野見宿禰は長州藩の毛利氏の祖先の大江氏や菅原道真公の菅原氏のさらに祖先の土師氏の始祖であった。
また、野見宿禰は出雲に天下った天穂日命の子孫となっている。彼は相撲の始祖と言うだけではなく、殉死者の代わりに埴輪を墳墓に埋めることを提案したことで知られている。
参考
日本国技発祥の地・相撲神社
日本書紀によりますと今から2000年ほど遡る、第十一代・垂仁(すいにん)天皇の御世、大和国の當麻邑(たいまむら)に當麻蹴速(たいまのけはや)という人物がおり、手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から「この世で自分と互角に力比べができる者がいれば、その人物と対戦したいものだ」と豪語していました。
その話を耳にした垂仁天皇はその話をお聞きになり、「どこかに當麻蹴速と互角に戦える者はいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲国の野見宿禰(のみのすくね)も相当な力自慢だそうです。この人物を呼び寄せ蹴速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言しました。
大いに賛成された天皇の命により二人が招集され、垂仁天皇7年の7月7日まさにこの地で野見宿禰と當麻蹴速の角力の対戦が行われました。この二人の力比べこそが相撲の発祥とされ、また日本初の天覧相撲であったと伝えられています。
国技である相撲の原点といわれるほどの神社ですから、国技館とまではいきませんが、それなりに立派な社殿が建っているのではないかと想像してしまいますが、ここには小さな祠がポツンとあるだけで、他に建物は何も有りません。
この石碑が置かれた場所で、壮絶な戦いが行われたことを感じることしかできませんが、昭和37年には大鵬(たいほう)と柏戸(かしわど)というに横綱をはじめとする五大関以下、全幕内力士が参列した顕彰大祭がおこなわれて、こちらの境内で土俵入りも行われています。