唐・新羅連合軍の侵攻を防ぐ為とされた水城や朝鮮式山城は地元民を抑え込む為に作られた!? | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

白村江の戦いの敗戦後、大和朝廷は唐・新羅連合軍の日本列島への侵攻をおそれて、大宰府あたりに水城を築造し、さらに朝鮮式山城を北部九州から瀬戸内海に作ったと日本書紀などに書かれ定説になっている。

しかし、疑問に思っていたのに、① 太宰府あたりを強固に守る必要があるとも思えないし、② 瀬戸内海に朝鮮式山城を作るくらいなら関門海峡周辺に強固な要塞を築けば済み、また、古代の関門海峡は多くの岩礁で大きな軍船は入って来れなく、③ 大和の首都の防衛なら、対馬海流に乗って山陰海岸に上陸する敵を防ぐ方が効果的であるのに日本書紀には明記されていない、などがある。

朝鮮半島からの侵攻に対して、実は『大和朝廷は、新羅の侵攻に備え宝亀5年に、筑前国に、貞観9年5月には八幅の四天王像各一鋪を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の5国に下され、堂宇を日本海が見下ろせる小高い山上に建て安置した』ように、山陰側に寺院を建立して対応していた。現在なら朽ちた堂宇と仏像のセットを想像するが、廃仏毀釈の前の江戸時代までは、広大な寺領と領民を有する軍団の司令部と考えられる。

それでは、日本書紀に書かれた太宰府の水城や朝鮮式山城は何だったのであろうか??

実は、太宰府のある九州から瀬戸内海は、大和政権に反抗的で新羅と同族の熊襲と仲間たち(揚子江下流域の呉・越の国辺りから渡来した稲作弥生人)の勢力範囲であり、彼らの高地性集落や環濠集落が存在していた。日本書紀に書かれた水城は熊襲の通行を阻害し、朝鮮式山城は熊襲と仲間達を監視する為の施設であったのである。ただし、対馬の金田の朝鮮式山城は唐、新羅と熊襲の往来を監視する基地として実質的に機能したと考えられる。

それでは、何故、嘘を日本書紀に書いたのであろうか??それは、山陰側の防衛の重要性を隠し、かつ、熊襲らに水城や朝鮮式山城の真の建設理由を隠したかったからと思われる。古事記や日本書紀などは、後世の日本国民のみならず諸外国の人からも読まれることを想定したもので、虚実を織り交ぜていると考えられる。


雑談

九州の神籠石山城の築造はよく分からないが、やはり大和朝廷の土木技術者によると考えられ、砂防ダム的なものであり白村江の戦いとは関係無く、砦の類いではなさそうだ(参考)。


参考

①-1 白村江の戦いの敗戦後の対応(参考)

天智2年(663)8月、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本軍は朝鮮半島から撤退を余儀なくされた。

大和朝廷は、新羅の侵攻に備え宝亀5年(774)に、筑前国に、貞観9年(867)5月には八幅の四天王像各一鋪を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の5国に下され、堂宇を日本海が見下ろせる小高い山上に建て安置した。伯耆国・出雲国・長門国それぞれの国府の北側を守護する位置におかれてた。多聞天(毘沙門天)が守護する北に、さらに四天王持国天・増長天・広目天を設けた。


①-2 新羅からの賊への対応に関する三代実録での記述(参考)

『三代実録』によると、866年、清和天皇貞観8年11月17目の勅に、怪異が 出現したので占なったところ、新羅の賊兵が日本をうかがっているためとわかり、災変を未然ピ防止するためには神明の加護に頼らなげればならないとし て、能登・因幡・伯者・出雲・石見・隠岐・長門の諸国と大宰府に命じて、領内の神々に祈願をさせた。そして翌867年には、八幡の四天王像五舗をつくり、伯者・出雲・石見・隠岐・長門の五か国こ配付、国ことに四王寺を創建して賊心調伏、災変消却を厳修するように命じた。


② 石見神楽 塵倫(参考)、、、島根県浜田市の神楽

八調子では神2人鬼2人が対決する、鬼舞の代表的な神楽。

第十四代の帝・帯中津日子の天皇が、異国より日本に攻め来る数万騎の軍勢を迎え撃つ。その中に塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する悪鬼がいると聞き、天の鹿児弓、天の羽々矢を持って高麻呂を従え討伐に向かい、激戦の末に退治する。「弓矢とる人を守りの八幡山 誓いは深き岩清水かな」

●山口県下関市 忌宮神社(いみのみやじんじゃ)伝

仲哀天皇の7年(198年)のとき、新羅国の凶酋塵輪(じんりん:真ん中に大きな鬼の顔、その回りにやや小さな鬼の顔が7つあり全部で8つの鬼の顔からなる)が熊襲を扇動して、豊浦宮(仲哀天皇が設けた仮皇居)に攻め寄せて来ました。これに対し、皇軍は大いに奮戦しましたが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が空から射かけるために苦戦し、宮門を守護する阿部高麿・弟助麿も相次いで討死しました。そこで天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず」と大いに憤たせ給い、ついに御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落とされました。そして賊軍は退散し、皇軍歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊り狂ったと言われています。また、塵輪の首を切ってその場に大きな石で覆ったが、塵輪の顔が鬼のようであったことから、その石を鬼石と言い伝えられています。

●校定石見神楽台本より

この曲は八幡宮縁起(那賀軍雲城村八幡宮蔵、元禄己巳貝原好古の著)からとったものである。文句までも同じ個所があるから、少し長いが引用しよう。同書巻之一、仲哀天皇紀九年の條に、「今按ずるに誉田ノ宮ノ縁起、石清水ノ宮ノ縁起、八幡愚蒙訓などにしるし侍るは、仲哀天皇の御宇に当りて、新羅国より数万の軍兵せめ来りて、日本を討とらんとす。

是により天皇みづから五万余人の官軍を相したがえ、長門ノ国豊浦ノ宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉う。この時異国より塵輪というふしぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来り、人民をとりころすこと数を知らず。天皇、安倍高丸、同助丸に仰て、惣門をかためさせ、塵輪来らば、いそぎ奏すべし。人民の身にてたやすく打事あるべからず。我十善の身を以て彼ものを誅伏せしめんと命じ玉う。則かの二人弓剣を帯して、門の左右を守護しけるに、第六日にあたりて、塵輪黒雲に乗じて出来る。高丸、武内大臣を以て此よしを奉しけるに、天皇御弓を取、矢をはげて、塵輪を射させ給えば、塵輪が頭たちまちに射きられて、頭と身と二つになりて落ぬ。かかる処に何にかしたりけん、流矢来りて玉体につつがあり。(中略)此事日本紀の本説にたがい、ことに頭八ある人黒雲に乗じて来るなどいえる事ほ、妄誕不経論ずるに足らず。」 とある。(この縁起は石田春昭氏の御紹介によるものである。)


③ 白村江の戦いに関わる倭国防衛の為とされる山城(参考)



④ 弥生時代の高地性集落(参考)



⑤ 弥生時代(AD2世紀)の青銅器と墳墓の分布(参考)

出雲辺りの人々が後の大和朝廷となり、九州の銅矛文化圏と近畿の銅鐸文化圏が呉・越からの稲作弥生人の勢力範囲である。瀬戸内海が三つの勢力が交差する不安定な地域であり、砦の役割として高地性集落を作ったと考えられる。大和朝廷は呉・越からの稲作弥生人を熊襲と呼んた。

朝鮮半島の新羅は熊襲と同族で呉・越からの稲作弥生人であり、当時、彼らが倭人と呼ばれていたようだ。


⑥ 水城の建設には地元民を動員している(参考)


⑦ 大宰府政庁と水城の秘密、、、熊襲と新羅を分断する為