長府地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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長府地区


シャーランド夫人の墓

名刹長府功山寺は史跡の宝庫といってもいいほど、余りにも見る所が多くて戸惑うくらいである。

特に参道から仏殿裏にかけての広大な墓地には、大内義長や長府毛利家藩主および家族、そして家老、勤皇の志士、学者、教授、医者、僧侶、文人、画家、書家、市長、外人など、数多くの有名人が眠っており、ちょっと数えるだけでも、百人近くの著名な人名録をつくることができる。

墓地のいちばん奥まった左の高台に、高さ六〇センチ、幅五四センチほどの外人の墓碑があり、御影石の表に「シャーランド夫人之墓」裏には英文で「ミセス·シャーランドここに眠る」と記されている。

シャーランド夫人は英国人で父は英国海軍の軍人であった。彼女は銀行家のリチャード氏と結婚したが二年後に夫を亡くし四十二歳で未亡人となった。夫を亡くしたのちのシャーランドの人生観は一変して、キリスト教の伝道師を志し、その準備のためにいろいろと働き、彼女が海外派遣の伝道師となって横浜港に着いたのは、明治二十年(一八八七)、彼女が六十二歳のときであった。

その後、助手となったアメリカ人のブラウン女史とともに長府に来て、二人の給料や年金を基金として伝道館と孤児院を建て、六十人におよぶ日本人孤児の養育に、献身的な努力を重ねたのである。

明治二十年といえば、まだキリシタン弾圧のほとぽりさめない時期であり、無理解な人びとの迫害にもたびたび出遭ったが、信仰に厚いけなげな二人の婦人はくじけず、終始孤児の救済事業に身を捧げ、シャーランド夫人は、明治二十八年(一八九五)長府の地において、六十八蔵の聖なる生涯を閉じたのである。

美しい業績を残して、異国の山かげに静かに眠る、天使のようなシャーランド夫人のことを、知る人もだんだん少なくなってきたが、彼女は黙って生前のような温かい微笑みを浮かべながら、今日もまた高台からじっと長府の町を見守っているのである。


大内義長の墓

長府毛利家の菩提寺である功山寺は、高杉晋作挙兵の地としても有名であるが、大内氏終鳶の地であることはあまり知られていない。

戦国大名として周防、長門、安芸、石見、備後、筑前、豊前の七ヵ国に君臨した大内義隆は、天文二十年(一五五一)、重臣、陶隆房の謀反により大寧寺においてあっけない最期を遂げ、大内家は一応断絶したが、陶隆房の下心により、九州の大友家から義隆の姉の子で、大友宗麟の弟にあたる大友晴英を迎えて、大内家を嗣がせ大内義長と改め、自らも陶晴賢と名乗り黒幕の大将として実権を握ったのであるが、それから四年のちの弘治元年(一五五五)に、晴賢は、毛利元就の計略により厳島におびき出されて滅ぼされた。

残された大内義長は、山口の城にたてこもり応戦したが利あらず敗走し、勝山城に逃れた。勝山城は大内家の重臣、内藤隆世が城主として堅固な守りをしていたので、毛利氏の大軍は容易に手が出せず攻めあぐみ、その結果計略を用いることになった。

それで「義長公に対しては、元就親子は別に他意はないのでご希望とあれば九州の大友家までお送りしてもよい。しかし城主の内藤隆世は許せないので切腹させてほしい」との矢文を勝山城に打込んだのである。義長はその矢文を信じ、内藤隆世を犠牲にし切腹させ城外に出たが、約束は果たされず、再び毛利軍に攻められたので、遂に長福寺(功山寺)に落ちび、今はこれまでと切腹し、あわれにも立派な最期を遂げたのである。

大内氏に仕えていた毛利家がその後勢力を増大して、結果的には主家にあたる大内氏を長府の功山寺で滅亡させたのであるが、その功山寺が毛利家の菩提所となり、しかも同じ墓地に亡ぼされた大内氏最後の義長の墓があるのは、奇しくも皮肉な因縁であり、義長の辞世に「玉の緒よ幾世経るとも繰返えせなおをだまきに掛けて恨みん」とあるごとく、痛恨の念止みがたいものがあり、義長の霊としても甚だ居心地の悪い場所で、死してのちなおも安住のできない義長が、不びんでならず、心から同情し哀れをもよおすのである。


長門鋳銭所跡

長府覚苑寺境内の石段の下に「史蹟長門鋳銭所跡」と彫った写真のような御影石の大きな石碑が建っている。これは下関における国指定の史跡四カ所(長門鋳銭所跡、高杉晋作墓、中山忠光墓、綾羅木郷通跡)の中の一つである。

またこの遺跡から出土した銅貨の和同開珎(わどうかいほう·わどうかいちん)や鋳型などは、同じく国指定の重要文化財になっており、長府博物館に管理保存されている。

和同開珎というのは、日本で最初につくられた貨幣のことで、和銅年間(七一○年前後)に日本の国内数カ所に鋳造所が設置され、貨幣の鋳造が行われたのであるが、そのうち現在、実際にその場所が確認されたのは、長門国鋳銭所に山城国鋳銭所(京都府)であり、国の史跡として指定されたのは、日本全国の中でただ一ヵ所この長門国鋳銭所だけである。

史跡に指定されたきっかけをつくった、重要文化財の和同開珎、鋳型、ふいごなどの出土品は、大正十年に一部発掘されたもので、まだまだ調査不十分であり、日本一の真価が十分に立証され再認議されるよう、今後の発掘調査に期待するものである。

当初の鋳銭所は各国府に置かれ役人が任命されたのであるが、長府の長門鋳銭所には長官、次官、主典という役人が七名と、鋳造の技師三名と職人五名がいたようである。また銅貨鋳造の原料となる銅鉱は、熊毛郡平生町の牛島、防府市大道切畑、阿武郡阿東町生雲、美祢郡美東町大田等から搬入したことが資料に残っている。そして鋳銭所経営については銅鉱や労働力の確保に苦心し、そのうえ風水害や海賊の被害もあって、たいへん苦労したことが記録されている。

その昔、中国から渡来した貨幣を真似てつくった日本の和同開珎が、その後、中国からも発掘されているが、この事実を深く考えるとき、大陸渡来の中継地、そして和同開珎鋳造所、さらに遣唐船の中継基地としての下関が、なんらかの形で関係しており、糸をひいているように思えてならないのである。


乃木家父子訓戒の像

長府乃木神社の境内に、質素な造りの乃木邸がある。この乃木邸は、乃木大将(希典)が少年時代を過ごした当時の旧邸を復元し、大正三年に建設されたもので六畳、三畳の二間に押入れと二坪の土間という たいへん質素なものである。

乃木大将の父希次は長府毛利藩士であったが、この家の状況をみると、当時の武士がいかに倹約し苦しい生活に耐えていたかがわかる。生活用品も最低の限られたものだけであり、押入れも少ないので、ふとんなどの寝具は大きな木綿の布に包み、天井からつるしてある。そして家具調度類はほとんどないが、しかし鎧(よろい)や刀、弓、それらを納める鎧撒や刀掛けなど武士の魂といわれる武具は、すばらしく立派なものが備えられており、武士の面目曜如たるものがある。

乃木大将の少年時代は憶病で陰気な子であり、幼名の無人(なきと)をもじって泣人と呼ばれたので、父親はなんとかして国家のために、役立つ強い人間に育てたいと考え、雪の朝寒いと言った希典を、井戸ばたでハダカにして頭から冷水を浴びせたり、長府の刑場に連れて行き、罪人の生首をむりやりに見せたりし、また母親も希典がニンジンが嫌いと言うと、三日も四日も、ニンジンのおかずばかり出して、とうとう食べず嫌いを直したということで、両親のスパルタ教育によって大将は育てられたのである。

乃木邸にあるこの訓戒の像も、そうした教育の場を物語るものであり、希典少年の何かをこらえているような表情、責任を感じている慈母の顔、そして厳父の表情がそれぞれよく浮彫りにされている。乃木大将は片目義眼、片耳は難聴、その上片足も不自由であったが、その苦痛をもらしたことはなく、特に片目が義眼であるのは、幼時、母親が蚊帳(かや)を始末するとき、あやまって取手の金具を大将の目にぶっつけたのが原因であるが、そのことは死ぬまで誰にも話さなかったということである。

乃木大将夫妻殉死のことも、いろいろ論じられているが、英雄でも名将でもない人間乃木さんの評価と魂は変るものではなく、今後もふるさと長府いや下関の生んだ偉人として永遠に敬愛されるであろう。


田上菊舎句碑

女流俳人として加賀の千代とならび称せられる田上菊舎は、宝暦三年(一七五三)十月、田上由永の長女として豊浦郡田耕(現豊北町)に生れた。十六歳のとき同じ村の農家村田家に嫁いだが、結婚して八年目の二十四歳のとき、やさしい夫の利之助が急死したので、長府に移っていた父由永のもとに帰った。

幼少のときから俳句が好きだった彼女は、安永九年(一七八一)二十八歳のとき長府を立って尼僧となり、俳道修業の旅へ出発、門出の句として「月を笠に着て遊はばや旅の空」が残されている。彼女はたいへん旅が好きで、当時不自由な女の身にもかかわらず、京都、江戸、北陸、九州へ何度も出かけ、死ぬまで旅を続け、旅にあこがれていた。

しかし旅といっても最近のレジャーとは異なり、俳句の勉強のための旅で、京都や美濃など各地で有名な俳句の師匠に学び、また茶道、琴、詩、書についても、それぞれ立派な師匠に教えを乞い、その奥儀を究めるまで励んで身につけたのであるが、さらに村井琴山、亀井南冥に漢学を習うなど、儒者、禅僧、詩人らと交遊を重ね、知議を広めるとともに風流の道を深めた。

彼女の才能が長府藩主毛利元義にみとめられ、この殿様からたいへん可愛がられたことが記録に残されているが、また一説によると彼女が醸女であったといわれているのは、次のようないきさつが語り伝えられたからである。ある門人の一人が、からかい半分に「長門なる菊舎の顔は鬼瓦」と発句する と、彼女は即座に「世の俳人を下に見るかな」とやり返したので、一座の者が彼女のすぐれた機智に舌を巻いたという。

彼女の代表的な「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」の句碑が、長府大乗寺墓地(写真掲載)植村精吾の墓のそばにあるが、彼女が発句した宇治の黄柴山万福寺境内入口にも、この句碑が建てられている。

長門の女流俳人として有名になった田上菊舎は文政九年(一八二六)八月、「無量寺の宝の山やほととぎす」の辞世を残し、長府印内の自宅で七十四歳の生涯を終えた。徳応寺と本覚寺に彼女の墓碑があり、また徳応寺境内には「雲となる花の父母なり春の雨」の句を刻んだ文塚がある。


八幡御旅所

市内にはたくさんの御旅所(おたびしょ)があり、ちょっと思い出すだけでも長府前八幡町の旧街道(忌宮神社)、王司永富独噛庵碑のそば(宇部八幡宮)、清末パス停付近(清末八幡宮)、小月神社下、吉見八幡宮横、吉母若宮神社下などが挙げられるが、数多くの中には既にお宮もなくなって、無用になったものや、忘れられたものもある。

そして、せっかく立派な御旅所が残っていても、その意味を知らない人が多いのは残念である。御旅所とは神社のお祭りの際、神輿(みこし)が仮に鎮座される所で石台があるが、要するに一年に一回か二回かの大祭に、神様が御本殿から出られ、神輿に乗られて大衆の場に出られるわけで、神輿の御巡幸によって旅をされ民情視察をされるのである。

町の人びともこの時ばかりは、いかめしい神様を身近に拝むことができ、親しく感じて、お賽銭を奮発し、たくさんの願いをお頼みして御利益にあやかろうとする。神様自身も、年中薄暗い厳粛な場所に堅苦しく鎮座しておられるのであるから、御旅所におい出になるのはたいへん楽しみであるうと思われる。

長府前八幡の旧街道に面したこの御旅所は、市内の御旅所の中でもいちばん大きな立派なもので、鳥居やこま犬もあり「八幡御旅所」と彫った碑まで建てられ、周囲を玉垣で仕切られて御神域の一端であることをうかがうことができ、忌宮神社隆盛のころがしのばれるのである。

戦後は神社の権威や尊厳さもうすれてしまい、御神域である御旅所も荒れ果てて遊び場と化し、何も知らない子どもが、台の上でひょいひょいと飛びながら遊んでいたが、今では、いわれを教えたり注意してやる人もいなくな ったようである。それにしても、無邪気な子どもの笑顔が忘れられぬ楽しい御旅所の出合いであった。


四王寺、石鎚神社への道

山陽線長府駅手前の、踏切をこえて山手に向かう道は、年に一回初寅参りでにぎわうが、日ごろは静かな田園地帯だと思っていたところ、最近は丘の上までぎっしり家が建てこんできた。小川をさかのぼっていくと、二、三本の栗の大樹が新興住宅に取囲まれ迷惑顔に、それでも昔のおもかげを伝えてくれる。以前はこのあたり段々畑や田んぼがあって、夜は蛍がむれ飛んでいたところである。丘の上から山ぎわに入るあたりはまだ開発されておらず、緑陰の間からせせらぎの音が聞こえてくる。

右の土手上にちょっとユーモラスな仁王様があり、登りつめたところは桜並木のうっそうとした広場で、石鎚神社の鳥居と四王司登山口の案内がかかっている。また近くの暗い木立ちの中には滝が流れていて、信者の修行場になっている。鳥居をくぐって急な参道を上ると古びた二の鳥居があり、享保十年(一七二五)の記録が残されていて、古くから信者の信仰の篤いことを物語っている。

境内から眺める満珠干珠を浮かべた海の美しさは格別であり、御神殿の背景となっている四王司山麓のさまざまな樹木のいろどりが、したたるようにあざやかである。神域全体が地形を利用してよく手入れされ、たくさんの草花が咲いているのもおくゆかしい。青銅で葺かれた御神殿も立派であるが、六地蔵や十三仏は密教的で新しいものである。こうした新しいものが多い中に、少し古い役行者の像を見つけたのは嬉しかった。

日曜日や祭日にはテレビばかり見ないで、ちょっと足をのばせば、市内でもまだこのようにひなびた自然のおもかげを見つけることができ、神社にお参りして祈願し、なお四王司山へも向かえば適当な運動にもなり、心身ともにすっきりしてストレス解消にも役立つのではあるまいか。


櫛崎城と長府城下町

関ヶ原の敗戦により毛利氏は慶長五年(一六〇〇)十月、防長二国に減封され、輝元は萩に移封されたが、秀元は十一月に長府に入った。

秀元の居城をどこにするかについて、家老椙杜(すぎのもり)下総守は、うしろに山をひかえた穀倉地帯清末の笠山を桂藤兵衛は阿弥陀寺の紅石山が交通の要路であり、商業が盛んで出船入り船の便がよいと強く推し、西以節は豊浦宮が置かれた長府の城山(串崎)を主張して互いにゆずらなかったが、結局は、かつて大内氏の家臣内藤隆春の居城であった櫛崎城を再築して、慶長七年に入城したのである。

串崎は周防灘にむかって突き出した半島で、東南の二面は数十メートルの断崖絶壁が続いてすそは波浪に洗われ、北西の二面は人工の石垣により人の近づくことを許さず、まことに要害堅固の城であったと記録されている。

しかしこの城も、元和元年(一六ー五)に発令された徳川幕府の政策による一国一城制によって廃城の運命となり、再築後わずか十三年で城の長い歴史に終止符を打った。

そして廃城の代わりに御殿が築かれて藩主の居館となり、家老の館や武家屋敷も築かれて、長府の城下町は次第に形を整え繁栄していったのである。

昨今の城下町ブーム、土塀ブームにより長府を訪れる人が多くなったが、ただ城下町をさすらい、土塀を眺めるだけの観光客が多いのは残念である。

観光客を迎える立場としても、土塀に案内する前に、土塀がなぜあるのかということを深く考える必要があり、そのことによりはじめて城下町、土の認識や理解も生れ、真実の愛着につながると思う。

長府を訪れたある若い女性の観光客が「城下町っていうけれど、どこにお城があるの」とたずねたそうだが、この素朴な質問にはたいへん重要な意味が含まれており、われわれが忘れていた大切なことを思い出させてくれるものである。

長府城下町を築くきっかけとなった櫛崎城趾の哀れな姿を眺めるとき、城下町の観光は、土塀の保存よりも前に、先ず城を見直し大切にすることから始められるべきではないかと痛感されるのである。

 
長府黒門の西洋館

長府松原のバス停から川沿いに黒門の方へ入ると、長い塀をめぐらした中部邸があり、塀にしたがって進むと突然、暗い木立ちが現われる。

昼の明かるい日ざしの中で、そこだけが取残されたように異常に暗いので、何だか神秘的な予感がするのであるが、その木立ちの中を進み、左へ回ったところに空家の西洋館がある。

地元の人びとからはお化け屋敷とか、幽霊屋敷とか呼ばれ、強い好奇心で眺められながらも敬遠されているようである。

この西洋館は、古川薫さんの「海と西洋館」という本にくわしく書かれているが、第一次世界大戦のとき(一九一四から一九一八)、海運業により一躍富豪となった田中隆が、有名なイギリスの建築技師 ハンセルに設計を依頼して建設したもので、建物の外郭が出来上ったとき、惜しくも田中家が倒産したので、そのまま今日まで及んでいるのであって、田中隆の希望もあり、まだ何人も住んだことのない因縁に包まれた豪華な邸宅なのである。

ハンセルの設計した建物に唐戸の考古館(旧英国領事館)があるが、この方は役所の建物であるため平凡な設計であり、この黒門の邸宅とは雲泥の差がある。

広大な芝生を控えたレンガづくりの西洋館のたたずまいはすばらしく、荒れ果てた滅びの姿がかえって神秘的な魅力となり、はっと息をのむほどの凄絶な美しさである。

特に英国から取寄せたという赤レンガは、なまなましい色あいを見せ、あたかも美女の湯上りの肌のように、みずみずしい光りにうるおっており、私はいまだかつて、このように美しいレンガの色を見たことがない。

しかし残念なことに、今年の18号台風のあおりを受けて、このみごとな西洋館は以前よりも一段と荒廃し、もはや屋根の陥没も時間の問題であり、やがて痛ましくも解体される運命にあるようだが、あまりにも美しい建物ゆえに、保存の道はないものかと惜しまれてならない。


日頼寺と仲哀天皇陵

長府松原のパス停から山手へ五分ばかり歩いた突きあたりに禅宗の日頼寺がある。

日頼寺は長府藩主初代秀元が萩本藩毛利元就の菩提を弔うため建てたもので、元就の法号にちなんで日頼寺と称したが、秀元が祖父にあたる元就をたいへん尊敬していたことが察せられる。

当時、寺には元就の使用した頭巾や愛用の印籠が寺宝にされていたといわれ、また仲哀天皇聖地輪旨や足利尊氏、大内義隆、毛利元就、元清(秀元の父)、秀元らの古文書も寺宝として残されている。

このように格式の高い寺であったが、明治新政府の神仏分離令により菩提所が廃止、寺領も召上げられることになり、住職に対しても還俗して、新たに忌宮神社の神職になるよう沙汰があったが、時の住職は頑として拒否し終身立派に僧職を全うされ、それ以後現在の原田住職に至るまで、連綿として法灯を守り続けて来られたのである。

境内にはモクセイ、モミジ、イチョウ、サザンカ、サクラの木が多く四季をいろどって美しい。
また長府藩家老や学者三輪東皐の墓もある。

日頼寺の山門を入って右側のくずれかかった古い石段をのぼっていくと、仲哀天皇の御殯斂地(ごひんれんち)がある。殯斂地とは御仮埋葬所のことでありこの日頼寺のほか華山の頂上にもあるが、正式の御陵は大阪府藤井寺市にある。

仲哀天皇は豊浦宮を根拠地として、神功皇后、武内宿禰らとともに九州の熊襲征伐に向かわれたとき、香椎宮でにわかに病に倒れ亡くなられたのである。

忌宮神社付近が豊浦宮の跡であるという説からすれば、近くの日頼寺の山に遺体を埋葬されたことは、当然のこととしてうなずかれるのである。

訪れる人とてない静かな森のなかに、落葉に埋もれ眠っている円形御陵の前にたたずむと、はるかな遠い昔のことが、重い記憶の底からまぼろしのようによみがえって、薄暗い木立ちの中をかすかによぎって行くのであった。


長府笑山寺

長府の町並の中でも壇具川に沿って功山寺に至るコースは、城下町の風情を伝える最高の散歩道である。

清らかなせせらぎには、橋と土塀の美しい影が揺れ、四季をいろどる花の姿が絶えないやすらぎの道である。

この川の上流に長府毛利家菩提寺の一つとして笑山寺があり、二代藩主光広と七代藩主師就および家族の墓があるが、特に光広の墓は市内でも最大の五輪塔で、みごとな御影石の墓塔は、堂々としてあたりを威圧するほどの威厳と風格をそなえている。

それにしても、あまり巨大で立派すぎるため、この墓塔に寄り添っている二基の小さな五輪塔がよけいに哀れをそそるのである。

これは井上と羽仁の二人の姓だけしか記録に残っていないが、おそらく藩主光広の死に殉じた家臣の墓に相違なく、当時既に殉死が禁じられていたので、内密に処理し、記録も故意に省いたと思われるのである。

五輪塔は平安時代の後期(一一〇〇年)ごろから現われた日本独特の石塔で、形は上から空輪(宝珠)、風輪(請花)、火輪(笠)、水輪(塔身)、地輪(基礎)の五つの部分からなり、鎌倉時代のころ流行し、最初は大日如来をまつる供養塔であったが、時代とともに墓塔として建てられるようになったのである。

この墓地は背後に竹林と雑木林が迫っており訪れる人も少ないので、光広の五輪塔の下にはスズメパチがたくさん巣をつくっていて、容易に近づくことができず、殉死したけなげな家臣に代ってハチが墓を守っているのである。

本堂には等身大の美しい如意輪観音が安置され、境内地に十三重の石塔やマッチ王瀧川辨三の彰功碑も建てられ、さらに裏手には梅林もあって風雅な環境を誇っており、長府毛利家菩提寺としての格式を伝えている。


長府功山寺山門

長府の城下町を訪れた観光客は、必ずといっていいほど、みんな功山寺を訪れる。観光客だけでなく、地元下関に住んでいる者も、一年に一回は功山寺に、参る人が多い。

それは国宝の仏殿をはじめとする、おびただしい文化財があり、さらに史跡として、大内氏滅亡の地、長府毛利家の菩提寺、そして幕末動乱期における五卿遺談の地であり、また高杉晋作回天義挙の記念すべき場所でもあるからだが、なおその上に、縁の深い木立につつまれた、閑静なたたずまいが人びとを魅了するのである。

右手の参道をのぽっていくと左のお堂の中に、県の文化財に指定された、踏み下げ足の珍しい地蔵菩薩が安置されているが、見逃す人が多い。

薄暗い木立の冷気の中をさらに進むと、目の前に立ちはだかるように山門が迫ってくるが、このあたりがいちばん美しい眺めではなかろうか。右手に楠の大樹、左手にもみじの枝が交差し、それぞれのみどりが逆光にはなやいで、暗い山門と美しい調和をなし、なお楼門の空間をとおして見る国宝の仏殿がすばらしい。

このみごとな山門は、安永二年(一七七三)、長府藩主一〇代毛利匡芳の命により建てられたもので、二重ヤグラの入母屋造りとなっており、本瓦葺の屋根が優美な反りを見せ、山門の木材はすべて棒(けやき)の素木で造られているといわれ、昭和四十五年に市の文化財に指定された。

思えばこの楼門の下を、藩主の葬列が粛々と進んだのであり、また奇兵隊に護られた五卿が到着されたが、二カ月足らずで太宰府へ引渡されるなど、さらに元治元年(一八六四)十二月には、高杉晋作がこの五卿に訣別し、雪を蹴立てて出陣する等々、楼門の下に立ってじっと耳をすますと、長い風雪に耐えた古い山門や石のきざはしが、その当時の情景を、つぶやくように物語語ってくれるのである。


長府毛利家菩提寺

長府毛利家の菩提寺は功山寺、笑山寺、覚苑寺と三つあり、藩主だけを取上げてみると、功山寺(初代秀元、五代元矩、九代匡満、十代匡芳、十一代元義、十二代元運、十四代元教、十五代元雄)、笑山寺(二代光広 七代師就)、覚苑寺(三代綱元、六代匡広、十三代元周)となっており、特に功山寺は長府毛利の開祖、初代藩主秀元をはじめ九人の藩主及び多数の家族の墓があって、格式もいちばん高く、よく保存されており、昔のおもかげを伝えている。

参道の両側には、各家老の寄進した灯ろうがずらりと並び、正面の一段と高くなった玉垣内の中央には、簡潔にして気品の高い初代秀元の五輪塔があり、そのほか秀元の後室(後妻)、秀元の祖母、そして五人の藩主と一人の嫡男が葬られている。

また参道の右うしろには、それぞれ家族の墓、さらにそのまた後列に藩主側室の墓が並んでいる。ところで秀元の後妻の墓があるのに、先妻のがないことを不審に思い調査したところ、興味ある事実が判明した。

秀元は豊臣秀吉の厚い信任を得ていたので秀の字を賜わり、また秀吉の養女を正室にあてがわれ結婚したのであるが、記録によると慶長十四年(一六〇九)彼女は二十二歳で死去し、長府功山寺に墓があると書かれているが実際にはない。

そして秀吉の死後、徳川家康の天下となって、豊臣方についた毛利家は減封されたが、秀元の後妻には政略結婚として、慶長十八年(一六一三)に、こんどは家康の養女が押しつけられたのである。

そうした経緯により家康の天下に遠慮して、記録には残っている筈の先妻の墓も、いつの間にか取り除かれたに違いなく、その後、後妻の墓だけが建てられたと推定され、天下の政権の変遷が、この墓にも如実に現われており、それにしても歯の抜けたように先妻の墓がないのがひとしお哀れをそそるのである。


野久留米街道

前田のバス停から山手へ入り長府へ抜ける裏道は、野久留米街道と呼ばれるひなびた道である。国道からわずかしか離れていないが、山によって隔てられているので、うそのように静かなたたずまいを見せているが、最近は団地の進出が迫ってきたので、風情あるおもむきも、いましばらくの間であろう。

この道はまた、元治元年(一八六四) 十二月十五日、高杉晋作が功山寺で挙兵のあと、馬関新地会所を目ざして、ひた走りに走った歴史的な道でもある。

ゆるやかな上り道をたどって行くと、両側の花畑が目を楽しませてくれ、左の山手には平家部落で有名な、高畑へ通じる道もある。道が上り坂になったところに五輪塔が安置され、そばの井戸にはきれいな清水が溢れている。土手の上の木陰にお堂もあって、ちょっとした憩い場になっており、休んで行きたい誘惑にかられる。

ゆったりした峠を少し下ったところ、長府の海と城下町が望見され、道ばたに古びた庚申塚がある。さらに下るにしたがって、野久留米の谷間に点在する人家の一つ一つが浮かびあがってくる。

そして石橋のそばに広瀬中佐展墓の碑が建っているのが見える。これは日露戦争の時、旅順港封鎖の作戦に壮烈な戦死をとげた広瀬中佐が、出征前に海軍兵学校時代からの親友であった当地、福田久槌の墓参に、わぎわざ来訪したことを記念したもので、部下の杉野兵曹長を探して帰るうちに、敵弾に倒れた広瀬中佐のおくゆかしい人柄が、ここでもうかがわれるのである。

さらに小さな石橋を渡り、少し行ったところから左手の山道を登ると、美しい谷山ダムへと通じている。

このように変化にとんだ旧街道のおわりは、そのまま長府につながり、功山寺の前に出るが、野久留米街道の楽しい散歩のあとに、由緒ある名刹をたずね、落着いた城下町を散策するのもまた一興であろう。


高畑平家落人の道

前田のパス停から、山手に向かう道を川に沿って進むと、突きあたりに霊鷲山(りょうじゅさん)登山口の案内板があるが、案内板のところから、来た道をそのまま右へしばらく行くと、花畑や野菜畑が続き、少し上りつめた所にまた左へ登る道がある。

今来た野久留米街道に別れを告げて、この左の道を進むと、やがてこの写真のような場面に出会うのである。お堂のような屋根の下に四体の可愛いお地蔵さんが祀ってあり、大きな岩の裂け目から冷たい清水がこんこんとあふれ、ただ人影のない静寂な光景の中に、湧き出る水の音のみが涼しくひびき、その響きがますます静けさを深くしており、時の流れも一瞬停止したようなふん囲気である。市内で、岩清水の湧き出ているこのように静かな美しい光景は、他に見ることはできないのではあるまいか…。いつまでも去りがたく心に残る風景である。

さてこの流れをあとに道を登りきると、そこは切通しになっており、右の土手上に七基の五輪塔があって「平家やぶ」とも「火やぶ」とも呼ばばれ恐れられている。このやぶに足を入れると、ふるいが付き、悪いことが起きる。また火の玉が出るというので、地元の人はさわらぬようにしているが、事実、病気になったり、災厄を受けた人もいるのである。

さらに左手の小高い丘にも五輪塔が二基あって、これは「高山さん」と呼ばれ、平家やぶに葬られた人びとよりも、身分の高い武将の墓であると信じられている。

ともあれ、街道から離れて秘境のようなこの高畑の村落は、昔から平家落人のかくれ里として言い伝えられてきたが、お地蔵さんの泉や、平家やぶの五輪塔を見るとき、平家滅亡の伝説がまだ息づいているのを感じ、諸行無常、盛者必衰の思いが、今さらながら、しみじみとこみあげてくるのである。


平家一杯水の伝説

寿永四年(一一八五)三月二十四日、源平最後の合戦は関門海峡で火ぶたを切られ、もう落ちのびて行くところもない平家は、ここを先途とばかりけんめいに戦ったが、あわれにも利あらずして、空しく海底の藻屑と消え、平家は完全に滅亡したのである。

この合戦の終りのころ、傷ついた平家の武将が息たえだえとなって前田の海岸へ漂着した。余命いくばくもない武将は、最後の力をふりしぼって岸辺へ這い上り「水、水を」とうめくのであった。海峡の波がはげしく洗うこの磯に、飲み水があろう筈もなく思われたのに瀕死の武者の念力が通じたのであろうか不思議にも荒磯の石の間に泉が湧いているのが目に映り、武将は夢心地で一杯受けて一息にごくりと飲んだ。その水の何とうまかったことか、もうろうとしていた意識もはっきりして生きる力がよみがえった武者が、もう一杯と飲んだ二杯目は塩からい海水に変っていた。

つまり末期の水として一杯だけ飲んで南無阿弥陀仏の世界に入る者にとってはおいしい真水であるが、息を吹き返してもう一杯という者にとっては、ただの海水となったという平家伝説である。

私はこの伝説を読むたびに日出(ひじ)の城下(しろした)カレイを思い出す。別府に近い海岸の町、日出の城下カレイは食通から美味を認められているが、このマコガレイが特にうまいのは、城壁の下の海底から真水が湧いているところにすみ、淡水と海水とが混じるところにいるので、味がよくなるのだといわれている。

そういえば関門海峡のカレイも全国的に有名であり、ひょっとしたら海底のどこかで真水が湧いているのかもしれない。したがって平家一杯水の伝説もまんざら架空の話でなく、日出の城下のように、おそらく前田の磯にも真水の湧くところがあったのではなかろうかと想像されるのであり、それにもとづいて伝説が生まれたとしても不思議ではないのである。

そうした推理やせんさくはともかくとして、前田の海岸に安置された平家一杯水の小さな鳥居とやしろは、海峡の流れを背にしてたいへん印象的であり、平家供養のあたたかい心情が、伝説の時代から現在まで、はるばると人びとに受けつがれ伝えられ、ほのぽのとした人情を象徴しているのである。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)