昭和39年の下関港に着岸する4本煙突の大型船は何であろうか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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以下の二枚の写真は、二隻の大型船がよく似ており、また、左の黒い木造家屋が同一であり、同じ二隻の船舶を違った角度から撮影したと思われる。撮影時期は関門連絡路の廃止時期と山口銀行本店の建設時期から昭和39年と判断した。

また、二枚目の写真については、火の山のロープウェイやTV塔が在るとすると昭和37年以前にまでは遡らない。やはり、これら二枚は同一時期であろう。

ならば、右の4本煙突の大型船は何であろうか?

澤忠宏氏の関門海峡渡船史では関釜連絡船としているが、これは有り得ない。関釜連絡船は昭和20年に消滅し、関釜フェリーは昭和45年に定期運行が開始されるからである。

実は、昭和39年に青函連絡船を退役した初代大雪丸と初代摩周丸(二隻とも洞爺丸型車載客船)が払い下げの為に下関港に到着しており、以下の二枚の写真は何れかであろう。

関門連絡船の最後が昭和39年10月31日であり、初代大雪丸が9月29日に下関港到着、初代摩周丸が11月20日に下関港到着であるから、以下の二枚の写真は関門連絡船と初代大雪丸であったことになる。

下関港に接岸の関釜連絡船と航行中の関門連絡船(建設中の山口銀行本店が左端に見える)

下関港に接岸の関釜連絡船と航行中の関門連絡船(中央の火の山の山頂にはTV塔、ローブウェイの駅が見える)

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)


追伸

最近、四本煙突の船が二隻(青函連絡船の初代大雪丸と初代摩周丸)と関門連絡船とその他の船が同時に写る写真が出てきた。推測であるが、廃船の処理を待って停泊していると考えられ、昭和40年頃の写真であろう。


参考

① 昭和39年当時の旧下関港

旧下関駅裏連絡船桟橋跡(昭和39年10月21日)

繁栄の港塔も今はなく、桟橋の残骸のみ痛々しく見ゆ、昔日の賑わい夢のごとし 。中央に建設中のビルは山口銀行本店、その後この附近一帯は埋立され、商港の倉庫地帯となっている。

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)


② 昭和39年前後の出来事

1963年(昭和38年)  現在の下関駅前 赤丸: 関門連絡路桟橋、青丸: 山口銀行本店建設予定地(旧下関鉄道病院跡地)

・山口銀行本店 1965年(昭和40年) - 本店を現在地 (下関鉄道病院跡地)に新築移転
・関釜連絡船 1945年(昭和20年) - 消滅
・関門連絡路 1964年(昭和39年) - 廃止
・関釜フェリー 1970年(昭和45)年6月 - 定期運行開始


1963年(昭和38年)  火の山 火の山ロープウェイとTV放送局建屋が見える。

・KRY山口放送関門局 1962年(昭和37年)4月1日 - 開局
・火の山ロープウェイ 1958年(昭和33年)4月1日 - 営業開始


③ 青函連絡船の四本煙突の洞爺丸型車載客船(摩周丸と大雪丸)の最後(wikiより)

初代摩周丸

1964年(昭和39年)10月26日 – 11便(青森第1岸壁0時30分発 函館第1岸壁5時00分着)で終航
•11月16日 - 下関へ回航のため函館出港
•11月20日 - 太平洋 豊後水道経由 下関到着

1966年(昭和41年)1月25日 – 久保忠義に売却


初代大雪丸(N.Eの玉手箱、参考)    背後のビルは山口銀行本店か!?

1964年(昭和39年)8月31日 - 13便(青森第2岸壁6時20分発 函館第2岸壁10時50分着)を以って青函航路終航

1964年(昭和39年)9月26日 - 下関へ回航のため函館を出港
•9月29日- 日本海経由で下関に到着

1966年(昭和41年)2月9日 - 三洋商事に売却
その後ギリシャへ転売され、主機械をディーゼルエンジンに換装、カーフェリーに改造され、「AEOLIS」と改称、エーゲ海で運航された。

1977年(昭和52年) -  キプロスに売却、「Sol-Phryne」と改称

1988年(昭和63年)2月15日 - パレスチナ解放機構にチャーターされる。イスラエルの特殊部隊によってキプロス共和国リマソールで燃料タンクを爆破され航行不能となったが、後に復帰。

1991年(平成3年)12月6日 - 運航中の火災により搭載車両に引火・爆発、アドリア海で沈没した。


④ 関門連絡船の最後(昭和39年10月31日)


最終日の風景(昭和39年10月31日)

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)


⑤ 関門連絡船の廃止(昭和39年10 月31日)後

廃止後ひっそりとした下関桟橋と長水丸

その後、この附近一帯は埋立されシーモール下関の敷地となった。

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)