女郎がいた。

玉紫はたいへん慈悲深い女で、いつも貧しいものにお金を恵んでやったので、彼女が死んだときには、大坂屋の格子先から小ぜにを紙に包んで、香典を投げこむ者が数しれず、たたみが真っ白になったといわれている。

亀山八幡宮の正面石段をのぼりきった左側に「大坂屋玉紫文化九壬申九月吉日」と刻まれた玉垣があり、信心深い玉紫が大金を寄進したことがわかる。

文化九年(一八一二)のこの古い玉垣をじっと見つめていると、人生の悲しい裏街道に生きた彼女が、はかない遊女のほこりとして寄進した、あわれな心根がしのばれて、墓標を見るよりも、もっと切実な憐慨の情がこみあげてくるのである。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)