王司・清末・小月地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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王司、清末、小月地区


小月庚申塚

小月神社御旅所にある庚申塚は、高さ二·六メートル、周囲三·四メートル、重さ七トンというまれにみる巨大なもので、達筆な庚申の二字の彫りも深く、この二字のくぽみには米つぷが約二斗(二十升)も入るといわれており、このように立派な庚申塚は、全国でも珍しいと伝えられている。

中西輝磨氏の調査によると、下関市内には庚申塚が二四〇基以上も発見されているが、このことは庚申塚が民間信仰として、広く人びとの心の支えとなっていたことを物語るものである。

庚神様は元来中国の道教の守であるが、日本では農業の神様として豊作を祈願するため、農耕になくてならぬ申緒(さるお・牛の引く働の中心となる主要部分につなぎとして取付けられるもの)を打って供えるもので、道祖神、猿田彦などは村の入口に建てられ旅人の安全を守り道案内をするかたわら、村に病気や災厄が入ってこないように防いでもらうものであるが、長年の間に両者の御利益が混合され一緒にされてきたようである。

庚申というのは六〇年に一回めぐってくるが、この夜に眠ると、身体の中に住んでいる「さんし」の虫が抜け出して天に昇り、天帝に罪過を報告するといわれ、そのため人は命を奪われることになるので、その夜は徹夜で酒食をし、語り合って寝ない風習があり、またこの夜はセックスもタブーとされ、もしこの日結ばれて出来た子どもには盗人の性格があるなどといって戒められたというから愉快であり、そうしてみると石川五右衛門は、庚申の夜にできた子ということになる。

さて庚申塚はまだたくさん残っているけれども、いろいろな願いをこめて作られた申緒打ちの行事は次第に影をひそめ、現在は清末蔵本のほか数カ所にしか伝えられておらず、時代の流れとはいいながらまことに残念である。


小月茶屋池悲話

国道二号線の小月駅手前から山手の高台へ向かう道を進むと、茶屋池という大きな美しい池に到着する。その堤の下にお堂があって、お地蔵さんが二体祀られ、そばに一基の墓がある。

これは槙野ヒサの墓といわれ、次のような悲話が伝えられている。

清末藩三代政苗、四代匡邦公の時代、藩主が藩財政の一助にと、小月に遊郭を設置し、その収入の一部を取立てたが、そのため人買いなどに買われてきた娘や、だまされて連れてこられた女など、不幸な女性の悲劇が繰返され、あるときは借金に悩んだ女郎七人が、お互いの身体を綱で結び合わせ、この茶屋池に集団投身自殺したこともあった。

当時、小月明円寺に天寧という名僧があり、この悲劇をみて藩主に忠告したが聞き入れられなかったので、江戸に上り、有名な大僧正から藩主に意見してもらった。しかし藩主は反省するどころか、かえってたいへん立腹し、天寧和尚を流罪とし六連島に流してしまった。

ところで、かつてだまされて女郎にされそうになり、茶屋池に投身しようとして運よく天寧和尚に助けられた槙野ヒサは、十年もの間、ひそかに明円寺と六連島の間を往来し、和尚に差入れをし慰め、また、はるばる江戸へ出て、天寧和尚の放免運動に奔走したが、力足らずして救出できず、遂に和尚は六連において空しく亡くなってしまった。

ヒサはその後、茶屋堤のほとりにお堂を建てて、投身者の救助と、死んだ人びとへの供養に努めたが、天保一四年(一八四三)の七月に六十八蔵でこの世を去ったのである。

お地蔵さんとともに、道行く人を静かに見守っている槙野ヒサ(勇法祥尼)の墓前には、誰があげるのか線香や花が供えてあり、塾帰りの子どもが、何も知らぬ気に通り過ぎて行く。


永富独嘯庵顕彰碑

国道二号線の王司、中字部バス停で下車すると、近くの山側お旅所の境内に、一きわ高く目をひく「永富独嘯庵先生顕彰碑」がある。

下関には幕末から明治にかけて、たくさんのすぐれた人物が輩出したが、それらの人びとの功業はあまり知られておらず残念であるが、永富独嘯庵もその偉人の中の一人に数えられ、説明板には吉田松陰、高杉晋作、永富独嘯庵を、近世防長三偉人と称するとある。

独嘯庵は享保十七年(一七三二)に、豊浦郡宇部村(現在の王司字部)の庄屋、勝原治左衛門の子として生まれ、幼少のころから神童といわれるほどの秀才ぶりを発揮したが、十二歳のころ病気になって、南部町の医師、永富友庵に治療を受けた際、才能を見込まれて永富家の養子となった。

のちに京都に出て、山脇東洋や福井の奥村良竹に医学を学び、さらに研さんを重ねて、漢方医学とオランダ医学を総合した、独自の新しい医学を生みだした。

宝暦五年(一七五五)二十四歳のとき、赤間関に帰ってきた独嘯庵は、医学に精進するかたわら、白砂糖製造の研究に没頭し、二人の兄の協力を得て、安岡、綾羅木の海岸一帯に砂糖黍を栽培し、遂に立派な白砂糖の製造に成功したのである。当時の製糖は、量においても質においてもまだまだ幼稚であったので、彼の製造した優秀な砂糖は一躍有名になり、そのため幕府から、密輸入品ではないかとの嫌疑を受けて取調べられることになった。事の成り行きをおそれた長府藩は、三人の兄弟を投獄したのであるが、幕吏も密輪入品でないことを認め、そのすぐれた製法にすっかり感心し三人は許されて出獄した。

こうした日本ではおそらくはじめての、大々的な製糖事業が赤間関で成功した実績がありながら、その後は四国での生産が有名となり盛んになったのは、返すがえすも残念なことであり、独嘯庵の才能や技術が惜しまれてならない。

彼は明和三年(一七六六)三月、わずか三十五歳の若さで亡くなったが、長府博物館や図書館には、彼の残した書が保存され学者としての一面も伝えられている。


清末、孝女政碑

清末から小月へ抜ける旧街道は、国道二号線に沿って平行しているが、東部中学校の下から少し小月に寄った場所に「孝女政碑」と彫った御影石の立派な顕彰碑がある。

明治七年(一八七四)に建てられたこの石碑には、漢文により次のことが簡潔に記されている。政女は清末の角屋助三郎の子として生まれたが、幼い時に父を失い母娘二人で暮らしていた。若い頃から母に孝養をつくして、藩主からたびたび表彰されたが、明治四年五月一日、病いにかかり死去した。政女のことは近藤芳樹によって、世に広く伝えられ、人びとの尊敬をあつめた。

ところで、まさは母親の永い病いに献身的な看護をもって孝養をつくし、年頃になって夫を迎えたが、夫には他に愛する女ができて彼女を苦しめたのである。しかし、まさは、まごころをもって夫に仕えた。そうした努力にもかかわらず、夫はついに狂人となり、他人を傷つけるまでになって、一室にとじこめられてしまった。まさは一心に病気の回復を神に祈り、寒い夜には夫を思って夜具も使わずに寝たのである。こうした苦労のかいがあって、二年のちに夫は正気にもどり、その後は一家むつまじく暮らしたということである。

碑の建っているあたりは、きれいな清水がこんこんとわき出るので、清末(きよすい、きよすえ)という地名ができたくらいだが、そばには溝のような小川があるだけで昔の面影はない。

下関にはめずらしい孝女の顕彰碑であるが、今では知る人も少なく、さっそうと前を通り過ぎる近代的な若い女性たちは、碑の存在すら眼中になく、昔の自己犠牲による孝養や貞節の話など全く通じないような表情であった。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)