旧西細江町あたり、下関市細江町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西細江 なつかしの駅前旅館

写真は今の細江交差点あたりの街なみである。下関駅が細江にあったころだ。

下関駅(旧)から歩いてくると、山陽ホテルや郵便局を左側に見ながら、写真の建物がちょうど正面に位置していた。白いコンクリートづくりの建物は百十銀行西支店。その向う側はいわば駅前旅館街。手前から、いとう旅館、長洋館などが並び建っていた。

詩人,立原道造の昭和十三年十二月一日の日起の一部をのぞいてみよう。

「下関の駅前旅館。佗しい三階建の旅館だが何かしらいいところがある。たとえば僕が便所を教えられて便所だと思って戸をあけると、こわれた椅子だの何かがくらがりに積んであって、便所は背中のほうにあったことだの、お風呂はいらないというとお風呂は銭湯へ行ってくれといわれたことだの」「駅前に立っていた円タクの助手のような男にここまで連れられて来てしまったのだ。三階の窓から見ると、前は電車通りで、神谷町で待っていた築地の電車とおなじ車体の電車がとまる。
その音が轟々したり、もう十二時近いので店はみなしめているが、人がときどきとおり、灯がまだともっている。久しぶりに町に「かえって」来たような気がする。一週間以上になる。こんな夜更けての町のふんい気なくなってからもう…」

このあと「この佗しさも悪くはないが、もっと宿さがしに冒険してもよかったのかもしれない」といったことを書き、すりきれた畳、古ぼけた柱、建具、まずしい家具の中でだんだん心がなごんでくる、と最後 結んでいる。

この電車通りに面した三階建ての駅前旅館…どうも写真にある長洋館ではないか、というのが多くの人たちの見方だ。百十銀行の手前のほうには「待合所」といった看板提灯も見える。この店の角に、日和山へ上っていく山陽通りがあった。山陽の通りに面して、亀の甲せんべいなど売っていた名産屋もあった。

現在の細江交差点から日和山方面に向う道路は戦後広くなったもので、この道路の西側部分は、かつて名産屋などの並んでいたところ。要通りは旅館の間を通り抜けていた。近くにしよう油屋を営む山中要蔵という実力者がおり「要通り」はこの人の名前からつけられたという。

山陽の通り、要通りと平行して西側に「みつわ通り」もあった。この通りに「ミツワ」という喫茶店もオープン、モダンな下関に色を添えたりしたものである。百十銀行の建物は、昭和の初めにはカフェに変身した。下関のカフェは、ツルヤが亀山の前につくったのが第一号とされるが、この駅前カフェも下関では早いほうだった。店名は「オリエント」。滝というのか噴水というのか,そんなしゃれたものをつけた池が店内にあり、酔客がどんどんここに戒び込んでは大騒ぎしたものだという。

この一帯は戦災であとかたもなく消失したが、要通りの名だけは残った。山陽の通り、みつわ通り、さらには国道部分に当る山陽の浜といった愛称はいつの間にかなくなってしまった。国道九号、あるいは市道何号線といった呼称も結構だが、わが町の通りとしての愛着を強くするためにも、それぞれの通り耋称だけはぜひ復活してもらいたいものだ。

たとえそれが町内だけのものであっても…

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


山陽の浜 関の郷愁の原点

五十二年七月末、市政八十八年を記念して盛大に催された市民祭。この人混みのなかで、かつての山陽の浜の賑わいを思い出された人たちも多かったはずである。

西細江町。小舟相手の舟大工や商家の並ぶ小さな町だった。明治三十四年、沖を埋 立て駅が登場してからというもの、駅から東に延びる山陽通りは大いに繁盛した。

今の細江の国道部である。次々に宿屋や店が建ち、船だまりとなっていた海岸べりは終日賑わい、特に日が落ちてからは夜店がズラリと並ん
だ。

唐戸湾が埋立てられてからはますます小舟がここに集中し、賑わいに拍車をかけた。ガマの油、台湾バナナのたたき、のぞき、射的場、おでん、うどん… 何でもそろっていた。「カチューシャかわいや」とうたう艶歌師、それについて歌本を売る娘。

冷(ひや)こて甘いアイスクリーン(決してクリームではなかった)は子どもたちの人気の的だった。
五銭出してミルクセーキを飲むと、子ども仲間では自慢のタネになった。

桃柑子芭蕉の実売る磯街の露店(よみせ)の油煙青海にゆく(下関にて)

若山牧水が二十四歳(明治四十一年)に処女歌集「海の声」におさめたこの歌は、下関·山陽の浜風景をうたったものとされている。

大正時代も終わりのころには映画館、というより活動館、山陽クラブもできた。何でも十銭という、十銭ストアもこのあとに登場した。まさに関の銀座そのものであった。

昭和に入ると山陽百貨店もオープン、山陽ホテル屋上には今でいうビヤガーデンも店開きし、五色の提灯が海峡の風に揺れた。この浜も昭和十三年の埋立てで電車が通るようになってからは大きな建物が並びだし、夜店も消えていった。しかし、駅からはき出される関釜連絡船旅客がこの歓楽街に落とす金は、まだまだ莫大なるものであった。

が、長びく戦争にこの浜もカーキー色の戦時色一色となり、昭和十七年、駅が竹崎に移ってからというもの、関の名物は完全に消え去り、人々の心の中に郷愁として今日まで伝えられているのである。戦災で丘側の家は焼け、三十六メートルもある道路が苫に目立つ状態が続いた。この間、銀行や一般事業所がぽつん、ぽつんと建ったが、かつての賑わいをとり戻すものではなかった。

二十年代の終わり、船だまり約二万六千平方メートルは跡形もなく埋められてしまったのである。ひところは横綱千代乃山一行の大相撲巡業、移動動物園などがここで興業、サーカスのジンタのリズムが山陽の浜の賑わいを思い起こさせたりしたこともあった。

山陽の浜の思い出を忘れがたい人たちは広大な埋立て地利用に際して公園化を訴え、市もその方向で動いた。が、どこでどう変わったのか、結局は商店街とも歓楽街ともビジネス街とも区分けのつかぬ、まことに中途半端な町となり現在に至っているのである。ここにあるトラックセンターも数年前から移転話が出ては消えしている。

もし当初予定通りに公園化されていたら… 近所に住み、山陽の浜の栄枯をじっと見つめてきた郷土史家·佐藤治さんは、そう言うときっと口を真一文字に結んだ。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)


参考

① 西細江町あたりの今昔

1930年(昭和⑤年)    赤丸: 山陽の浜、青丸: 西細江町

1963年(昭和38年)


② 旧下関駅が出来た頃(参考)


③ 細江湾と山陽デパート(参考)


④ 山陽デパート(参考)


⑤ 旧下関駅(参考)


⑥ 旧下関駅前、西細江町(参考)