何故、鑑真和上は困難な渡海を試みたとされているのか?? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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鑑真和上は苦難に満ちた渡海行動の末に日本に到達した、それも嵐に遭遇して対馬海流や日本海流に逆行して日本列島から遠く離れた逆方向に漂流したこともあった。また、遣唐使そのものの航海も容易ではなく成功率はそんなに高くなく、海での遭難がつきまとったとされている。

現在も昔も変わらないと思うが、プラスチックゴミなどを揚子江に放流すれば、九州や山口県辺りに自然に到着する。また、下関市豊北町の角島には中国の仏像が漂着している。最近、国立科学博物館のプロジェクトで台湾から西表島に丸木舟で渡海を成功させたが、対馬海流が速すぎて、渡りきるのに苦労した。すなわち、海流に乗れば容易に前進するが、逆行することには困難を伴うようだ。

それを裏付けるように、弥生人が稲作をもたらした頃以来、多くの人々が海を越えて日本にやって来た。朝鮮半島からの最短距離の渡海では無く、揚子江下流域辺りから九州や山口県への直行ルートが早くからあったようだ。また、既に1万6千年前には日本あたりから北米へ移住した考古学的な証拠があり(参考)、魏志倭人伝にも一年がかりで往復する太平洋の向こうの国があるとの記述があるように、航海技術は外洋航海のレベルに既に達していた。

遣唐使が唐を訪問した時代にも、多くの渡来人(縄文人の同族の殷人の末裔)が日本にやって来て、定住して今日に至る日本文化を作り上げた。さらに、民間交流は遣唐使が中止された後も活発に継続している。

それにも関わらず、遣唐使船は大型で遭難しやすいとか、皇帝に面会する時期が限られて嵐の時期に航海したとか、造船技術や航海術が未熟であったとか、色々、理由が後付けされている。大型船が危険なら小型船を多く出航させれば良いし、危険な航海時期を避けられないと言う解釈も釈然としない。遭難者の名前も残っており、まるきり嘘とは言えないが、遭難の規模がやけに大きいのに安全対策などの改善が見られない。

何か秘密がありそうだ!秘密の鍵は遣唐使の帰国航路であった。

実は帰国航路が判明していないのである。帰国者は北九州の鴻臚館に滞在して入国許可を待つ決まりになっており、着岸地が何処であろうとも態々、北九州の博多の鴻臚館に行っていたが、その肝心の着岸地がはっきりしない。

鑑真和上は例外で沖縄を経由して九州に着岸していることを除いて、空海、最澄、吉備真備の他、帰国者全員の日本本土の着岸地や上陸地が不明となっている。伝説では空海は下関市筋川の海岸、吉備真備は長門市仙崎の弁天島に着岸したことになっている。最澄は比叡山の記録では長門国に上陸したことになっているが、下関市の何処かであった(参考)。話がそれるが、楊貴妃は長門市の向津具半島に漂着した伝説がある(参考)。もちろん、円仁と鑑真和上を除いて、唐の出港地も明らかになっていない。

すなわち、唐から日本への渡海は極めて困難で、最適な渡海ルートは特に無いと、大和政権の政治的意図がうかがわれる。

実は、江戸時代にあった朝鮮通信使の往復の航路も、わざわざ対馬海流に逆行した航路で、それも予知困難な台風で海が荒れる夏季を江戸幕府が指定していた。数百年遡る元寇の時も、これと同じルートを矢張り同じ夏季に襲来していた。これに対し、大内氏や毛利氏は下関市豊北町の肥中港を基地として対馬海流を上手く利用した最適航路で中国や朝鮮と密貿易を行っていた(参考)。

遣唐使の時代、唐にいた縄文人の同族の殷人の末裔達は安全に日本に渡来出来るように内々に便宜を図ったが、渡来されては困る漢民族などの異民族には安全な航路を教えないと言う、意図が伺える。

鑑真和上は失明したのは史実であったと思われるが、海での遭難などが直接の原因であったことには疑問がある。


雑談

鑑真和上の坐像を見ると美しいお顔であり、海での遭難などで失明に至るお怪我をされた傷跡が見られなく、危険な渡海を経験されたとは想像出来ない。

唐招提寺蔵


参考

① 苦難に満ちた6回の渡海ー鑑真和尚の精神力を探る

vision times(2019.4.5、参考)

唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」

紀元742年、唐の高僧・鑑真は第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、日本の朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意しました。その時、鑑真は55歳でした。

鑑真の日本への渡海は実に苦難に満ちた旅でした。日本にたどり着くまで5回も渡海を失敗しました。ある時は同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、ある時は海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、また、ある時は遠く海南島に流される労苦を味わい、日本にたどり着くまでなんと12年の歳月を要しました。その間、鑑真は栄叡や弟子の祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明する不幸に見舞われ、そして、海路、陸上の旅で世を去った者36人、望みを放棄して彼のもとを去った者200余人に及びました。

紀元753年、6回目にしてようやく、鑑真は遂に日本の地を踏むことができました。


以後、鑑真は76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。鑑真は日本の律宗の開祖として尊敬され、そして、日本の仏教の発展に大いに力を尽くしました。

しかし、鑑真はなぜ命の危険を冒してまで海を渡らなければならなかったのでしょうか?

鑑真は当時、中国では既にかなり高い地位を築いており、そのまま行けば、戒律宗では中国最高位を占める地位になる可能性もある立場でした。この約束された地位を捨てて、当時「未開の国」と思われていた日本へ渡ることを選んだのはなぜでしょうか?

5回の航海を失敗し、12年の歳月を費やし、視力を失い、最愛の弟子を亡くし、大勢の人が去って行く中、鑑真は私達が想像もできないたくさんの困難に遭遇したことでしょう。しかし、鑑真は諦めず、苦難に耐え、信念を貫き、不撓不屈の精神でついに日本にたどり着いたのです。

鑑真のその強靭な精神力の源、はたまた渡海の動機はいったい何だったのでしょうか?

昨年「神韻芸術団の公演」で観た最初の舞踊劇を思い出しました。「黄金に輝く天の聖境に飾り帯をはためかせて舞い踊る仙女を神々は静かに見守ります。そこへまばゆい光が射し込み、創世主が到来されます。創世主が神々に自らの誓願を果たし、神の文化を人類に授けようと号令をかけるのです。その呼びかけに応じた宇宙の神々が地上に降り立ち、壮麗な神伝文化を創り上げます」との内容でした。

もし、鑑真が創世主の呼びかけに応じて宇宙から下りてきた神の1人だったとすれば、その謎は容易に解くことができます。神の文化を人類に授ける使命を果たすため、鑑真は創世主の真意を受け、神の文化をこの日本と言う島国に住む人々に伝授しようとし、そして、仏教の戒律を授け、日本の仏教界に秩序をもたらそうとしました。そのため、鑑真は執念を燃やし、私たちが想像もできない精神的、肉体的な苦難を乗り越え、遂に悲願が達成し、日本の地を踏まれました。さもなければ、鑑真のこの命をかけた渡海の動機を説明できるものがあるのでしょうか?

仏教の戒律の他にも、鑑真は味噌や砂糖、納豆、そして、医学の知識や漢方薬、さらに建築、彫刻の技術も日本に持ち込み、さらに、柿の木の並木も鑑真の弟子が日本に伝授したとも言われています。鑑真は身を粉にして自らの誓約を果たしたのです。

鑑真は創世主に対する誓いを果たすために、命がけで渡航をしたとするならば、これだけの苦難を嘗めさせても鑑真を日本に送り込まなければならなかった創世主の真意はいったい何だったのでしょうか?それは創世主がこの世の人々を加護してくださる慈悲なる心で解釈する以外に説明できるものがあるのでしょうか?

創世主に愛され、加護された我々はその広大な慈悲を感じているでしょうか?感謝しているでしょうか?

鑑真が嘗めてきたその苦難の数々を想像してみると、思わず涙が出ました。 (文・一心)


② 鑑真の渡海のルート(参考)、、、日本海流や対馬海流に逆らって漂流している。


第5回では季節風で漂流したとしているが、帆を下ろして対馬海流に身を任せれば北九州方向に自然に向かう。渡海に成功する第6回の沖縄航路は態々、対馬海流に逆らっている。


③ 遣唐使の往路(参考)

日本から中国大陸への往路の航路であり、帰国の復路は明らかになっていない。


④ 遣唐使船の航海(wikiより)

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする


⑤-1 遣唐使の中止後の民間交流

「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ーからの抜粋(参考)

・遣唐使中止以後も続く海外とのネットワーク

しかし、禅宗の定着や東大寺再建に多くの中国・宋からの渡来人が関わったことは、それぞれ孤立した事象ではないのである。この背景には、平安時代中期に遣唐使が中止されて以後も、中国や朝鮮などとを結ぶ海外貿易ネットワークが健在であり、その貿易を担う中国などからの渡来人が多数日本に来航して定住し、貿易だけではなく、さまざまな商工業にも従事していたという事実が背景にあることを忘れてはならない。先にも触れたように、大仏の頭部を鋳造した陳和卿自身が宋と日本との貿易を担っていた商人だったのであり、東大寺再建を担った重源自身もまた、このネットワークを背景として、三度に渡って宋に渡った僧侶であったのである。

唐の滅亡前後、特に10世紀以降には、宋からやってきた商人たちが九州・山陰・北陸の地にしばしば現われたが、彼らも「唐人」と呼び習わされた。そして大宰府や博多、そして越前の敦賀には唐人が住みつき、博多には大唐街という唐人の町があったと言われている。

こうしたネットワークを背景として平安時代から鎌倉時代においては、日宋貿易が盛んに行われていた。

鳥羽院政期に醍醐に作られた八角二階の大蔵卿堂の建築様式は、後の禅宗様式に近く、それに近接して立てられた方形堂は後の大仏様式に近いといい、この時代にすでに宋の建築様式が取り入れられている。すなわち、宋の技術者たちがすでに来航していたのだ。さらに、先にも記したが、高名な学者でもあった藤原頼長は中国から書物を輸入するために宋の商人に書物の入手リストを作って手渡し、そのために陸奥の国にある荘園の年貢の増額を求めていた。また同時期の藤原信西は、遣唐使に任じられることを考えて中国語を習っていたと伝えられており、博多に所領を有する神崎庄を知行している事から、ここを通じて貿易にも関わっていた。

同じく神崎庄を知行していた平忠盛・清盛父子が、そこを通じた貿易に対する大宰府の統制を、院宣と称して跳ね除けていたことは有名であるし、太宰大弐となった清盛は、博多が手狭なことから、宋の商船を直接都の近くに引き入れようと、播磨の大和田の泊りを修築したこともよく知られている。

このように平安時代においても中国との貿易ネットワークは維持され、それは主に宋人の商人によって担われ、彼らの多くは日本に定住して日本人の妻を娶っていたのであった。

この傾向はそのまま鎌倉時代・室町時代と継続し、元とは戦いを交えたとはいえ、民間の貿易は、日本に在住する中国の商人によって担われていたのであった。このことは1976年に韓国の近海で発見された室町時代初期の沈没船によって証明される。全長28m、最大幅9.3mのこの船は、典型的なジャンク船の特徴を持ち、おそらく船主は中国人の商人であろう。そして積荷としては陶磁器18600余点、銅銭28トン(800万枚)、紫檀材1000余本などがあり、中国の港・ニンポウから日本に向かう途中で沈没したものと見られている。また荷札と見られる木簡の中には「東福寺」の文字も見られ、この積荷の一部の利益が東福寺再建の費用に当てられるものであったことも推測できる。

そして日明貿易の発展とともに室町時代から戦国時代にかけて日本の各地に中国商人は来航し、戦国時代には各地に唐人町が形成された。それは九州の豊後臼杵・府内・日向都城・薩摩・大隈の各地・肥後熊本・伊倉・博多・豊前小倉・平戸・五島・島原の口之津などであるが、唐人町の存在は、その他に、山口・松山・小田原・川越にも存在が確認されている。このうちの小田原の唐人町は、永禄9(1566)年に三崎浦に着船した唐人たちのうちで帰国しなかったものが住んだ所である事が判明している。

これら各地の唐人町は日本人との雑居であり、居住中国人の移転も多く、さらに彼らは日本人女性を妻として、2世の代になると日本名を名乗る事から、多くは東南アジアのような華僑社会は形成せず、後に江戸幕府による通商制限によって後続の渡来が絶たれるとともに、日本人社会の中に溶け込んでいったものと見られている。

・多数渡来した商人や工人

このようなネットワークを背景として中国から多数の人々が日本にやってきており、彼らの中には日本に定住して商工業を商うものも多数いた。

博多に住んできた唐人の中には、石清水八幡宮の末社である箱崎八幡に属して寄人となり、免田や給田を与えられたものもかなりいた。またこれらの唐人の中で、延暦寺につらなり、その末寺の大山寺の神人となったものがおり、その一人の張光安というものが殺されて、比叡山の山僧が強訴を行ったと言う記録が鎌倉時代の初期にある。

さらに、鎌倉時代後期の蔵人所の牒に、櫛や薬を諸国をめぐりながら売り歩いている唐人を商売の特権を犯したと訴えた記述も見られ、唐人の中には、日本で遍歴しながら商売をしていたものもいたことは確実である。また、越前北の庄に拠点を置いて絹や薬を商う橘屋という商人が、越前の朝倉氏や織田信長から商売の特権を保護する判物をもらっていたが、この橘屋は唐人座(薬を商う)と軽物座(絹を商う)を統括しており、この特権の由来を説いた嘉吉元(1441)年の偽綸旨には「唐商人はからいたるものなり」とあるので、橘屋自身が唐人商人の後裔であったものと思われる。

このように各地で唐人の商人が活動していたが、日本に移り住んで活動していたのは商人だけではなかった。それは先に示した陳和卿とともに鋳物師や石工が渡ってきて活動していたことにも示されるように、多くの工人集団や、さらには様々な知識をもった知識人たちも、多数渡来していたのである。

工人集団については確実な史料が少なく、史料的に確かめられる先の石工以外には、絹織物の織工や製陶技術者が渡来していたことは確かめられている。そしてこれ以外にも、建築技術・鉱山技術・銀吹き法・瓦焼き・漆喰技術・花火・線香・饅頭や飴などさまざまな技術面において、中国から多くの工人が渡来していたと考えねば理解できない技術面の飛躍があったことから傍証される。

そして知識人については、元の滅亡後、元朝の礼部員外郎の官にあった陳宗敬が来日し、その子孫が京都で医業に従って広めた薬透頂香(とうちんこう)を外郎(ういろう)と呼んで珍重されたことにも示されるように、医学や薬・漢学の素養をもったものたちが多数来航し、彼らは戦国大名にも家臣としてつかえ、登用されていたのであった。船二隻、乗組員100人、馬5匹を率いて平戸に漂着した張忠は、大内義隆に召し出されて山口に邸宅を構え、医術をもって大内氏に使え、その子孫は毛利氏にも使えた。張忠は軍事にも明るくしばしば明の兵法を説いたといい、彼の子の六左衛門は1595年に2800石を賜っている。また、1574年には、佐竹義重に寓する明人が出羽米沢の伊達輝宗に謁見しており、1589年には伊達政宗が明人の花火の曲芸を見ている。

このように多くのものが中国から日本に渡来し、日本の技術や知識の向上にも寄与していたのである。

注: 唐が滅んで宋の時代になっても中国の人を唐人と呼んでいる。実は、遣唐使があった時代の人々と同一民族で、縄文人(日本人)と同族の殷人の末裔が残存して、日宋貿易に従事していたと推測される。


 ⑤-2 宋代の貿易航路(参考)

唐末五代の混乱期を経て宋朝の中国再統一がなると、治安の安定、国内諸産業の発展、南海貿易の復興などによって、宋海商の日本来航は唐代をはるかにしのぐようになった。宋海商らは、東シナ海のモンスーン・海流を熟知し、日宋間を片道5~7日で航海した。彼らは、5、6月の西南風に乗って来日し、翌年3、4月の東北風を利用して帰航するのが通例であった。


注: 揚子江下流域の水稲稲作の弥生人達は既にこの航路を知っており、北九州に上陸した。


⑥ 薬師如来の東方浄瑠璃浄土を目指して日本に渡海して、薬師如来像を多く遺した(参考)。


⑦ 遣隋使・遣唐使が交流していた時代、極めて多くの渡来人達が日本列島に向けて渡海していた