漂泊・流浪の民とは! | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

かつて、日本には漂泊・流浪の民と言われる者たちがいた。彼らには、度重なる災害や戦乱で居住地を離れざるを得なかった者が多かったと思われる。
 
平家が滅びて、鎌倉幕府が成立した後、平家の落人の他、多くの所縁の者たちが居住地と既得権益を失い、漂泊・流浪の民になったと考えられる。下関市の秋根の遺跡などでも、源平合戦の前後の時期に一時的に消滅した集落があることが分かっている。

流浪の琵琶法師が平家物語を人々に聴かせて巡る旅も、戦乱で漂泊・流浪を余儀なくされた人々の生活手段であったのであろう。

(wikiより)


参考


平家物語の成立と琵琶法師

平家物語の成立したのは、承久年間

平家が壇ノ浦で滅びた寿永四年(1185)から、ほぼ30年たった頃、平家物語作者とされる前司行長、徒然草第二百二十六段に記されている。

前司行長が、剃髪して比叡山に入った後、慈鎮和尚の扶持を受け「平家物語」を作り、盲僧の生仏(高僧)に語らせたのが始まりだとしている。

生仏も琵琶法師の一人だったと思われる。琵琶法師の中には、乞食同然の者もいて、語り物を語って諸国を漂泊していたとも考えられるが、盲官という官職を授けられて、詩歌管弦をこととする者もいた。

生仏はそのような盲官であったと言われている。当時、比叡山は、源平の戦乱後、世捨て人が多く、源平の戦いに関わる人々も多く身を寄せる所だった。行長もそのひとりとして、記憶に新しい源平の戦について、生き証人達に尋ねるなどしながら、物語を書いたのだろう。

平家物語を貫く記録的方法には叙事的精神が根ざしている。それは平家物語の文体を貫いている。漢文体の記録的叙述の中にうかがうことができる。

徒然草(第二百二十六段)「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論義の番にめされて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心うき事にして、学問をすてゝ遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までもめしをきて、不便にせさせ給ければ、此信濃入道を扶持し給けり。此行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教てかたらせけり。さて、山門のことをことにゆゝしくかけり。九郎判官の事はくはしく知て書のせたり。蒲冠者の事はよくしらざりけるにや、おほくのことゞもをしるしもらせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国のものにて、武士に問聞てかゝせけり。彼生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたる也」