西本願寺の大谷本廟に親鸞聖人が葬られていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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この親鸞聖人のお荼毘所の場所は西本願寺では大谷本廟の北側、鳥辺山にあるとされている。

東山区の六波羅探題跡あたりに、平安京郊外にあった墓所、鳥部野(とりべの)(鳥辺野)があったことが、考古学的に明らかにされた。

すなわち、親鸞聖人は1262年、押小路南、万里小路東の善法院で入滅、娘の覚信尼により鳥部野の南、延仁寺にて火葬され、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められたと伝えられ、まさに西本願寺が主張する場所が最も近くであった。

赤印: 親鸞聖人御荼毘所、大谷本廟内

赤印: 大谷本廟(西本願寺)の親鸞聖人御荼毘所
黄印: 京都市東山区三盛町162 六波羅探題跡


参考

① 平氏一門の屋敷跡から墓石の原型が出土 一帯は墓所「鳥部野」か

京都新聞(2019.9.10、参考)

平安京郊外にあった墓所、鳥部野(とりべの)(鳥辺野)で埋葬された貴族の墓に使われたとみられる平安時代ごろの「笠塔婆(かさとうば)」が京都市東山区の六波羅政庁跡で見つかったと、民間調査会社・文化財サービス(伏見区)が9日発表した。鳥辺野が旧五条通(現松原通)南側に広がり、一帯を拠点とした平清盛の都市開発によって葬送地から姿を変えた変遷を考古的に裏付ける発見としている。

笠塔婆は墓石の原形で3基が見つかった。うち最大の1基は石製で11世紀半ば~12世紀前半とみられ、国内最古級となる。六角形をした最頂部の笠と軸、四角形の土台が確認され、推定の高さは約1・8メートル。軸にはお経を収めるくぼみ「奉籠孔(ほうろうこう)」(幅約12センチ、奥行き約6センチ)があった。

調査地は平安末期に平氏一門が屋敷を構えた「六波羅邸」跡(東山区五条通東大路西入ル北側)。8月までの同社の発掘で清盛が活躍した時代に築かれた軍事防御用の堀が見つかり、堀や周辺から笠塔婆のほか、方形に区画されたり、木棺を用いたりした11世紀~12世紀中ごろの墓計7基が出土していた。

平安期の墓は平安京内では禁止されたため郊外につくられ、鳥辺野が最も知られる。文化財サービスは「平氏による開発で葬送地が武家の拠点に変わり、詳細位置が不明な鳥辺野が少なくとも現五条通から旧五条通にはあったことが考古的に明らかになった」とする。

元興寺文化財研究所の狭川真一副所長(仏教考古学)は「『餓鬼草紙』の絵は京近郊の墓所の風景を描いたとされ、想起させる遺構は重要な発見と言える。調査地は墓が規則性を持って並ぶなど計画的につくられた墓域だったとみられ、鳥辺野全域において絵のように放置遺体が散乱していた可能性は低い。方形区画墓や笠塔婆を備えた点などから、藤原氏傍流といった貴族の一族墓所があったのではないか」と話している。

笠塔婆は21日まで下京区の京都産業大むすびわざ館(日曜・祝日休館)で、22日~11月4日は上京区の市考古資料館(月曜休館だが祝日の場合は翌日休館)で展示される。いずれも入場無料。

発掘調査を基に再現した鳥辺野の貴族の一族墓所のイメージ図。奥にある方形区画墓の前に笠塔婆が立つ(文化財サービス提供)


② 平安京の葬送地「鳥辺野」墓跡か、複数出土…徒然草や源氏物語にも登場

読売新聞(2019.9.10、参考)

平安京の葬送地「鳥辺野(とりべの)があったとされる京都市東山区の一角で、ほぼ出土例のない平安時代後期の墓跡が複数出土したと、民間発掘調査会社「文化財サービス」が9日発表した。専門家は「墓を計画的に整備していたことがわかる重要な発見」としている。

鳥辺野は平安京周辺にあった墓地の一つ。徒然草や源氏物語に登場し、藤原道長が荼毘(だび)に付されたという。同社は昨年12月~今年8月、約800平方メートルを調査。周囲を溝で区切った方形区画墓3基、木棺墓3基、供養塔「笠塔婆(かさとうば)」の断片など11世紀半ば~12世紀半ば頃の墓跡が出土した。

西側に方形区画墓2基が南北に並び、東側に木棺墓3基が直線上にあった。方形区画墓の一つは9・2メートル四方あり、平安貴族の墓の可能性があるという。石造の笠塔婆は平安時代では初の出土例で国内最古とみられるという。西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は「鳥辺野の詳しい場所や墓の形状はわかっていなかった。規模や形が様々な墓が整然と並ぶ様子が推測される画期的な発見」と話している。


③ 平氏六波羅邸跡・六波羅政庁跡 (京都市東山区)

京都風光(参考)

平安時代に武将・平正盛は、六波羅殿(亭)(ろくはらどの)に邸宅を構えた。その後、忠盛、清盛に引き継がれる。

六波羅(東山区松原町付近、鴨川東岸の五条-七条間)は、平氏政権の本拠地として、邸宅群の平氏六波羅邸も形成される。六波羅政権、六波羅時代の呼称も生まれる。

その後、鎌倉幕府は六波羅の地に幕府の出張機関である六波羅探題(ろくはら たんだい)を置く。

◆歴史年表 平安時代後期、武将・平正盛(?-1121)は、六道珍皇寺より借地し、六波羅殿(亭)の方1町(珍皇寺付近)に住んだ。(長門本『平家物語』)

1110年頃、正盛は、死後の極楽往生を祈願し、愛宕寺内に三昧堂を建立した。後に、常光堂(常光院)と呼ばれる。

正盛の子・武将・忠盛(1096-1153)は六波羅殿付近に邸宅を建てる。

正盛の孫・武将・清盛(1118-1181)の時、最盛期を迎えた。20余町に拡張され、一族郎党の家数170余宇とも、館は数千、細かく数えて5200余戸が集っていたともいう。 (長門本『平家物語』)

1183年、平氏一門は、第81代・安徳天皇・神器を奉じ都落ちした。六波羅邸には一門自らの手により火が放たれる。忠盛、清盛、重盛の墓も掘り出され、遺骸は法領寺の仏前に並べられ火が放たれたという。(長門本『平家物語』)

鎌倉時代、1185年以来、鎌倉幕府は京都守護を置き、洛中警備、鎌倉との連絡に当たらせた。

1190年、武将・源頼朝は、上洛の際に清盛の居館「池殿」を修復して宿所にする。

1192年、北条政権は、平氏六波羅邸跡(東山区松原町付近)に六波羅政庁を置いた。

1221年、承久の変では、後鳥羽上皇(第82代)が討幕の兵を挙げた。京都守護・大江親広は上皇方に加わり、京都守護・伊賀光季は上皇方に討たれた。武将・北条時房、泰時は、幕府大軍を率いて京都を攻め勝利した。両者は六波羅の北、南の居館にそれぞれ駐留し、戦後処理にあたる。上皇方に付いた貴族・武士の所領を没収し、上皇は隠岐に流した。六波羅探題の始まりになる。

1319年-1322年頃、「京都には六波羅殿を云ふ」とあり、六波羅探題の文献初見になる。(『沙汰未練書』)

1333年、5月、第96代・後醍醐天皇の討幕軍により、天皇方の公卿・千種忠顕、武将・赤松則村、武将・足利高(尊) 氏らが六波羅政庁を攻撃した。探題・北条仲時は持明院統の後伏見上皇(第93代)、花園上皇(第95代)、北朝第1代・光厳天皇を奉じて逃走し、近江で敗死した。六波羅探題は滅亡する。(元弘の乱)

◆平正盛 平安時代後期の武将・平正盛(たいら の まさもり、? -1121?) 。平正衡の子。平清盛の祖父。桓武平氏の一系統・伊勢平氏に属した。1097年、伊賀所領を白河上皇(第72代)皇女・郁芳門院菩提所六条院に寄進し、上皇に接近し院近臣になる。北面の武士になった。1108年、出雲国・源義親(よしちか)の反乱追討、伊予・海賊追捕、1119年、肥前国・平真澄の乱を鎮圧する。以後、若狭、因幡、但馬、丹後、備前、讃岐などの国司に任じられ、従四位下に至る。1110年、六波羅に、白河法皇の勝寺曼荼羅堂、御願寺九体阿弥陀堂を建立した。

白河院政を支える武士団を形成し、伊勢平氏発展の基礎を築いた。

◆平忠盛 平安時代後期の武将・平忠盛(たいら の ただもり、1096-1153)。平正盛の子。清盛の父。1113年、盗賊を追捕して従五位下、左衛門尉になった。永久の強訴にも父と活躍した。1123年、源為義と延暦寺衆徒の強訴を排した。1129年、山陽・南海両道の海賊を追捕した。白河上皇(第72代)の没後、鳥羽上皇(第74代)の近臣になる。1132年、鳥羽法皇のために得長寿院を造進し、内昇殿(うちのしようでん)を許される。刑部卿に進み、1133年、鳥羽院領の肥前神崎荘の預所の立場を利用し、日宋貿易に関与した。1135年、西海の海賊追討使に任命されて鎮圧した。

父についで白河上皇、鳥羽法皇の寵を得て、検非違使、越前、伊勢、河内、備前、美作(みまさか)、播磨、但馬(伯耆守)を歴任した。院庁にも進出し院領荘園を支配した。家集『平忠盛集』がある。

◆平清盛 平安時代後期の武将・平清盛(たいら の きよもり、1118-1181)。平忠盛の子。白河法皇(第72代)の落胤ともいう。母は祇園女御、またその妹ともいう。1129年、12歳で従五位下、左兵衛佐。1156年、保元の乱では、第77・後白河天皇につき崇徳上皇(第75代)方を破った。1159年、平治の乱では源義朝を破る。1160年、参議、1167年、太政大臣、1168年、病になり出家し静(浄)海と称した。摂津福原に移る。第80代・高倉天皇即位に協力した後白河法皇と対立する。1171年、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の女御として入内させた。1179年、清盛は法皇院政を停め鳥羽殿に幽閉した。1180年、以仁王が挙兵する。清盛は後白河法皇、高倉上皇、第81代・安徳天皇を伴い、福原に移る。半年で京都に還る。1181年、反抗した東大寺・興福寺を焼討ちしたが、その年に没した。

対宋貿易に力を入れた。約400日の初の武家政権を成立させた。

◆六波羅殿 平安時代後期、武将・平正盛(?-1121)は、六波羅殿(亭)の方1町に住んだ。1110年頃、正盛は、死後の極楽往生を祈願し、愛宕寺内に三昧堂を建立した。後に、常光堂と呼ばれる。孫・武将・平忠盛(1096-1153)は付近に邸宅を建てる。

武将・平清盛(1118-1181)の時、20余町を占め、一族郎党の館は数千とも、5200余戸が集っていたともいう。

1183年、平氏一門は安徳天皇と神器を奉じ都落ちした。六波羅邸には平氏自らの手により火が放たれた。忠盛、清盛、重盛の墓は掘り出され、遺骸は法領寺の仏前に並べられ火が放たれたという。

◈清盛の「泉殿」(三盛町、旧泉殿町)には、常光院があり、塔が建ち京の百塔巡礼の一とされた。鎮守社・伊津伎島(いつきしま、厳島)神が祀られ、安芸宮島から勧請された。

なお、三盛町の三盛とは、清盛、頼盛、教盛の三兄弟の名に因むともいう。

◈清盛の嫡男・平重盛(1138-1179)の居館は「小松殿」(八条の北、堀川の西)と呼ばれた。

◈清盛の異母弟・武将・公卿・頼盛(1131-1186)の館「池殿」(東山区池殿町)は、清盛の継母・池禅尼(いけ の ぜんに、?-?)の邸宅だった。その子・頼盛が引き継いでいる。(『山槐記』)

後、第80代・高倉天皇(1161-1181)の御座所になり、この池殿で中宮・建礼門院平徳子(1155-1214)(清盛の娘)は第81代・安徳天皇(1178-1185)を産んだ。

◈清盛の異母弟・武将・教盛(1128-1185)の館「門脇殿」(東山区門脇町)があった。教盛の号は門脇であり地名由来になった。(『京町鑑』『坊目誌』)。

なお、六波羅邸の惣門(東山区多門町)は、東に向かって開かれ、その門脇に門脇殿があったという。

◆六波羅探題 鎌倉時代、1221年の承久の乱後、鎌倉幕府は北条時房、泰時を京都に常駐させた。幕府は六波羅の地に出張機関の六波羅探題(ろくはらたんだい)を置いた。長官も六波羅探題と呼ばれた。当初は「六波羅」「六波羅守護」と呼ばれ、南北朝時代以後に「六波羅探題」と呼ばれる。

六波羅探題は、幕府の執権、連署(れんしょ)に次ぐ権限があった。北条氏の一族から有力者が2人、1人が交代で任命された。上席の六波羅北方(北殿) 、六波羅南方(南殿) があり、両者は「両探題」と呼ばれた。引付頭人(ひきつけ とうにん)、検断頭人(けんだん とうにん)、侍所(さむらいどころ)、問注所(もんちゅうじょ)を指揮した。

探題の任務は、警察機関として朝廷の監視・折衝、洛中警固・反幕分子の抑制、近国の治安維持・西国御家人の統制などだった。有事の際には、在京・近隣国御家人を指揮する権限があった。

訴訟機関でもあり、後に次第に裁判権が強化された。評定衆(ひょうじょうしゅう)、同引付衆(ひきつけしゅう)も設けられた。政治・軍事を管掌し、東海道は尾張(後に三河) より西、北陸道は越前より西を管轄した。永仁年間(1293-1299)に、尾張・加賀以西の鎮西探題(鎮西奉行) が新設され、九州は除外された。

1333年、六波羅探題は鎌倉幕府の滅亡の際に足利尊氏の攻撃を受けた。北条仲時は近江に逃れて自害し、六波羅探題は滅亡している。(元弘の乱)

◆史跡・地名 六波羅蜜寺境内(轆轤町)に「六波羅探題府址」の石標が立てられていた。

周辺に三盛町(旧泉殿町)、門脇町、池殿町、多門町などのかつての平氏六波羅殿ゆかりの町名が残る。

妙順寺(山崎町)に「安徳天皇産湯ノ井」「釣殿井」と伝えられる井泉がある。

*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都市の地名』 、ウェブサイト「都市史09 六波羅 - 京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


④ 親鸞聖人を荼毘に付した場所

西本願寺では大谷本廟の北側、鳥辺山にあるとされている。これに対し、東本願寺では東山区今熊野総山町にある現在の延仁寺であるとする。