空襲で焼けるまでの唐戸の街並み | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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下関市街(大正時代)(金子みすゞの世界より)

紅石山より下関港を望む(写真集 明治大正昭和 下関より)

一番手前は勝応寺である。そのちょっと上のが引接寺である。左手の海の中に帆橋が本当に林のごとく見えており、しかも湾が、ひっこんでいる。大分古い時代の写真である。おそらく明治時代のものであろうか。何とはなく風格がある。

明治初期の唐戸(下関懐古写真帳)、右が関門海峡


参考

昭和20年の空襲の後の唐戸、正面が亀山八幡宮
昭和20年の空襲の後の唐戸、右上に火の山
昭和20年の空襲の後の唐戸、左に紅石山、中央右に門司の古城山

戦災

太平洋戦争の戦災で、下関は、中国地方では広島に次いで大規模なものであった。

1945年(昭和20) 6月29日と7月2日に、アメリカ軍の大爆撃を受け、市街地の中心が焼失した。死者は324人、被災者は合計4万人を数えた。

それに先立って前年には、被害を最小限に留めるため、疎開があった。まず、無職者·応召者の家族、遺族など2,572人の任意疎開が行われた。続いて、軍事施設や、重要官公署への類焼を免れるため、建物を前もって壊しておく建物疎開も行われた。

関門海峡には、全国に落下された機雷総数11,000発の約半数が落とされ、関門海峡の重要さを物語っている。

(下関市年表より)

初めての体当たり攻撃を受け、墜落するB29 (関門上空·昭和19年)

小月基地所属の野辺機により敢行された体当たり攻撃によって、一度に2機のB29を撃墜した。のちに小月基地でも「回天隊」の名でB29に体当たりする攻撃隊が編成された。

(下関・豊浦の100年より)