火の山、御裳裾川、壇之浦、阿弥陀寺地区のお話し | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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火の山

関門海峡を塞ぐかのようにどっかりと座りこんだ火の山は、下関のシンボルであり関守りのような存在である。

火の山の由来は「のろし」の火をあげていたことによるといわれ、そののろしは、めかり神事を京都の朝廷に知らせるため、また異敵の来襲を都に知らせるため、さらに、藩主や幕府の上使、そして朝鮮信使の発着を知らせるためなどの諸説があるが事実、九州から受けた知らせは山陰の日本海沿岸筋と山陽側の瀬戸内海岸筋によって連絡されたようで、山陽筋では下関「火の山」から厚狭「火の峯」小野田「番ヶ辻 (竜王山)」宇部「岬」東岐波「火の山」秋穂「火の山」「火地山」下松「火振山」大島郡 「日見」へと伝えられた。

標高二六八メートルの火の山は、天智天皇の時代(六六五-六七〇)に築城されたというまぼろしの「長門の城」の候補地にもあがっているがさだかでない。

大内氏の時代には火の山城が築かれて、大内氏と九州勢の秋月氏·小弐氏との合戦の拠点になったことが記録にあるが、さらに琵琶歌として伝えられた「火島の山合戦記」というおもしろい伝説もある。

明治二十三年(一八九〇)から陸軍の要塞地帯として、秘密のベールにかくされたが、第二次世界大戦後、市民に開放された。頂上には一部要塞施設も残されており、戦艦大和砲弾の碑もある。

昭和三十一年には瀬戸内海国立公園に指定され、その後ローブウエー、バークウエー、回転展望台等の開設、そして関門橋の完成、さらに山麓の諸施設整備により、観光下関のメッカとして四季を通じ行楽客でにぎわうようにな った。

火の山はあまりにも海峡に近く接しているので、市内からはなかなか全貌をつかみがたく、かえって対岸の門司からの方が容易に一望できるが、その姿はあまりにも平凡であり、やはり下関市内の各所から眺める山容の片鱗に、いいしれぬ魅力と親しみを感じるのである。


みもすそ川哀史

旧壇ノ浦町と呼ばれるみもすそ川の一帯は、空に虹のような関門橋がかかり、付近には壇ノ浦砲台や関門国道トンネルもあって、新旧の歴史が対比される風光明美の場所である。

海峡の流れは昔も今も同じようにささやきをくり返し、二つの悲話を伝えるようである。

「山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさう美しき御手を合せ御念仏ありしかば、二位殿、やがて抱き参らせて 『波の底にも都の候ふぞ』と慰め参らせて、ちひろの底にぞ沈み給ふ。悲しきかなや、無常の春の風…」これは平家物語のもっとも悲しい美しい場面である。

有名な「今ぞ知る身もすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは」の歌は、のちにつけ加えられたものだといわれているが、この歌にちなんで「この川で遊女が洗濯すると衣服のよごれがよく落ちるが、町家の人が洗濯してもきれいにならない。それはここの遊女は平家生残りの官女が身をおとした姿であるからだ」という伝説が残されている。

もう一つのもっと現実的な悲話は、松本清張の「父系の指」および「半生の記」から原文を抜すい引用する。

「その場所が旧壇ノ浦といって平家滅亡の旧蹟地になっている。そこに一群の家が、四、五軒街道に並んで建っていた。裏はすぐ海になっているので、家の裏の半分は石垣からはみ出て海に打った杭の上に載っていた。私の家は下関から長府に向かって街道から二軒目の二階屋だった」

「父の母に対する不満は、彼の生涯の「全盛期」に爆発した。お前のような女は女房でないから離別すると言い出した。父は米相場をすることを覚え、それが当って懐工合がよくなり、女が出来たのである」

「母は私を連れて、夜になると花街をうろついた。庭石に打水した満酒な格子戸の家を一軒一軒きいて回るのである。私は小学校二年生くらいであった。その時のことをよく覚えていないけれど、母が花街の者からその際どんな風に扱われたかを想像すると、私は今でもその浅ましさに顔が真っ赤になる思いがす流のである」


壇之浦の船だまり

海岸線の長い下関は瀬戸内海、関門海峡、日本海の三つの海に面しており、どの海岸に立っても、それぞれ違った風景があり味わいがある。

海を見ると、なぜかほっとして心がほころび解放感をおぼえるが、さらに船のもやってある場所の海は、人間らしい生活のにおいが感じられ、親しみと安らぎを与えてくれる。

バスやトラックが、ごうごうとうなりをあげて疾走する壇之浦の国道を、ちょっと海の方へ入ると、そこには表の騒音を忘れたように静かな、こじんまりした船だまりがある。

防波堤には、豊漁を祈ってえびす様が祀られ、柵には漁網が干されてのどかな風物詩を描いているが、彼方の空には初冬を思わせるような白雲が冷たく輝き、関門橋が大きく広がっている。

この船だまりには、間口の狭い家が十数軒ばかり肩を押し合うよう に、ひしめいて建っているが、これらの家は、昔はみもすそ川の海岸にあった漁師の家で、文久三年(一八六三)馬関戦争のとき、砲台場構築のためこの地に強制移転させられたものであり、敷地が狭いので、どの家も三階建に作られ、海に向か題って足桁が出され階段がつけられたりして、特別な構造になっているのが珍しく、おもむきある風情となっている。

ここの漁師の人たちは、平家落武者の末孫ともいわれ、魚を釣るときの作法も普通の漁師と違い、船の中で正座して釣ることが伝えられ、いまだに守られているのである。

この船だまりの風景は、画家の古舘さんによってもたびたび描かれているように、詩情あふれる美しい画面であり、海峡の町下関を物語る名場面の一つでもある。


 平家供養の七盛塚

赤間神宮の明るいきらびやかな拝殿をあとに、左手の宝物館をくぐり抜け る と、そこには陽の光りもとどかぬ黄泉(よみ)の国を思わせるような、幽すいな世界が静かに息づいており、訪れる人に深い感銘を与える。

紅石山の暗い木立ちを背景に寄りそうように建っているこの墓碑は、七盛塚と呼ばれ、次のような伝説が残っている。

天明年間(一七八一1一七八九)のこと、海峡にあらしが続き、九州へ渡る船や漁船の遭難が統出したので、海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは、生計が立たずたいへん困っていた。

そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞いたので闇をすかして見ると、そこには成仏できずに、海上をさまよっているたくさんの平家武者と官女の亡霊の姿があった。

漁師たちはこの災難は、壇ノ浦沖に沈んだ平家一族の怨念によるたたりであろうと考え、それまで阿弥陀寺裏語の紅石山 に散在し、供養する人もなく荒れるにまかせていた平家の墓を一ヵ所にあつめ、一門がさぞかし帰りたかったであろう京都の方に向けて、手厚く供養したところ翌日からあらしはうそのようにおさまったということである。

この七盛塚は、七基の自然石の板碑が二列に並んでおり、前列右から有盛、清経、資盛、教経、経盛、知盛、教盛。後列は徳門、忠光、景継、景俊、盛継、忠房、二位となっており、盛のつくのは六基しかないが、俗に七盛塚といわれている。そして、この一門の者は、必ずしも全員が壇ノ浦に没した人物ばかりではないところから、墓碑ではなく平家一門の供養塔と考えられている。

また七盛塚のうしろには、十四基の小さな五輪塔が肩を寄せあうように埋もれていて、何かをうったえるようなたたずまいをみせており、宮司の話によれば、紅石山の土が雨に洗われるたびに、少しずつ姿を現すのだそうで、平家痛恨の執念を見るようなふん囲気である。

小泉八雲の「耳無し芳一」が平家武者の怨霊にとりつかれて、真夜中にこの一門の前で琵琶を弾じたことを空想すると、今にもチラチラと鬼火が浮かんでくるようなあやしい心地がして、平家滅亡の哀れさがしみじみと胸にせまってくるのである。


下関とその周辺 ふるさとの道より