勝山・内日地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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勝山、内日地区



勝山御殿跡

文久三年(一八六三)の五月十一日、関門海峡で行われた外国船砲撃の馬関攘夷戦は、勤皇討幕を目指す長州藩の決意であり、明治維新への烽火でもあった。

はじめの三回にわたる戦いは、戦意のないアメリカ、フランス、オランダの艦船を一方的に砲撃、逃走させて凱歌をあげたが、六月一日にアメリカ軍艦が報復のため本気になって来航したときには、長州藩虎の子の軍艦が決定的な損害を受け、続いて六月五日に来襲したフランス軍艦からは、前田の砲台が破壊され占領されてしまい、これから先、まだどのような攻撃を受けるかもしれず、長州藩は重苦しい不安に包まれていた。

このような状況から長府藩庁の存亡が問題となり、藩主毛利元周公は、海岸近くの松崎御殿(現豊浦高校付近)から覚苑寺に移られ、六月九日には奥方達は勝山井田の来福寺に避難された。

この外艦との砲撃戦に対処して、防衛のため構築されたのが勝山御殿であり、防察のため御殿としてよりも、城の機能を合わせ持った堅固にして立派な館であったことは、今残されている石垣を見ただけでも想像することができる。

俗に勝山城と呼ぶのはそうした訳であり、大内、毛利の時代、内藤隆世や大内義長が居た本当の勝山城は、写真の左手うしろにそびえている勝山(三三九メートル)に廃嘘がある。

ところで勝山御殿跡は、右手に四王司山、左手に青山、奥に勝山を従えた見晴しのよい高台にあって広場も多く、付近には砂子多川上流の清らかな渓流があり、家族づれや若者達で飯盒炊さんなどもでき、レクリエーションには恰好の地である。国鉄新下関駅(旧長門一ノ宮駅)から砂子多川沿いに歩いていくと、ほどよいハイキングコースであり、マイカーでも行くことができる。

勝山御殿そばの清流をたどって、さらに登りつめると、山ふところの奥に閑静な大王寺があって、裏には小さな滝がしぶきを飛ばしており、春に訪れたときのアシビやヤマッツジの美しい色どりが思い出されてならない。


老女の泣いた来福寺

「米福寺など申す寺は山寺ゆえ誠に誠にかべ(壁)はぬけ、湯殿もなく日々御行水等、土間に板渡し青空にて御二一方様あらせられ候御事、雨天には御かさをあけ候て御行水めし候位の御事、誠に誠になさけなく、私共は申すに及ばず、棒を建て、雨ふりには夫へかさを結付風呂焚候 ……」

これは文久三年(一八六三)馬関戦争のとき、長府櫛崎御殿から勝山井田の来福寺に避難された、毛利藩主の奥方に仕えていた腰元の老女が書いた手紙の一節である。

女中だけでも二十二人もおり、六畳の部屋 へ十一人も押込められ、夏のこととてむれきり候とあり、突然、田舎のお寺に乗り込んだ大奥の、脂粉なまめかしいはなやいだ混雑ぷりが、映画の一場面のように想像される。

食事は「三度のたべものは御家老はじめ黒椀に一ぱい、梅干に沢わん二切、女中も同様にて実もってこれには当惑いたし候、誠に何もっての違いんえんやらとあきれはて申し候」と記され、粗末な食べ物に対する女性の恨み言が述べてある。

入浴については、雨天のときには、奥方がかさをさして風呂に入ったとあるが、天気であれば月や星も見え、雨天のときのかさも、風流でいいではないかと思うのだが、大奥の人たちには通用するはずはなく、ただただ誠に誠にこのようなくるしき難儀の事は涙にて困り候と訴え、戦争はもうごめんだという女性の腹立たしさが、ぐちとなって強く訴えられている。

このような老女のぐちを想像して、来福寺を訪れたが、なかなかどうして禅宗の立派なお寺である。

本堂は大正七年(一九一八)に再建され、シノで葺いてあった方丈はトタン葺きに変っているが、それでも当時をしのぶことができ、入口の苔むした石垣や井戸は昔のままであり、以前には当時の駕範(かご)も二通り残っていたそうである。

桜並木の参道に続いて、山門に栗とさるすべり、そして境内には梅、かりん、つつじ、もくせいの大樹が繁っており、老女の涙した難儀な心情をしの ぶには、あまりにも美しく静かなたたずまいであった。


小野一里塚

一里塚の起源は古代の中国で一里(約四キロ)ごとにエンジュを植えたが、日本では、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前の名護屋へ出陣したとき、山陽道を経て肥前名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)までの道筋へ、一里ごとに設けた路程標が最初だといわれているが、一般には徳川秀忠が慶長九年(一六〇四)に江戸日本橋を基点として、全国主街道の両側に築いた塚をいい、塚の上にはエノキ(榎)が植えられた。

エノキは大きくなると夏には旅人の暑さをいやす木陰となり、秋にはその実を実食べて飢えをしのぐこともでき、一里ごとにたてることにより里数を知らせ旅行の道しるべともなった。

長州藩では萩城が築かれて以来、萩の唐樋札場を基点として主要往還道に一里塚が設定されたようだが年代は不明である。

下関市内には昔の原形をとどめた一里塚としては、勝山小野の一里塚がただ一つかろうじて残されている。そしてこれ以外には同じ勝山の秋根と小月に、一里塚跡地に記念碑が建てられ昔の位置を伝えている。

江戸時代下関には、赤間関から瀬戸内側を東上する山陽道と日本海側を北上する山陰道が広く知られていたが、このほか現在の菊川町、豊田町を経由して長門市に通じる主要道路があった。

この道路は赤間関、府中と豊浦郡北部をつなぐもので、年貢米等の物資の搬出入や巡見使の通行に利用され御米道とよばれ、この道筋にも赤間関から椋野、秋根市、小野、亀ヶ原、宮ノ前に一里塚が設置されていたことが古文書に記されている。

このように下関市にもあちこちに一里塚がたてられていたが、明治初年に発令された太政官布告により廃止となり、ほとんどのものが取り除かれたのであって、ただ一つ残った小野一里塚はたいへん貴重なもので、昭和四十八年に下関市の文化財の記念物に指定された。


勝山城址の発掘

長府の四王司山(三九二メートル)と勝山の青山(二九〇メートル)を従えるようにして、その奥に馬がうずくまった格好の怪異な姿を見せているのは、その昔、勝山城が築かれた標高三五九メートルの急岐を誇る勝山である。

勝山城は戦国時代に構築されたと推定される中世の古い山城であり、歴代の城主としては永富上総介嗣光(一三七八)、相良民部少輔正久(一四〇八)、内藤弾正忠興(一五二七)、内藤隆世(一五五七)の記録があるが、大内家末えいの大内義長が、毛利氏に攻められ、最後にたてこもったのもこの城である。

防長古城壊史によると勝山城は「山頂平ニシテ壱反(三百坪)パカリ、二ノ壇平二シテ半畝(十五坪)パカリ、南ノ方大手ノ如シ、東北鹸阻ニシテ、北ノ方山項ヨリ八、九分ニ池アリ、広サ三、四尺」とある。

この勝山城の調査については、昭和四十年ごろ、当時の第一高校生が二年がかりで計測を行っているだけで、詳しい資料は他になく、まぼろしの城という感じである。

われわれ青年学級のグループは昭和四十九年三月に登山、調査を行い、急峻な原生林とイバラに阻まれ作業は困難を極めたが、生い茂る雑木林の斜面に、塁々と連なる岩塊を発見、城の稜角を確認し記録にある古井戸も発見した。統いて昭和五十二年四月に第二回の登山を試み井戸を主体に調査した。井戸は崖下の昇風岩を背に扇形状に石垣が築かれ、深さ三メートルの空井戸であった。

この井戸には、白馬にまたがった神様の姿が映り、それを見た者にはたたりがあるという伝説があるが、皆は気にせず金塊、小判、宝剣などを期待して、けんめいに落葉や土砂をかき出し井戸さらえをしたが、結局何の収穫も得られなかった。廃城の城趾を極めたい気持は変らないが、下山してふり返る夕映えの山容は、何ときびしく拒絶に満ちた姿であろうか。

イバラの道はますます深くなり、まぽろしの城はいちだんと遠くになるであろうが、半面、それを願う気持もあり複雑な心境である。


石原、河童封じの石

下関では河童についての話や伝説が少ないのはどういうわけであろうか。わずかに勝山勝谷の河童が残っているくらいである。

河童に関する伝説は全国的にみて、同じようなパターンが多い。しかし龍や唐獅子と同じく、河童も昔の人が想像し考え出した架空の動物として、たいへん興味深いものがある。

土地の古老の話では、たびたび河童とエンコウがチャンポンされ、わかりにくくなるが、辞書によるとエンコウ(猿験)とは、手長猿のことであり、また河童の別名でもあると記されているので、よけいにややゃこしくなる。しかし河童が人間に近い姿で描かれているので、手長猿を想像しても無理はないのである。

そうなると猿は川や沼に住むだろうかと疑われるが、最近の野猿には、島に泳いで渡り、食物も洗って食べる近代センスを身につけた立派な猿もいるので、一概に否定もできまい。

ところで河童とエンコウの話はこのくらいにして、最近、川中の石原に河童封じの石を見つけたのである。サンデンパスの内日線と長安線が交差するところに石原の停留所があり、そこから山手の人家を目ざして行けば、この石を見つけることができる。

この石は昔、村の人が馬をつれて沼に行ったところ、ちょっと目を離したす きにエンコウが出てきて、手綱を引き馬を沼に引きずりこもうとしていた。

ところがその馬は賢くて、逆に手綱でエンコウをぐるぐる巻きにして沼から引き出したのである。村人が集まってこのエンコウを殺そうとしたところ、この石を指さし、この石がある限り、二度と出てきて悪い事をしないからと助命したので、逃がしたとのことである。

ところがこの石の前に住んでいるお爺さんが若い時、そんな事があるものかと石を動かしたところ、大病になったりして災厄が統いたので、それからは触れぬようにして祀ってあるのだそうで、現在は道路も舗装され、道の中央で邪魔になるのだが、誰一人除ける者はなく、写真のように安置されている。

新幹線が森音を立てて通り過ぎるこの地区に、いまだにこのような河童封じの石が残されており、伝説が生きているのはたいへん楽しいことであり、人びとの心を伝える貴重ないしぶみでもある。


曲水の宴碑

勝山の国鉄山陽線をまたぐ陸橋の下に、鉄道と平行して砂子多川(すなごだがわ)が流れている。砂子多川は浅い川であるが水が非常にきれいで、夏にはハヤや コブナの群れが藻陰を伝いながら泳いでいくのがよく見られる。

この川に沿った道をさかのぼって行くと、田倉の勝山御殿跡に通じており、散歩やハイキングにほどよいコースである。陸橋の下から五百メートルくらい行ったところの川向こうの岸に、曲水(ごくすい)の宴の碑が建っている。

曲水の宴というのは中国伝来のみやびやかな遊びで、奈良、平安時代に朝廷や公家などの間に行われていた年中行事の一つであり、三月三日に川や池のほとりに出て酒宴を催し、上流のものが上の句を作って紙に書き、杯にのせて流し、下流のものは流れつくまでに下の句をひねるのであるが、川原で野趣豊かに楽しむのと、庭園内に曲水をしつらえて遊ぶのとふたとおりがある。

勝山砂子多川の曲水の宴は、文政七年(一八二四)の三月三日に、長府藩の十一代藩主で文化人の殿様として名高い毛利元義が、本藩主斉元公を招いて盛大に行ったもので、その時の様子を学者の小田圭が文章に記しのち石に刻んだものがこの碑で、自然石には「陪沙川曲水宴記」とあり、次のように書かれていて、当日のありさまが目に見えるようである。

「砂子多川の川幅は一尺にみたず、長さは幾干尺、その流れは清浅でゆるやかである、杯を浮かべるのにちょうど適している。一日は曇りであり、二日は盆をかえしたような雨であったが、きょうは晴れあがった。いよいよ宴が始まると短歌を苦吟するもの、絵を描くもの、あるいは花に向かって何かものしようと考えこむものがあるかと思えば、一方では早くも酒をあたため、また林の中にはいって鳥をねらっているものもいるといったありさまで、上流のものがうたえば、それに応えて下流のものがうたい、しまいには酔ってどなるように読むもの、つまるものなどさまざまである。そのうち、なべをたたき、酒ダルをたたき、手の舞い足の踏むところも知らないありさまとなった。夜になると三日月がかかり、ろうそくの灯は花に映え、その花がさらに水にうつってえもいわれぬ美しさである」


長門一の宮住吉神社

下関には国宝が二つある。しかもそれは建造物で、一の宮の住吉神社本殿と長府の功山寺仏殿である。

日本全国の国宝は約一〇二六件で、山口県には九件の国宝があるが、そのうち建造物はわずか三件で、その三件の二つを下関が占め、残る一つは山口市の瑠場璃光寺五重塔である。

建造物の国宝は西日本では稀で、島根の出雲大社本殿と広島宮島の厳島神社本社など有名なものに限られ、九州各県をみても福岡、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島には一つもなく、大分に宇佐神宮本殿と富貴寺大堂、長崎に崇福寺大雄宝殿と大浦天主堂があるだけである。

このように西日本でも数少ない国宝建造物を、下関は二つももっているわけで、われわれはその価値を再認識し誇りにするとともに、後世に伝えて行く義務がある。

住吉神社本殿は春日造と流造の折衷式によるもので、桧皮葺(ひわだぶき)の五社殿(五人の神様を祭ってある)に特徴がある美事な建築で、応安三三年(三七○)に大内弘世が戦勝祈願し、その御礼に再建したものであるが、のち天文八年(一五三九)に建立された重要文化財(国指定)の拝殿が、毛利元就の寄進であることは、大内-毛利時代の歴史の変遷を物語るもので興味深い。

神功皇后にもとづく住吉神社は、なんといってもその広大な神域がすばらしく、県の天然記念物に指定された社叢には、クスノキ、シイ、モッコク、タブノキなどの大樹がうっそうと茂り、武内宿禰手植伝説のクスノキやテイカカズラなど珍しい植物もあり、緑の濃い原生林のたたずまいが、神社の荘厳さをますます深めている。

そして五月の第三日曜日に行われる御田植祭は、古式にのっとり豪華な絵巻として繰り広げられ、下関市の農業祭と同調して植木市なども開かれ、近郊から繰り出した大勢の人びとが早乙女の奉仕する田植作業や舞姫の美しい姿にとれて、境内は終日にぎわうのである。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)