吉田地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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吉田地区 常関寺と法専寺と東行庵と石風呂


常関寺と十六羅漢

羅漢(らかん)は阿羅漢(あらかん)の略称で、仏教の修行を積んだ最高の位で、尊敬供養を受ける資格のある聖者のことであり、十六羅漢とは、釈迦の命で、長くこの世に住して仏法を護持する十六人の尊者のことである。

羅漢さんといえば、いかめしい怖い顔を想像するが、唐時代に描かれた画像は、たいへんおだやかな聖者の姿で、東京国立博物館にある有名な十六羅漢像には、小鳥や山羊などに餌を与えておられるやさしい顔つきの羅漢が描かれている。

ところがのちに宋の時代になってから、禅月様と称される奇異な風貌の羅漢画がおこり、わが国にも渡来して広まったのである。石を彫り刻んで羅漢像をつくるには、やはり柔和な顔立ちよりも、個性の強い怪異な風貌の方が彫りやすく、張合いもあると思われ、奇異な怖い顔もうなずかれるのである。

さて吉田の常関寺境内に、写真のような十六羅漢が、忘れられたように坐っておられるが、これは市内でもいちばん立派な羅漢さんである。薄暗い木立ちの中に釈迦如来を中心として、左右に文珠、普賢菩薩があり、それを取り巻くように十六羅漢があって、瞑想にふけっている者、虚空をにらんでいる者、つんとすましている顔、ほほえんでいる顔、怒っている顔など、十六人の表情が、それぞれ違って味わいがあり、いつまでも見あきないのである。

常関寺には奇兵隊の病院も置かれていた関係で、不幸にも戦病死した隊士たちの墓もあり、逸話に富んでいる。また近くの山には名刹蓮台寺もあり、さらに峠を越すとひなぴた田舎道が埴生へと続いて、下関の秘境にふさわしい面影をとどめており、興味がつきないのである。


法専寺と首切り地蔵

吉田の町は萩本藩吉田宰判の中心地として代官所が置かれ、また萩、山口、小郡から長府、馬関へ通じる街道筋にあたるため、本陣や茶屋も設けられ宿場町として栄え発展した。

なまこ塀や格子戸の古い家が立ち並ぶ町筋の両側には、貞恒川から引かれたきれいな水が流れ、町の入口には市内で一番大きなお地蔵さんが、どっかり安置され、道案内をするかたわら、この町に災難が入ってこないよう守っておられる。

町はずれにある道標のところから、植生口へ向かって十五分ばかり歩くと、左手の山側に法専寺がある。山を背にした境内はたいへん閑静で人影もなく、六体のお地蔵さんが、おだやかな陽光を浴びてひっそりとたたずんでおられた。この六地蔵の姿をよくよく拝見すると、無残にもどの像も首が継がれている。

これは奇兵隊がこの寺に合宿していたころ、血気盛んな荒武者たちが、排仏思想にかられて切ったといわれ、動乱時代を生きる人びとのすさんだ気持ちが想像されるのである。

のちになって有志の手で首が継がれたが、以来人びとは首切り地蔵と呼ぶようになった。山手の墓地には、小倉戦争で戦死した阿川四郎、御手洗音五郎、内田文吉な ど数名の奇兵隊士の墓もあり、訪れる人もない木立ちの中に静かに眠っている。

また庭前イチョウの木の下に餓死亡魂の碑があるが、これは享保十七年(一七三二)の大飢僅のとき、この寺で難民救済のため粥の炊き出しを行ったので、方々から数知れぬほどの人びとが集まり接待を受けたが、中には既に栄養失調となり、吉田の地を踏みながらも、途中で倒れ死んだ者が千人以上もあったといわれ、寺では哀れにも餓死した人たちを供養するため千人塚を建て、毎年盆供養を営んでおられるのである。

あかあかと夕日を浴びて瞑想しておられる六体の首切り地蔵の姿は、それぞれ少し首が傾いて痛ましいが、それでも千人の餓死者を弔うため、一心に回向しておられる顔立ちには、かすかなほほえみさえ見えてまことに気高く美しい情景であった。


吉田の石風呂

日本人は風呂好きの民族といわれるが、よく考えてみると、生まれたときのうぶ湯から死んだときの湯かんまで、たしかに一生を通じて風呂とは緑が深いようである。

現在の風呂は入浴を意味するが、風呂という語はもともと「室(むろ)」が転化したもので、室とはあなぐらや岩屋のことである。

また昔は風呂屋と湯屋とは別なもので、風呂とは蒸風呂のことで今のサウナであり、湯屋は湯を入れた樽につかるところであるが、徳川中期ごろから混同して使われるようになった。

元来、入浴は宗教的儀式の一部「喫(みそぎ)」の思想からきた沐浴で、身体の汚れを落とすことより、むしろ精神的な浄化行為が本来の意味であったが、のちに次第に身体を洗い、垢を取去ることに目的が移ったものである。

ところで蒸風呂の歴史は古く、奈良朝時代(七〇〇年ころ)に大陸から仏教とともに伝来したといわれているが、特に瀬戸内海沿岸の山口、広島、岡山、愛媛、香川の諸県に石風呂として分布しており、山口県では重源上人がつくったといわれる佐波川の上流や大島の久賀、そして柳井にあるのが有名で、下関付近にはなかった。

しかし最近、吉田木屋の北島直之さんの畠で発見され、考古学会員であった故吉村次郎氏も、古墳ではなく石風呂であろうと断定されているので、ほぼ間違いないようである。

付近には地蔵さんやこんびらさんも見られ、旧街道に面した場所で、藩制時代には萩、長府、清末三藩の出張所が設けられ、領内の産物を積出した吉田川河口の港として、大正時代までにぎわっていた所である。

資料によると、石風呂は大陸から渡来し、瀬戸内を東に向かって伝播していったとあるから、このシダの茂るにまかせた吉田の石風呂がいちばん古くて、日本での第一号ではあるまいかと今後の調査が期待され、たいへん興味深いものがある。


東行庵と石灯篭

緑と清流のふるさと、吉田東行庵の四季はたいへん美しく、春はうぐいす、花は梅、あしび、椿、桜、しゃくなげ、つつじと咲き続け、初夏には蛍と花しょうぶ、夏の蝉と蓮の花、秋は萩ともみじ、冬は松風と池の名月というふうに、花鳥風月のたたずまいがすばらしい。

広い境内の中で、特に印象の深い場所は入口の風景である。

清水山県の裾を流れる清烈な小川に、ゆるやかに弧を描いた石橋がかかり、その向こうの参道下に、しゃちほこのついた灯ろうが一対あって画面を引きしめており、石でつくられた橋、灯ろう、きざはしの固い調子と、背景の松や右手の梅林がほどよく調和し、さらに流れに影を映す白萩の楚々とした姿が、やわらかな動きをみせて、この場面全体が美しいふん囲気をつくっている。

ところでこの変った灯ろうは、四境戦争でいちばん激戦だった小倉口の戦いに、陣頭に立って指揮をし、活躍した高杉晋作や山縣有朋が、小倉城内から戦利品として持ち帰ったもので、長州軍の猛攻撃におびえ、藩主小笠原壱岐守は、ひそかに小倉城を脱するのであるが、藩主に見放された家来たちは、自ら城に火を放ち後退したので、出火と同時に攻め入った奇兵隊が、この灯ろうや、焼け残った櫓(やぐら)に吊るされていた大太鼓を持ち帰ったのである。

吉田に奇兵隊が屯営していたことから、灯ろうは吉田大橋付近の天神様に奉納され、参道入口に建てられたが、数度にわたる吉田川の洪水により半分埋没していたのを、東行百年祭にあたり、重本氏の尽力で清水山の入口に移設されたものである。

それにしても重い石灯ろう一対を、台座の石組みから、よくも小倉から運んだものであり、激戦のあとだけに、長州軍の勝利の喜びが想像され、戦利品を運んだ高杉、山懸など奇兵隊士たちの、意気揚々たる姿が目に浮かぶようである。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)