望東尼と精一
野村望東尼の姫島救出に晋作主治医の石田精一が深く関わっていた。
望東尼の長男貞則の嫁たね子の手紙に、なんと驚きの事実が記されている。それは救出の意向が筑前の藤四郎より、まず精一に伝えられ、精一が高杉に進言して実行に移されたのであった。
さておのれたすけにこしゝことは,高杉ぬしに,藤が願を石田精一が聞えしに,もとより高杉ぬしは我山ざとに隠れすまれし昔のゆかりに,ことごとものせられてのはからひなりしよし,あまたのこ金をいれて,船よそひなりしぞかし
高杉晋作の治療に欧米人の医師が立ち会った!
望東尼の慶応 2 年 11 月 7 日付、長男貞則の嫁たね子への手紙に驚くべき史実が記されていた
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肺労と見ゆれば,石田もこまりたるさまになん、おのれも石田薬用にて大に安心いたし侍るぞかし、ちかごろはインキリス,アメリカの医者来りて高杉の容体も見たるよし、又小倉手おひのけが人の療治めずらしきこともするよしなり
晋作と石田の医者・患者の信頼とつきあい、英米人医師による高杉の診察のことを記していることは実に驚きである。
慶応3 年4 月14 日、高杉晋作は療養も空しく短い生涯を閉じました。
参考
① 高杉晋作の主治医 石田精一について ― 変革期草医の「雅」と「侠」― (参考)
亀田 一邦 九州国際大学付属高等学校
受付:平成20年12月5日/受理:平成21年7月31日
要旨:本論は幕末馬関の町医師石田精一に関する初の論考である.精一はもと厚狭郡埴生浦の医家であった.博多の百武万里に蘭方を学び,帰郷後は流行医となるが,嘉永以後,文雅者としての評価が高まり,安政初に下関へ移住,文久期には当地の文人交流史上に甚だ重要な位置を占めた.慶応期には伊崎の幽境小門へと居を移し,萩本藩の正義派諸士との交際も開始され,特に高杉晋作からは主治医兼詩友として厚遇された.また政治的行動も顕著となり,野村望東尼の姫島救出や萩藩の密鋳銭事業に深く関与していたことが判明した.
キーワード:石田精一,広瀬旭荘,高杉晋作,野村望東尼の救出支援,密鋳銭事業の画策
② 高杉晋作の小門独行(参考)
晋作の最晩年に書かれた『丁卯詩稿』(慶応3年)、亡くなる1、2 カ月ほど前に詠じた「小門の夕棹舎に游ぶ」と題する詩があります。
主治医 石田精一邸を晋作は重い病状のなか訪れています。小門独行の目的は、小瀬戸の景物を愛でつつ、談話を楽しむことだった。
石田邸の小門は、当時小瀬戸に面した伊崎浦奥に位置する下関有数の景勝地でした。