戦前までの引接寺、下関市中之町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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空襲で消失した引接寺(現在の本堂はコンクリート造)


① 全権大使·李鴻章の宿泊地

清国全権大使の任を受けた李鴻章が、日清講話会議の際に宿泊した中之町の「引接(いんじょう)寺」。

明治28年3月20日に始まった同会議だが、24日の午後4時頃、寺への帰途中に凶漢に狙撃され負傷。会議が1ヵ月近くにおよぶ長丁場となったのは、この狙撃事件で2週間ほど休会になっていたためである。

北京を含む三つの省の最高責任者に選任され、洋務大臣まで兼任していた李鴻章にとって、さぞや無念の出来事だったと思われる。

(平原健二コレクション関門浪漫より)(彦島のけしきより)

李鴻章道(右端: 講和会議会場の春帆楼、左端: 引接寺)


② 朝鮮通信使の宿泊地

朝鮮通信使は朝鮮王朝が室町時代から江戸時代にかけて日本に派遣した外交使節団です。両国は、通信使によって「信(よしみ)」を「通(かよ)」わし、外交課題を克服しました。

室町時代の朝鮮通信使は7回計画され6回実行されましたが、来日を果たした通信使は3回でした。通信使は、足利将軍家の将軍襲職の祝賀、日本の国情探索、倭寇の禁圧要請などを主な目的としました。

その後、両国関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵《倭乱》で破綻しましたが、和平を願う朝鮮王朝は2度、秀吉に朝鮮通信使を派遣したものの、秀吉はこれを無視しました。

江戸時代になると、徳川家康や対馬藩の努力によって、両国関係は修復されました。その結果、慶長12年(1607)から再び朝鮮通信使が派遣されるようになり、12回の来日を数えました。

そのうち、国交回復間もない時期に派遣された第3回までの通信使は、朝鮮王朝では回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)として派遣しており、日本の国情探索と倭乱で連れ去られた朝鮮人俘虜の刷還(さっかん)を主な目的としました。両国関係が安定すると、朝鮮通信使は徳川将軍家の将軍襲職のたびに派遣され、両国の友好関係を国内外にアピールしました。また、政治的な意義に加え、文化的な交流が深まりました。

下関は、朝鮮通信使が初めて接する日本の都会で、潮待ちや風待ちなどのため、必ず滞在する必要がありました。対馬での易地聘礼となった最後の通信使を除く16度の通信使が当地に寄港しています。

特に、倭寇の禁圧要請が最大の使命となっていた室町時代の通信使は、倭寇に影響力を持つ大内氏とも信を通わす必要があったので、通信使は下関において、必ず大内氏の歴代当主と対面し、倭寇禁圧や海賊が横行する瀬戸内での通信使船の航行安全などを要請しました。この時代、下関は通信使の成否を握る重要な地でした。

通信使の下関での客館は、50人程度の人員であった室町時代は阿弥陀寺(現在の赤間神宮)300~500人規模となった江戸時代は阿弥陀寺と引接寺が充てられました。客館は使行のたびに修築され、豪華な調度品が華やかさを演出しました。阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、通信使の案内と警固のために随行した対馬藩主は馴染みの本陣伊藤家、対馬藩士は下関の商家数十件に分宿しました。

下関での迎接を担当した長州藩は、通信使一行をそれぞれの身分に応じて、豪華な料理や酒でもてなしました。また、山海の珍味、果物、菓子、名産品なども差し入れました。

阿弥陀寺では文化交流も盛んに行われ、防長の学者たちは朝鮮王朝一流の学者から、先進的な儒学や医学を学び、交流の成果を出版しました。江戸中期以降の防長(山口県)における学問の興隆は、朝鮮通信使がその一翼を担っていました。

下関市では、平成16年度から、下関市三大まつりのひとつである「馬関まつり」において、朝鮮通信使行列を再現しています。参加者は姉妹都市の韓国釜山広域市から来関した学生と市民で、これに公募の下関市民が加わります。両国市民が通信使衣装を身につけ、楽隊の演奏とともに市内を行進する様子は、両国の深い絆を象徴しています。

また、平成19年度には、下関市3団体・釜山広域市3団体による市民交流公演を実施し、まつりに華を添えるとともに「善隣友好・誠信交隣」の精神のもと、両市の市民レベルでの交流を一層深める契機としています。

下関・赤間関は朝鮮通信使の本土最初の寄港地です。江戸時代の通信使は対馬・壱岐(長崎県)、相島(福岡県)に立ち寄り、阿弥陀寺(現赤間神宮)前の桟橋に接岸し、上陸しました。

2001年8月、通信使の歴史と功績を後世に伝えようと、下関商工会議所や山口県日韓親善協会連合会などでつくる建立期成会が赤間神宮前の阿弥陀寺公園内に建立しました。石碑には、「朝鮮通信使の歴史的な意義を再認識し、一行上陸の当地に記念の石碑の建立、その歴史を恒久的に顕彰しようとする」との建立の趣旨が刻まれています。

(しものせき観光ホームページより)(彦島のけしきより)

下関市阿弥陀寺町6−22 朝鮮通信使上陸淹留之地の碑


③ 引接寺(いんじょうじ、参考)、浄土宗

住所: 山口県下関市中之町11-9

引接寺は、1560年(永禄3年)に現在の北九州市門司区より移創された浄土宗の寺院です。当時の建物は1945年(昭和20年)の大空襲で消失してしまい残っていませんが、有名な名工・左甚五郎の作と言われている大きな龍の彫刻がある三門は、18世紀に再建されて以降も戦災にも焼けずに残り、現在は下関市指定文化財になっています。

この三門には伝説があり、江戸時代末期、引接寺の前を通りかかった人が次々襲われる事件が起きましたが、その犯人は三門の彫刻の龍であり、武士によって龍は退治されたといわれています。実際に三門を見てみると、なるほど龍の胴体はスパッと切られています。この龍を見るために引接寺を訪れる方も少なくないそうです。

江戸時代には朝鮮通信使が江戸に向う途中逗留した場所でもあり、日清講和会議の清国全権李鴻章が滞在した場所でもあります。引接寺から春帆楼に通じる小道は、李鴻章が講和会議に通った道として「李鴻章道」と名付けられています。

下関の隠れキリシタンとの関係があった寺という説もあり、下関の著名人(伊藤助太夫、入江和作)のお墓もあるそうです。


④ 焼け残った引接寺の山門(参考)


永禄3年(1560)に創建された古刹。朝鮮通信使や、日清講和会議の際の李鴻章ら要人の宿泊施設としても使用されました。本堂は下関空襲で焼失し、左甚五郎作とも言われる龍の彫刻がある山門のみが残されています。


⑤ 現在も三門にのこる引接寺の龍

引接寺三門(昭和初期)

三門の天井には左甚五郎作と伝えられる木彫の龍があり、この龍にまつわる伝承がある。

現在も三門にのこる引接寺の龍

江戸時代の終わりころの話。この辺りは外浜と呼ばれ、山陽道の起終点で九州へ渡る重要な所でもあり藩の船番所や旅宿などが軒を並べて賑わっていた。

ある年のこと。夜中の11時ころ。引接寺の石段下で通りがかりの旅人が殺されるという事件が相次いだが、なかなか犯人が見つからなかった。そのうち大蛇のしわざとうわさされるようになった。

ある日、船着場の旅宿に泊っていたいかにも強そうな侍が、女中からその話を聞き、怪物退治に出かけた。そして石段下の広場で待ち受けていると、生ぬるい風が吹いて黒い大きなものが襲ってきた。侍はとっさに刀を抜いて切りつけた。確かな手ごたえとともにうめき声が聞えて、怪物のの姿は消え失せてしまった。翌朝早く広場に来てみると、黒々とした血痕があり、その血の跡をたどっていくと、お寺の石段を登り三門の下で消え
ていた。不思議に思って三門の天井を見上げると、そこに彫り込んである龍の胴体が真二つに切れていて、怪物の正体はこの龍であったという。

龍の彫刻は、何年ころ、誰の手で作られたのか、資料も焼失してわからないが見事な出来栄えから左甚五郎の作ともいわれている。

本堂は戦災で焼失したが、龍の彫刻のある三門は難を免がれ、今でも三門の天井に見事な龍を見ることができる。


引接寺(明治末年ころ)

現在地には慶長三年(一五九八)に門司から移ってきた。明治二十八年の日清講和会議のとき、清国全権大使李鴻章の宿泊所となった。昭和二十年の戦災で三門を残し焼失。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)(彦島のけしきより)


⑥ 引接寺の場所

下関市中之町11−9