高杉東行療養之地
山電バス高尾線の上条で下車し、鉄道線路に沿って、神田小学校への道をのぼって行くと、坂の途中、左側に「高杉東行療養之地」と書いた碑があり、近くの桜山招魂社や高杉東行終鳶之地と関連して、高杉晋作ゆかりの史跡であるのに、あまり知られてないのは残念である。
ここは慶応二年(一八六六)の夏、彼が小倉戦争の参謀として活躍中、病が重くなり、白石正一郎宅から療養のため移った家で、彼は東行庵また捫虱所 (もんしつしょ…しらみをつぶすという意)と名づけ、詩作しながら開病生活を続けた。
有名な次の詩は、このとき詠まれたものである。
暮朝欲払廟前紅
自塊残骸泣晩風
洛花斜日恨無窮
休怪移家華表下
(洛花斜日恨窮まり無し、自ら塊ず残骸晩風に泣く、怪しむを休めよ家を華表の下に移すを、暮朝払わんと欲す廟前の紅)
晋作は前年の八月、彼の提案で桜山招魂社を建てたが、そのときに「おくれてもおくれてもまた君たちに誓いしことをあに忘れめや」と詠んで、先に戦死した志士の霊にわびているが、この七言絶句の中にも、志士におくれをとり病気身となった不甲斐なさをなげき、恥じているのは、たいへんいたましい気がしてならない。
ところで、せっかくの療養のかいもなく、彼は翌慶応三年四月十四日、わずか二十九歳でいたましくも息を引きとったのである。命取りとなった病気は、肺結核であったと伝えられている。
写真の道は、その当時の桜山招魂社参道であり、詩の中の華表(鳥居)が近くに建っていたのである。
目をつぶってじっと耳をすますと、左手の塀の中から、高杉晋作の咳込む声がきこえてくるような、静かな午後のひとときであった。
(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)
参考
① 晋作の主治医について(参考)
② 療養中も小門の小瀬戸の風景を見に行っていた(参考)