下関市伊崎町のお寺 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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三蓮寺(赤四角)・海晏寺(黄四角)・利慶寺(緑四角)

蔀戸は平安時代の貴族建築の一種で、寝殿造りの「跳ね上げ式の建具」である。一般住宅としては引き違い戸ができる安土桃山時代頃までに造られたが、江戸時代に入ってからは神社仏閣以外では使われなくなったといわれている。その蔀戸は戦前には市内のあちこちで何軒か残っていたが、今ではここ伊崎と彦島福浦の一軒くらいのものだろう。時代の流れと共に玄関や引き戸が次々とアルミサッシに変えられていく昨今、その風潮を拒否して蔀戸が生き続けているということは何よりも嬉しい。

三蓮寺は文久三年五月の攘夷決行に際して。萩本藩から下関入りした正規兵たちの一部の宿舎にあてられたお寺である。しかし、本堂は最近、鉄筋造りに改装されて当時の面影はない。その本堂の横から裏手へかけては墓地になっているが「権中僧正随空上人の碑」とか、「諸魚諸餌供養塚」が建っている。裏面には嘉永五年とあるが横には安政四年十一月となっていて、この意味は判らない。供養塚には鯛の絵が浮き彫りされてある。「諸魚」はここが漁師町である関係からで、「諸餌」は人間にとってのあらゆる食べ物という意味であろうか、それとも魚を釣るための単なるエサであろうか。いずれにしても供養塚は宗教的な匂いの他に、日本人らしいやさしさが感じられて心なごむ。下関の河豚供養は俳句歳時記にも収録されていて全国的にも名高いが、その他にも雲丹供養もあれば包丁供養もあり、長門市には鯨の墓まである。なんというあたたかさであろう。

三連寺の少し東よりの石鳥居は伊崎の鈴ヶ森さんと呼び親しまれている鈴ヶ森稲荷神社。約九十段登ってあとの四十段は男坂といい右へそれて登る坂道は女坂という。しかし、この男坂を登った正面の社殿は厳島神社である。だから本当は伊崎の厳島さんと呼ぶべきところだが、新地にも同じ呼び名の神社があるので隣り合わせのお稲荷さんの名前をとって鈴ヶ森さんと呼びならしてきたのだ。このお宮の裏山は、おどろ山とか茶臼山と名付けられた王城山で、平家の砦、つまり、お城があった丘陵だと伝えられる。だから厳島神社は安芸の宮島と同じく平家の守護神だと古老たちは言う。ところで鈴ヶ森という名は幡随院長兵衛と白井権八を思い出しそうだが、ここでは関門海峡の別名「硯の海」がなまったものとか、「鈴ふり海」が転じたものだとか、その伝えられるところは多い。そんな古くからの話を聞くだけでも石段を喘いだ甲斐はあろうていうもの。そして、もっと詳しく知りたいとお思いなら「下関二千年史」や「長門国志」「下関御開作風土記」などを繙けばいい。

くだりはお稲荷さんの朱塗りの鳥居をくぐろう。石段を降りたところの駐車場を左に折れてしばらく行くと海晏寺の参道下に出る。山門のそばに「禁不葷酒」と書いてあるが、現在では「ネギを食べて」どころではなく、境内にニンニクを植えたり酒場を経営したりしても誰もとがめはしないに違いない。これもご時世か、と言っても禅宗のお寺には「禁葷酒入山門」と大きく刻んだ石柱はふさわしい。そのそばに「小笠原流 盛花 瓶花教授」の看板がさがっているが、ここのお花教室の歴史は古い。昔から多くのお嬢さんが花束を提げてこの山門をくぐっては花嫁修行に勤しんだ。石段を登ると正面が本堂。その屋根瓦や「海晏寺」と書かれた扁額、そしてふすま絵などに毛利家の定紋が描かれたり浮き出ていたりする。殿様の厚い庇護を受けていたのだろう。そういえばここの仏様は平家の守護仏だと伝えられている。下関市内では彦島西楽寺の阿弥陀様が平重盛の守護仏だといわれているので双璧ということができようか。その本堂には達磨大師の軸や驚くほどデカイ木魚などもあって、外に出ると墓地の前に豊川稲荷が祀られている。神仏合体がここでも生きているわけだ。そして、そばに聳え立つ大イチョウは当然のことながら下関市の保存樹木に指定されている。鐘楼は、参道を登った右手にある。その奥に建っている顕彰碑は約二百年前に詩や俳句や茶道の世界に広く名を知られ、寺子屋を開いて庶民教育にも力をつくした鈴木由己を讃えるものである。この碑文は長府藩の儒学者、小田亨叔が書いたが、それは由己と亨叔の学問的なつながりを示すものとして貴重な資料となっている。由己は寛政七年に八十七歳で歿し、亨叔は寛政十三年に五十五歳で入寂。

さて、海晏寺の参道を下って左の小路へ入ろう。子供達の歌声などが聞こえて浄土真宗本願寺派の利慶寺が近い。本当は「リケイジ」と読むのだが、市内の古い人々の中には「リキエイジ」と呼ぶ人も多い。東の赤間神宮の古刹「阿弥陀寺」を「アミダイジ」と呼ぶのに似て、利慶寺の呼び方も懐かしいものの一つに数えられるべきだろう。子供達の明るいはしゃぎや歌声は境内の一角に建てられた慈光保育園で、その右に本堂と庫裏が並んでいる。山門は本堂の真正面にあるが、狭い境内に下関市の保存樹木に指定されている大イチョウが繁っているためか、いつ来てもイメージはなんとなく暗い。それを救ってくれるのは園児たちの底抜けな明るさだろう。お寺と保育園…和尚さんと子供達…  それは、実に日本的な情景で心がなごむ。

(.冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」 昭和51年 赤間関書房)(彦島のけしきより)